Reconstruction de la Terrasse de Suujin

30 juillet 2018

 

朝9時半、早くも炎天下、崇仁テラスの制作に着手。

手順:

1日目 午前中〜 崇仁テラスに必要な資材を保管所(元崇仁小学校体育館西側)から現場に運ぶ(台車で)

    午後〜 基本構造組立完了

2日目 午前〜 基本構造の補強(足場等)

    午後〜 足場板54枚を躯体の上に載せて固定していく

 

工事現場

隣接する工事現場は、昨秋の空き地は跡形もなく、すでに建物の基礎工事が進んでいる。

工具類運搬のために高瀬川沿いに自分の車を停めていたが、コンクリ搬入トラックのじゃまになるので除けるよう京都市すまいまちづくり課の職員から要請される。

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高瀬川草刈

ぼうぼうの草を刈らないと柱をたてるのにじゃまになると思って、先週からひとりで鎌で草刈していたが、この日は昼前から土木事務所から派遣された業者が電気草刈機で草を刈ってくれて、ラッキーだった。

 

テラス制作

テラスの制作は、まず岸辺に平行に8mの角材を置いて長辺の位置を決め、それに垂直に5本の柱材を等間隔に渡すことから始まる。

次に川中に5本の束石付き柱をたて、垂直・鉛直方向に柱材の端をきちっとのせると、制作も峠を越えた感じになる。

 

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草の繁茂と並んで、もうひとつ気になっていることがあった。

7月はじめの豪雨で横の補水路に泥がたまって水が流れにくくなり、その結果,本流の水流が増えて、テラスの柱の下が濡れやすくなっていることだった。それで、水の取り入れ口のコンクリのパーツを動かして、補水路の方に分流する水量を増やしてみた。

水理学や水利環境工学を習ったことはないが、美術は万物の科学に通じる。敬愛するダ・ヴィンチは水理学の父でもあった。

うまくいって補水路に流れが戻り、本流は水かさが少し減ってテラスの柱の束石が出てきた。

 

崇仁テラス制作

昼前、崇仁高瀬川保勝会事務局長の中村伸之さん、京都景観フォーラムの辻野隆雄さん、柳原銀行記念資料館事務局長の山内政夫さんが手伝いに来て下さり、能率があがる。

崇仁テラスづくり

本日はここまで。(手前に一辺1.8mの木製巨大曲尺)

 

31 juillet 2018, mardi 

 

この日も朝10時から作業。

崇仁テラスづくり

 

崇仁テラスづくり

この日は、『崇仁発信』の藤尾まさよさん、さらに菊浜高瀬川保勝会会長の上村隆明さんも手伝いに来て下さる。

午前中に躯体構造を完成させる。

 

崇仁テラスづくり

午後、やはり地元の林伊佐雄さんが声を掛けて下さる。

林さんは崇仁鉾保管庫の管理などもされていた地元の代表のひとり。今春、西側の崇仁市営住宅からテラス横の高層団地(楓のまち)に引っ越されたという。

引越先が7階というので、あつかましくも訪ねていって窓からの眺めを見せていただく。

 

もう基礎工事は終わって躯体の建設が始まっている。竣工予定が来年(平成31年)8月下旬だから当たり前か。

左手(南側)が下中南ブロック(地上10階 8棟 96戸)。

奥(西側)が下中北ブロック(地上6階 3棟 25戸)。

 

崇仁市営住宅

 

崇仁テラスづくり

菊浜保勝会で1人がんばる上村隆明会長は、三味線もたしなむ粋な文化人。

インパクトドライバを使うのは初めてという。炎天下でもあり、心配で見ていられない。

 

崇仁テラスづくり

京都市内は気温39℃に達する猛暑だが、川の上だとそれほど暑く感じない。

オオシマザクラの木陰だと、吹く風も気持ちよく自然に人が集まる。

 

ともかくも予定通り、2日間でテラスが完成した。

 

 

3 août 2018 vendredi

 

中村伸之さんが三角の屋根シェードを買ったというので、柱を建てて取り付けてみる。

崇仁テラス

テラスは木造の頑丈なつくりなので、柱などは取り付けやすい。崇仁テラスづくり

しかし屋根シェードは3x3x3m。小さすぎる。家庭的な趣味の世界。

崇仁テラス

作業していると、たまたま藤尾まさよさんが、長岡京市第4中学の人権研修で教職員の人たちを連れて来られた。

崇仁地区のフィールドワークと講演会を頼まれたということだった。

 

 

 

En souvenir d'un architecte

29 juillet 2018, dimanche

 

正午から梅田の新阪急ホテルにて、建築家・狩野忠正を偲ぶ会。狩野忠正を偲ぶ会

建築家の狩野忠正さんが5月30日に80歳で亡くなられた。

アートスペース虹の熊谷さん経由で、この日の「偲ぶ会」への誘いが来た。狩野さんには若いときにお世話になったので、出ないわけにはいかない。

10分ほどおくれていったので、冒頭の安藤忠雄さんの挨拶が終わっていた。

会場では熊谷さんだけでなく、久しぶりに建築誌編集者の南島順子さんともお会いできた。

 

