Man’yō-Cafe

2 avril 2019, mardi

 

新元号が万葉集を典拠にしているために、原案作成者として万葉学者の中西進先生がにわかに注目されている。

中西先生は10数年前は京都芸大学長で、ぼくが文化庁芸術家在外研修に出ることを心地よく認めて下さった。

ぼくが学生時代は現象学をやっていて、そこから紆余曲折して美術制作の道に入った歩みにも共感くださっていた。

当時ぼくは、高速道路で壊される風景に対峙する大枝アートプロジェクトをやっていたが、そこで改装した大枝土蔵で「万葉カフェ」を開くことを提案し、中西先生に出演を快諾いただいた。

 

大学から離れたところにある古い土蔵に簾を敷き詰め、水や食べ物、女学生たちの装束も万葉古代に範をとり、中西先生のリードでみなで歌を詠み合った、あの健やかな時間の流れは忘れがたい。

 

万葉カフェ

万葉カフェ

「万葉カフェ」2006年7月25日

 

ポスターをつくった当時の学生・中尾香那は今は電通でアートディレクターとして働く。

その後アーティストやものづくりの道に進んだ当時の学生たち。

ぼくはこの一ヶ月後の2006年初秋にフランスに旅立つ。

 

中西先生に帰国後、ご挨拶にいったら、すでに学長の席を退かれて、意外な俗物が京芸の学長になっていた。

「長」の地位が好きなその俗物は、のちに京都市美術館の名前を企業に売り渡した。

ぼくは中西学長を追い出した芸大の教員たちに幻滅した。

 

新元号の考案者としてNHKが中西先生にインタビューしようとしたが、きっぱり断わられたそうだ。

新元号は発表のやり方が政治ショー化している。それを見抜いての判断だと思う。さすがだ。

 

それはそうと、大枝アートプロジェクトのウェブサイトを置いていた芸大のサブサーバー jupiter が本当に廃止されたようだ。

京都芸大が大枝沓掛にあったときの貴重なアーカイブになるので、引越先を確保しないといけない。

ほかにも「つちのいえ」など、いろんなサイトを置かせてもらっていた。

サーバーの引っ越し、めんどくさい。

 

 

Cithare à une corde : Sumagoto

28 mars 2019, jeudi

 

平野重光さん宅に一弦琴を預かりに行く。

 

平野さんはぼくが信頼する数少ない美術史家で、もと京都市美術館学芸課長・倉敷芸術科学大学教授。

生家は青銅の製品づくりで著名な平野英青堂。

ご専門は近代日本画だが、同志社の美学出身で、若い頃は現代美術に関心が深く、1970年代は京都ビエンナーレなどの伝説的な現代美術展を京都市美術館で企画されていた。

 

2月に+1artでの「発酵をよむ」展に来廊いただいたが、あいにくぼくは不在だったので、お礼の手紙をさしあげたところ、

平野さんの祖母の故・平野ヨシさんの一弦琴と関連資料を京都芸大に寄贈したいが、どうかと返礼があったので、

この日に伝統音楽研究センターの竹内有一先生といっしょに山科のご自宅におうかがいした。

 

2月11日以来、何か弦楽器に縁を感じるのだ。

平野さんとの再会のきっかけになった「発酵をよむ」展は、発酵音の響きを造形的に空間化するものだったが、関連イベントの演奏会(2月11日)で、中川佳代子さんの和琴による「植物文様琴歌集」(藤枝守作曲)を聴いた。

奏者の息遣いと地続きのような、なまめいて繊細な響きに感心した。西洋クラシック音楽の「強い」楽器とはまったくちがう「弱い」弦楽器のあり方。

次いで、2月16日には、同じく藤枝守さんと中川佳代子さんらによる「糸が紡ぐ音の世界」

さらに3月17日に研修旅行の下見でいったみんぱくで、南アジアの弦楽器展に出くわした。

 

そして今度は一弦琴。

 

一弦琴は須磨琴ともいい、平安時代、六歌仙の一人・在原業平の兄の在原行平が須磨に流された際、寂しさを紛らわすために、浜辺に流れ着いた木片だか、軒の庇の板だかに、一本の糸を張ってつまびいたのが起源という伝説があるそうだ。

民音音楽博物館の記載によれば、「江戸時代初期に中国大陸より伝来し、河内国の僧により広まった。幕末に土佐藩士のあいだで流行し、土佐一絃琴と呼ばれた。須磨琴、板琴ともよばれる」とある。

板琴とも別称するだけあって、きわめてシンプルな構造。

 

一弦琴

弦をはる胴体部は桐製で、これは板状ではなく、中に空洞があって箱状になっていた。

一弦琴

表面には、ふつうは貝で点を打つ位置に、「和久楽葉仁志羅奈美多飛人(わくらばにしらなみたびと)」と漢字が刻んである。

由来がなぞ。

 

下に琴板を敷き、少し浮かせて共鳴させるが、音は小さいという。

コンサートなどでなく、少人数の集いの場で風流を楽しむために奏したらしい。

一弦琴

京都府の文化財保護課が録音したというテープも寄贈いただいた。

伝音ではすぐに聴ける再生機があるらしい。どんな音なのか、聴いて見たい。

 

平野さんの祖母の平野ヨシさんは、昭和36年に人間国宝に次ぐ無形文化財に指定された方。

そのころの貴重な新聞記事もいくつかいただいた。

なかなかすごいので、ひとつをここにアップしておく。

一弦琴

 

琴はまったく素人だが、弦一本だけで奏でるかたちがとても魅力的だ。

ひまになったら自分でも屋根の庇に弦をはってつまびいてみようかと思う。

柿沼敏江先生が習っていると竹内先生から聞いたが、これ()かな?

