Symposium "Se lier par la rivière"

29 septembre 2018, samedi

 

台風24号の影響で、午前中、崇仁小内高瀬川の両岸整備の作業(木の伐採)ができなかった。

 

午後3時から、元崇仁小学校のふれあいサロンで「川デツナガル」のシンポジウム。

あまり人は来ないだろうと思っていたら、意外とたくさんの参加者があった。

あとで東九条マダンの人たちの参加が多かったとわかったが。

 

川デツナガルシンポジウム

前半、まちづくりの議論を展開したい中村伸之さんに対し、東九条マダンのヤンソルさんからシンポの目的について異議が出され、後半の司会を担当したぼくが各地域の高瀬川の記憶を聞くことにこだわったので、まとまりの悪いものになってしまった。
 

それでも他所者としては、菊浜の上村隆之さん、東九条マダンの朴実先生、山内政夫さん、崇仁の藤尾まさよさんの川にまつわる昔話を聞けたのは面白かった。また京大建築の博士課程で東九条のまちの形成を研究する学生さんの発言も新鮮だった。

記憶や知識を共有する材料としてもっと取り集めた方がいいと思うが、まちづくりを進めたい山内さんや中村さんは、そんなことはカッタルイのだろう。

進め方や目標とするもの、面白いと思うものに相当ずれがある。

デザインしたポスターやフライヤーが評判いいので、ぼくはデザイン面の貢献に限定しよう。

 

歴史的に七条以南の土地は、京都人にとっては、人が住む土地としてはまともに認識されておらず、河原であり、ごみ捨て場であり、「ゼロ番地」だった。だから為政者側の都合(駅や鉄道、道路の敷設など)によって、高瀬川は頻繁に付け替えられてきた。

だが川は、子どもたちにとっては、裸足で降りて釘などを集めてお金に替えるコモンズであり、ホタルと戯れる空間であり、染め職人の労働場所であった。

そのことが再確認できた。

ついでに大西麻貴さんがまだ芸大のなかに銭湯をつくることをあきらめていないことも。

 

いちのはし

 

シンポジウムのあと、少し時間があったので、塩小路橋をわたって東に進み、さらに南に歩いた。

大正十三年十一月と刻まれた古い小さな橋(いちのはし)が暗い川をまたいでいた。

鴨川運河だ。琵琶湖疏水にかかわっているのに、同じ系列にある鴨川運河のことはまったく知らないし、この辺りに来たこともない。

第1疏水竣工直後の1892年11月に着工し、1894年(明治27年)9月に完成したそうだ。

 

そのまま歩いて東福寺駅まで行き、鴨川をふたたびわたって、午後8時に東九条文庫/マダンセンターについた。

そこで東九条マダンの交流会が開かれており、それに呼ばれたのだ。

東九条マダンはこれまで見たこともないし、どういうものなのかもじつはよく知らない。

ただこの春からの「川デツナガル」の話し合いで、朴先生はもちろん、ヤンソルさんたちには好感をもっている。

マダンセンターの狭い空間には、子どもからお年寄りまで、40人近くがひしめいていた。

 

わかったのは、東九条マダンはただ在日の人たちの集まりではぜんぜんなくて、この土地に住む人と関心を持つ人が集まって、いっしょに祭をつくることを楽しんでいるコミュニティであるということだ。もちろん中心には韓国・朝鮮の文化があるが、日本のものもチャンポンだ。

通常はコミュニティがあってフェスティバルがあるが、ここは逆にフェスティバルのためにコミュニティが毎年形成される。

その出発点には、作曲家である朴実先生のアーティストとしての情熱がある。

第1回マダンを不安なままやりとげたとき、民族文化云々ではない、表現の悦びがあり、ただそれをみなにも味わってもらいたくて20数年間続けてきたという。表現の悦びを第一に動くというのは、同じく表現に軸足を置く者としてよくわかる。

どうりで理屈で動く山内さんや中村さんと合わないわけだ。

 

東九条マダンセンター

天井から水漏れするマダンセンター。上は2階なので、まさかトイレの水?