狩野忠正さんと知りあったのは、1986年ごろだったか、アートスペース虹の熊谷さんを介して、南島順子さんから大阪府建築士会の機関誌『HIROBA』の誌面デザインを頼まれたときだった。

ぼくは高校時代は建築志望で、美術と同じくらい建築が好きだった。当時も『美術手帖』より『SD』をよく読んでいた。

熊谷さんは、ぼくがグラフィックデザインができることを知っていて、南島順子さんからデザイナーの紹介を頼まれたときにぼくを推薦した。それで会ったのが狩野さんで、当時は竹中工務店の設計部長であり、同時に『HIROBA』の編集長として内容刷新にも情熱的だった。

当時はポストモダンが云々されていて、表紙のデザインはスタジオ・アルキミアのミケーレ・デ・ルッキがやることが決まっていた。ぼくの担当は中の誌面デザイン。

『HIROBA』の誌面デザインには、静岡に行くまでの2〜3年間関わっただろうか。

その流れで、建築家・坂本一成の作品集をデザインしたこともある。

まだ美術活動を始めていないときだった。

 

その後1990年に、熊谷さんから企画展「ノート'90」への参加依頼を受けた。

そのときの他の2人の参加者が、狩野さんと中原浩大だった。ぼくは静岡県立美術館の学芸員として『静物』という企画展を終えたばかりであり、研究やデザインの一方で、ドローイングやノートを描きためていた。展覧会の趣旨も、「作品」ではなく、日ごろの思索や作業のプロセスを「ノート」として見せなさい、ということだった。ぼくは素直に応じた。

DMや封筒などの余白に描いたドローイングが初めて売れたのはそのときだった。

狩野さんは粘土の習作を数点並べ、展示台の設計もしてくれた。

浩大は18歳頃のスケッチから作品のヒントになったりならなかったりした沢山のフィギュアやレコードジャケットなどを出した。

 

後日、当時の記念写真を熊谷さんが送ってくれた。note90

 

その後また関西と疎遠になったので、狩野さんののちの動きは知らなかったが、1995年に竹中工務店を退社して、独立事務所をかまえたときにベルリンに一年半滞在されたらしい。

 

偲ぶ会は建築家と建築関係者ばかりで、畑違いはぼくくらいだったので、挨拶をさせられた。

とっさにぼくは、自分は今美術家として活動しているが、建材としての土に興味を持っていること、狩野さんならどうだったろうか、大地と空間造形の関係をどう考えられただろうか、としゃべった。

ちょうど偲ぶ会の受付に、狩野さんの遺著『Message from Berlin 一建築家の思索の日々』が並んでいたので買って帰った。

 

あとから熊谷さんから、狩野さんが『HIROBA』に書いたエッセイが届いた。なんと僕自身がデザインした誌面に、狩野さんは「現代建築は土を忘れている」と書かれていた。まったく記憶から消えていたのだ。

偲ぶ会ではうかつな発言をしてしまった。

 

またわかったことは、狩野さんは村野藤吾に深い影響を受けていて、「ノート'90」に出された粘土習作も、『Message from Berlin』に載ったたくさんのデッサンも、手を動かしながら建築を考える村野藤吾に触発されたものだったことだ。

ベルリン滞在も、建築を一から考え直すためだったのだ。

ほんとうに建築を愛し、一途に追求したピュアな人だった。

去ってしまってから初めて人がわかる。

 

狩野忠正

1938年 韓国全羅南道麗水生まれ
1962年 神戸大学工学部建築学科卒業 竹中工務店入社
1981年 三輪そうめん山本本社(奈良県桜井市)で第6回吉田五十八賞
1994年 竹中工務店プリンシパルアーキテクト
1995年 狩野忠正建築研究所設立
1997年 神戸大学工学部建築学科教授
2001年 神戸大学名誉博士 大阪芸術大学建築デザイン学科教授
2008年 大阪芸術大学大学院客員教授 (その他)

2018年 逝去

 

Le canal Takase-gawa est envahi d'herbes

28 juillet 2018 (samedi)

 

30日からの「崇仁テラス」設置にそなえ、現場をチェックしにいくと、草が生い茂り、立入禁止の看板が設置してある。

崇仁団地の建設工事が始まっているので、当然かもしれないが、この状態では、テラスの設置ができない。takasegawa

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鎌で草を刈ることにした。

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なかなか追いつかない。

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「複数形の世界…」展に出した映像作品《パラ河》に撮った亀がまたいた。

高齢のクサガメ。専門家によるとメスで、頭がやたらでかい。ミドリガメなどの遠来の外来種ではなく、東アジア固有の在来種。

オオシマザクラと並んで、このあたりの高瀬川は、在来種の生きものが自慢できるわけだ。

もっとも伝来種と外来種を厳密に区別することは無意味だろう。このクサガメだって中国あたりから来て定着したのかもしれない。

人間だって、先住民と移民を区別することは無意味だ。

われわれ人間はみな動く大地の他所者。地球のエイリアンなのだ。