mémoire de la lumière

13 mars 2020, vendredi

 

5月末に予定している総合基礎の研修旅行の下見で、ひさしぶりに岡山を訪れた。

12日は、赤穂の塩の国(赤穂市海洋科学館)閑谷学校勝山町並み保存地区奈義町現代美術館と駆け足でまわって、最後の奈義町で小野和則さんと落ち合う。

小野さんには岡山時代(1990〜95年)にいろいろお世話になり、2000年、2001年には一緒に岡山で展覧会をやった。

もう78歳になるというのに、あいかわらずパジェロを乗りまわしておられ(現在は2台目、1台目は日本全国を走りまわって走行距離が94万キロ以上)、それに同乗して小野さんの自宅のある大佐町に向かった。

 

小野さんに誘われて一緒にやった「大佐町光の記憶」は、もう20年前になる。

当時の梅田町長が音頭をとって、「大佐町合併45周年記念事業」として行ったプロジェクトだった。

(1955年に刑部町など3町村が合併してできた大佐町は、2005年に新見市に合併された。)

 

2000年夏、今で言うアーティスト・イン・レジデンスにあたる町営の宿舎に泊まり込みながら、地域の環境そのものを文化財として提案することを企図して、川の源流を訪ねたり、石仏を調査したり、住民の古いアルバムから映像を起こしたりした。

二人展の会場になったのは、牛舎を建築家の丹羽英喜さんがリノベした「奥備中風土記館」だったが、小野さんによれば、ぼくらの展覧会が杮落としとなった風土記館は、今は閉鎖されているらしい。

1990年代はバブルの名残で、奈義町現代美術館のように「田舎の地に現代美術館」のような施設がいくつか生まれたが、福武財団の直島のような民間の施設とはちがって、公共団体が現代芸術に関わる公営の施設を維持することはまず無理だっただろう。

どう運営・展示していくかまで提案がまわらず、町役場まかせにしたのだから仕方ない。

 

小野和則さんは、制作することとアーカイブすることが重なる独特な作風をイタリア時代から継続している。

驚いたことに、小野さんは20年前の「大佐町光の記憶」のリサーチと提案の記録をきれいにファイル化していた。

小野和則と

ぼくはたしか「空の巻」担当だった。

 

小野和則邸

小野邸の2階のロフトは小野さんのアトリエになっている。

ぼくの昔の写真作品《Be twin -- Mr.N and Mr.D -- 》がかかっていた。

ぼくと小野さんは90年代、難波道弘さん(Mr.N)から難波産業のもと染織工場をアトリエに使わせてもらっていた。

 

翌日、小野さんとテキスタイル作家である奥さんの延子さんに、大佐の刑部川上流を案内してもらった。

小野和則と

県道112号線を北上、大佐ダムの近くにある「おーさ源流公園」に、寺田武弘さんの万成石の石彫を見つける。

岡山時代は寺田さんにも仲良くさせてもらった。

小野さんによれば、この作品はかつて蒜山公園にあったが、撤去される憂き目に会いかけ、この地に移設したという。そのことを寺田さん自身知らないらしい。

 

小野和則と

小野ご夫妻。御堂の滝の袂で。

 

大佐町

すごく意気込んだ文章。

 

大佐町

クマザサだ。東北の木地師が作業小屋の屋根に使ったりするものだ。

 

大佐町

いい茅だ。これも今やぼくには屋根材に見える。

 

フキノトウ

フキノトウが大佐ダムの北側の公園にがたくさん生えていた。

てんぷらにすれば春の味。

 

新型コロナウィルスの事件がなければ、この日は東京のNadiffで三島喜美代さんと対談している予定だった。

その中止の連絡を受けたのとちょうど同じ日に、久しぶりに小野和則さんから連絡をもらった。

その機縁で生まれた早春の再会と命の洗濯。

帰宅すると、増刷の面倒を見た三島さんの図録が届いていた。

今回の不思議な縁は、難波道弘さんの導きによるものだろうか。

 

terrain vague pour la production de l'espace créatif

9 mars 2020, lundi

 