 

archive

28 septembre 2018, vendredi

 

アーカイヴ/アルシーヴ archive が流行っている。

1990年代に「歴史の終焉」が言われ出したのと平行して、「記憶」の問題が浮上し、それに伴って、記憶のかたちとしての「アルシーヴ」の概念と意味、その具体的なかたちと活用方法が注目されるようになったと記憶する。

 

だが砂漠的不毛に惹かれ、歴史的蓄積に富んだ苔むす場所を嫌う性格がわざわいして、「アーカイブ」には近づかなかった。

2014年に勤務する京都芸大にできた芸術資源研究センター archival research centerの設立にかかわり、図式やパンフレットのデザインを担当したにもかかわらず、アーカイブの問題は自分にはずっと他人事だった。

 

そんな自分が、アーカイブの意義にめざめたのは、自分がたずさわったアートプロジェクトの記録が消されたときだった。

消えてはじめてその存在の意義がわかるということがある。記録や記憶は、消滅と背中合わせにあるときに、もっともリアルな輝きを見せる。

 

消された記録というのは、KAVCで2003年に行った「新開地アートブックプロジェクト」の手づくりウェブサイトだった。

展覧会と本の出版というかたちでそのアートプロジェクトは終わったのだが、その成果と同じくらいプロセスも重要だった。

それで最小限の記録にまとめて小さなウェブサイトに残し、KAVCのサーバーにあげてもらっていた。

だが、2016年春、KAVCの指定管理者が代わり、それに伴って以前の管理者(大阪ガスクリエイト)のもとで行われた事業の記録や成果のいっさいがないことにされたのだ。

指定管理者制度は新自由主義の行き着く先として大半の文化施設を支配している。ときにそれは記録/記憶を帳消しにする。

 

過去のことは捨てておけ、どうせすべては消える、と思ったが、気持ち悪さが消えない。

当時、自分たちが費やした時間のすべてがかき消された感覚だった。

 

最近、ようやくそのサイトを復元した。

当時はtableを使っていたが(before)、今はCSSで組む(after)。

スマホ対応はしていないが、とりあえず15年ぶりによみがえった記録。よしとしたい。

 

 

Pension Yoshida

23 septembre 2018, dimanche

 

京大吉田寮の退去期限(9月30日)がせまるなか、「市民」から吉田寮の再生と継承の提案を公募する「市民と考える吉田寮再生100年シンポジウム」が、人環の地下大講義室で行われた。

提案の展示は9/18日から吉田寮食堂で行われていたが、この日の「シンポジウム」は、それに対する複数のコメンテーターからの評価と質疑が中心だった。

吉田寮

吉田寮の前には、入寮募集の旗が横向きに掲げられていた。

大学当局の廃寮攻撃が度重なるなか、寮自治会自身が寮生を募集するのは、寮の存続と自治の至上のアピール手段だ。

吉田寮

シンポジウム会場。昔は「教養部」とよばれた敷地のなかの知らない建物に知らない地下講義室ができていた。

 

吉田寮再生提案の締切は9月13日。知らなかった。

何せ四半世紀ぶりに吉田寮を訪れたのが8月25日。それからあれこれを忙しかったので、取り組むひまもなかった。

集まった公募案の継承部門が13点、再生部門も13点。寮生からは建築学科2回生から「廊下を広げる」という案。

だが、京大の建築学科は今回も含めて伝統的に吉田寮の問題にタッチしない。

代わって京都建築専門学校のゼミの課題系が多かった。

ポム企画の平塚圭さんが内容をさっそくまとめて報告している()。

京大系はさすが言葉を扱う作業が早い。


現在、この100年プロジェクト実行委員会や吉田寮自治会はじめ、「21世紀に吉田寮を活かす元寮生の会」など、いろいろな団体・組織が吉田寮の存続を京大や社会に訴える運動を起こしている。

2015年には日本建築学会近畿支部が、京大の山極総長宛に「京都大学吉田寮の保存活用に関する要望書」を提出した。

話題性に富むので、さまざまなメディアが取りあげ、NHKも今夏のTVドラマ『ワンダーウォール』で広く吉田寮の問題を社会に伝えた。

その結果、寮生でも京大出身でもないのに、吉田寮に関心を持つ人が増えている。

 