 

現代芸術にたずさわっていると、古いものに関心がいくのは、美術も音楽も同じなのか。

 

とにかく思わぬ縁で伝音に貢献した。不思議な春の一日。

 

 

Parc des petites inventions

23 mars 2019, lunedi

 

不思議な出会いというのがある。いや、再会といったらいいのか。

23日(土)夕方、崇仁高瀬川保勝会の春の川掃除チラシが届いたというので、柳原銀行記念資料館に取りに行ったら、たまたま吉田寮の学生たちが来ていて紹介された。

資料館職員の木村理恵さんも元吉田寮生で、京大時代は地理学専攻だったという。奇遇である。

(木村さんから、先のチラシにある「世界記録遺産」というのは、地域ではなく特定の歴史資料などに当てられる、と正された。)


吉田寮生たちのなかに『京大新聞』の編集部がいて、最新号と前号をもらった。これも久しぶりだ。

学生時代、京大新聞の広告欄に、当時の岡本道雄総長を批判する過激な猥褻漫画を描いて原稿料をもらったのが、ぼくのヴィジュアルの初ギャラだった。現物はもう残ってないが、クールベやデュシャンを援用した気がする。

 

木村さんは、今資料館でやっている「奪われた骨・奪われた人権——アイヌ民族・琉球民族・部落」という良企画展に、吉田寮のコーナーも設けることを考えたが、うまくいかず断念したという。

反動的な分断が進む現在、吉田寮のように分断線をかき混ぜるボーダーレスなコミュニティ空間を守る意味は小さくない。

吉田寮は京大の中でもマイノリティ。これから取り組んでいく先住民の問題にもつながるところがある。

 

とはいえ、学生時代、造形表現に関心をもたない吉田寮生一般のあいだにあって、ぼくは完全にマイノリティだった。

だからマイノリティのなかのマイノリティ。

それゆえ、吉田寮に特別の郷愁や愛着はないし、さらに芸術と無縁な京大にも母校感覚などない。

関東大震災の難民の孫であるぼくは、今も帰る先のない難民なのだ。

 

帰り道、クマグスクでやっている「カサルーデンス」のDIY探訪記展に立寄った。

「発酵をよむ」展にきてくれたはがみちこさんがメンバーのひとりで、彼女から『カサルーデンスのDIYレシピブック』をいただいた。

マイノリティが生き延びるには、何より工夫と技術しかない、と思っているので、興味深く読んだ。

少し前に大学院生たちとやっていた「くふうの公園」プロジェクトに通じる側面がある。

だがカサルーデンスのDIYはより個人主義的で、コミュニティ形成を志向しているところがちがう。

「くふうの公園」のサイトを見直してみたら、あらためて意義を感じた。

生きることを多少助けはするが、もっとアノニマスで、自己主張もなく、はかなく消えていく小さな工夫の数々。それを造形的なフィルターですくい上げていくこと。

この春、再開することにしよう。

 

le nettoyage du canal Takasegawa vol.18

20 mars 2019, mercredi


夜、春の崇仁テラス設置と川掃除のチラシを出稿する。

いつもの印刷会社のデータ受信にやたら時間がかかり、この日じゅうに送信完了しない懸念があって、深夜、印刷会社とやりとりする。

深夜まで会社に詰めて顧客対応に当たる社員もたいへんとは思うが、ブラックな仕事の進め方は、ぼく自身のスタジオそのものがやっている。作品制作だけしてたらいいのに、デザインもする。休みも娯楽もない日々。

高瀬川保勝会チラシ

 

]というウェブサイトがいつのまにかできている。

芸大の基本設計などの資料がダウンロードできるようになっている。

そこに、昨秋、ぼくが元崇仁小学校でやった「水の生きものでアートする」の展示光景が唯一の絵としてアップされている。

知らせてくれてもいいのに、と思う。子どもたちが描いた絵だからヴィジュアルとして使ったのだろう。

だが、ここまで導いた人間がいたことは無視。ヴィジュアルの生産者は無産者である。

 

・・・

この日、午前中は、十三回忌を忘れてしまった父の墓参。

三笠霊園の高台の上は無風だった。生駒山がはっきり見える。

 

墓の敷地の草抜きをしていると、スミレの若葉。

 

dessins

15 mars 2019, vendredi

 

この日は今年度最後の教授会。夜は美術学部の退任記念パーティ。

帰宅途中、ふと「絶筆」という言葉が頭をよぎる。

 

このところ、ずっと立体やインスタレーション、あるいはデザインばかりやっているが、

つい先日、東九条マダンやんそるさんから、今年度の報告書のために何か書いてほしいと頼まれ、久しぶりに鉛筆で絵を描いて提出した。昨秋のマダンの祭の動画を見ながら、マチスのダンスや山口薫が絶筆に描いた輪になった人間をぼんやり思い出しながら、鉛筆を動かした。

それが描きたい欲望に火をつけた。

絵を描くのが本来の人間であれば、やはり最後は「絶筆」とならねばならない、と思う。

自分はどんな絶筆になるか。

 

そう思って帰宅すると、深夜、どうしても筆で絵を描きたくなる。

絵筆を水に浸し、絵具を滲みさせると、筆先にビリビリと電気が走ったような感じがした。

 

「日々絶筆」という気構えは、井上有一だったか。

 

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