4月から芸大移転地の元崇仁小学校が行財政局の管轄に移る。

それに伴い、崇仁高瀬川保勝会の川掃除の用具とテラス資材を体育館周囲から撤去してほしいと、2月に行財政局の芸大担当課長から連絡を受けた。

テラス資材置き場

芸大=《テラス》という構想は、芸大を地域住民の創造的活動にも開くという考えで、体育館の周りのスペースを資材保管兼作業所とすることでその先べんをつけていた。七条大橋をキレイにする会の照明用機材のためにも棚をつくった。

だが、校舎解体の工事車両が出入りするようになると、アクセスに困る。といって、地域に適当な公共スペースがない。

 

3月1日に川掃除のフライヤーを地域に配布しているとき、ふと崇仁第二浴場の外の空きスペースはどうかと思い至った。

崇仁第二浴場

新幹線とJR奈良線高架の南側は、かつて屋形町(やかたまち)といわれ、戦後は空き地にバラック的な住居が密集する一角だった。

現在は廃虚となったアパートと空き地が広がり、立入禁止の物騒な雰囲気のエリアになっている。

女子学生も多い芸大の移転の前にこの辺りももっときれいで安全な地帯に整備されるべきと思うが、京都市にもう資金がないらしく担当者もいない。

崇仁第二浴場

がらんとした空きスペース。つきあたりが高瀬川だ。

崇仁第二浴場

高瀬川保勝会保管所

高瀬川保勝会保管所

高瀬川と新幹線が交わる土地。

 

崇仁東九条古地図

戦前の地図。小さい家屋が密集している。

戦争が近づくと、この辺り一帯が疎開させられ、空き地になった。

戦後はその空き地に住む場所のない人たちがバラックを建てて住んだ。在日や同和地区の人たちだ。

1960年、そのバラック街の上を新幹線(青の点線)が通った。1964年の東京オリンピックのためだ。

そのためにバラックは撤去され(立ち退き費用は国鉄負担)、住民は北河原市営住宅(いわゆるマンモス団地)に移った。

川と線路にはさまれたそういう因縁の場所だからこそ、新しい公共空間として定義されなおす価値がある。高瀬川保勝会保管所

第二浴場を管理する都総合管理の人は快諾してくれた。

あとは都市計画局すまいまちづくり課が許可してくれるか、だ。

 

市有地が新しい公共空間として開かれていくことがこの辺りから始まればいいと思う。

だが前例のないことから逃げる役人を説得するのはむずかしそうだ。

3年前、高瀬川の上にテラスをつくるときも、同じ役所の壁が立ちふさがった。

 

 

architecture de terre

8 mars 2020, dimanche

 

京芸4人の退任記念展(浅野均、大野俊明、中ハシ克シゲ、三橋遵)に行く。

会場をまわりながら、自分は彼らのように仕事がまとまっていないなと思う。

せめて来春までにつちのいえ10周年の記録集をつくろうと思うが、これまでの参加者にどう協力をあおぐか、体裁とともに思案しはじめた。

 

そう思っていた矢先、《アクアカフェ》を京都国立近代美術館の前で公開制作したのと同じ2010年に、ナンシーの街角で同じような木となま土のドームを現場制作した若手建築家チームがいたことをネット上で知った。

Studioladaといい、彼らの地元のナンシーでのスープ祭りでのスープ椀の売店がそのドームだった。

>> construction d'un dôme en terre crue

 

スープのお椀を売るので、お椀を伏せたかたちにしたのだろう。

工程を見ると、ナンシーには竹がないらしく、竹の代わりに薄い板材を曲げて構造をつくり、枝を差し込んでいる。

当然竹木舞も知らないだろうから、土と干し草をこねてガレット状にし、横木に掛け重ねて壁をつくっている。

同じドーム状のかたちながら、異なる素材と工夫のありようが興味深い。

だが、土を扱うのが初めてだったようで、記事を読むと工期が短く土も乾かず、失敗の連続だったらしい。

 