だが、学内では吉田寮の存続や活動に関心をもつ人間は昔から数少ない。

ぼくが在寮していたときもそうだった。特殊視されるか無視・無関心かのどちらかで、後者が圧倒的だ。

そもそも寮内でもみなの関心はバラバラで、寮の運営・存続の活動に取り組むのはほんの一握りだ。

コメンテーターの尾池元総長も言っていたが、シンポジウムの会場にかんじんの吉田寮生の参加はわずかだった。

 

吉田寮

途中で抜け出してギャラリーをいくつかまわり、17:30に吉田寮食堂の懇親会に参加する。

 

この食堂に入ったのはそれこそ40年ぶりか。

ぼくの学生時代、沢田敏男というやつが学生部長になって(1978年)、それまでの寮との交渉を拒否し、廃寮攻撃をしかけてきた。

寮食堂の炊フさんや守衛さんらを公費で雇うことをやめる露骨なやり方に対する寮闘争に、ぼくも参画した。

当時は食堂が主な闘争の舞台で、ぼくは文化部長になって、沢田のあとを継いだ岡本道雄総長らを学内ビラや猥褻マンガで攻撃した。

赤瀬川原平の影響を受けた「黒肉舎」というアートグループをつくったのもそのころ(実質はぼくひとり)。

京大新聞に掲載された大きなマンガがぼくの最初の絵による収入になった。

(思えば批判精神にめざめたのは吉田寮での活動を通してだ。)

 

しかし大学院に入って寮を出てから、個人的な模索期間が続いて、吉田寮=学生時代のことは頭から消えた。

ところが、その直後から、吉田寮は大学当局によるさらに激しい廃寮攻撃を受けたらしい。

大学当局は1986年度末に在寮期限を区切ることを一方的に宣告し、職員や炊フさんらを配置替えして、3月31日には食堂の営業を止めた。

80年代後半、これに対する寮自治会の反対闘争、熊野寮との対立などいろいろあって、廃寮が先送りになった。

食堂は劇団満開座に会場として貸したのをきっかけに、学内外のさまざまなイベント会場として使われるようになった。

入寮条件も男子学部生に限られていたが、女子学生や留学生にも広げた。

 

こうしたことはいっさい知らない。

 

とにかく40年近くのギャップだ。

柱は象徴的に残されているが、天井が張り替えられ、壁もきれいになっている。

が、よく見ると、天井のあちこちに穴が空いている。踏み抜いたらしい。

シンポジウムのパネラーだった岩井木材の岩井清さんが、天井の桟の方向がまちがっていて、接ぎ足も下手くそだと怒っている。

下面は本来柾目なのに板目が見えていて、これは大工ではなく素人の仕事だ、だれが現場監督だったのかと。

天井板も本物の木ではなく、耐火面材のダイライトだという。

 

だが、この食堂は旧三高の数少ない遺構であり、京都大学最古の大学建築物だという。にもかかわらず食堂の補修に文化財的な尊重は見られない。

学内の建築学科・建築専門家は無視を決め込んでいたのだろう。

 

おくればせながら、「21世紀に吉田寮を活かす元寮生の会」に会員登録した。

60年代と80年代世代が中心だという。

 

吉田寮

シンポジウム後の懇親会には、世間的な話題に魅かれて参加する学外者もいたが、寮生の参加者はまばらだった。

再生案のパネル展示をぼく自身が手伝ったくらいだ。

 

司会進行役をつとめた主催者の三人の学生としゃべった。

案の定、寮自治や存続運動に積極的にかかわる学生は少数らしい。昔と変わらない。

だが彼らは、そのことが寮内に対立関係をもたらすことは望んでいない。自分たちがしたいことをしているだけだと。

そして大学側の退寮通告にもかかわらず、今後とも吉田寮ではさまざまな活動を続けていく。

( >> website :吉田寮を守りたい
 

RADの本間智希君がAXISの取材として、三人にインタビューしていた。

吉田寮

 

10月以降も彼らの寮生活が続くことを願う。

そして彼らの将来のそれぞれの領域でのクリエイティブな活躍を願う。