彼らは土の建築を研究しているCRAterreを知らないのかな。

フランス語で"Torchis"と呼ぶ土壁の工法は、石造りが一般的だった欧州では、マイナーながら古代からある。

建築界ではマイナーだろうが、土の建築に興味を持つ人間は世界じゅうにいる。

今年6月にサンタフェで土建築をテーマにした"Terra 2021"という国際シンポジウムもあり、発表者を公募中だ。

 

Studioladaのドームは《アクアカフェ》の半分の大きさで、参加した人間の数もはるかに多い。

彼らのは建築からの自然な流れだが、ぼくのは美術からの逸脱だった。

ぼくはいつも手探りで道を逸れてけもの道に迷い込む。

そもそもぼくは「関東大震災の難民の孫」だ。帰るべき場所、落ち着くべき領域がどこにもないのが自分の本質。

美術という分野にやっと自分の居場所を見つけたつもりだったが、いつのまにか「美術難民」となっている気がする。

 

3月8日は父の命日。訃報が届いたパリの朝を思い出す。

 

 

com-position aujourd'hui 200303

3 mars 2020, mardi

 

新型コロナウィルス感染症がひろがるなか、東九条のハトバカフェで、次年度の総合基礎実技の課題の打ち合わせ。

「耳」という面白いテーマがやっと浮上した。

 

本日のコン・ポジション。

本日のコンポジション

#大阪市西区江之子島 

 

黄色の線の残り方がいい。

 

 

 

l'angle de la lumière

1 mars 2020, dimanche

 

3月になった。

今年は暖冬で、庭の梅の開花がいつもより半月ほど早い。

梅

2月18日。

梅

3月2日。

 

この暖冬は気候変動と無縁とは思えない。

南極の氷が溶け、太平洋の海水温も上がる。

今年の夏〜秋も日本は巨大台風に襲われるのだろうか。

 

季節の変化は太陽光の角度も変える。

窓から差しこんだ光が梁に当たって反射し、照明がないのに照明具が灯っているように見える。

光

こんな何気ない現象に、地上に生きていることを何だか奇跡のように感じる。

 

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造形の根本モチーフとして、「屋根」を発見したとき(2013年)、そもそもぼくはその傾きに、「角度」に魅かれたのではなかったか。

「屋根は傾いていなければならない」という自明の理を個展のDMに書き込んだが、それは屋根の傾きに水と重力を持つ惑星上の存在の原理を直感したからだ。

ここに光を加えると、角度が一切を貫く原理であると気づく。

それは、存在の根源的いやむしろ形而上学的な「逸れ」ないし「偏向」につながっている気がする。

この宇宙は「逸れ」とともに出現したのだ。

いいかえると、エピクロスのいうクリナーメン(偶然の偏向)が、この宇宙を物質的なものとして存在させる契機になったのだ。

物質以前に素粒子レベルのクリナーメンが生起したのだろう。

物理学者でも哲学者でもないので、この辺りを論述する気は毛頭ないが。

(3月3日)

 

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不思議な偶然。

深夜に上のように記した翌朝の朝日新聞(2020年3月4日)に、素粒子物理の村山斉さんが次のように書いていた。

「宇宙が誕生して1兆分の1秒のさらに1兆分の1の時、もう一つ相転移があったと私は考えている。この時にニュートリノの重さが生まれ、物質と反物質のわずかなずれを作り、私たちを完全消滅から救ったのだ。この相転移は急速だったので、ひびが生じた。これを宇宙ひもという。大きなエネルギーが原子よりも細いチューブに詰まって長く伸びている。いわば「宇宙のひび割れ」だ。」

 

メルロ=ポンティも感覚の哲学をつきつめたあげく、écart(ずれ)のことを語っていた。

物理学の未解決問題は、ニュートリノに質量を与える仕組みらしい。

ぼくはスピンだと思う。回転は「角度」の問題。

感覚と宇宙、哲学と素粒子物理学が究極的に交わるのも「ずれ」、すなわち角度の発生においてだ。

 

春3月、光なく光る場所を見上げて、存在の始原を夢想する。