Je me débarrasse des objets encombrants_1

26 avril 2019, vendredi

 

京芸の総合基礎の授業がはじまった。

今年は副委員長を仰せつかっているので、何かと忙しい。

だが助かるのは、自宅にたまっている使わない材料や廃材を、学生たちの制作材料として提供することで、やっかいなものを片づけられることだ。

素材

素材

デッキの下にたまっていた《Maison-Arche》(2011)の廃材をかたづける。

緑色のロールは、KUNST-ARZTの企画展「フクシマ美術」の出品作《見えない大地 invisible ground》(2016)の素材で、これは東北から取り寄せた汚染土壌仮置場用遮水シート。合わせると20mある。

これは芸大に持っていけない。

どこが引き取ってくれるだろうか。それとももう一度ひろげて展示する機会があるだろうか。

 

素材

昨年、つちのいえのメンバーの伊藤真里衣が解体古民家からひきとってきた壁土も学生たちに提供する。

もちろん練り方、塗り方も伝授。

これらの素材や技術、芸大はこれから先、必要とするだろうか。

 

物質とつきあう芸術と芸術教育、芸術大学が、自然界や産業社会の物質循環ともつながり、新たな回路を開く日を夢見る。

 

Suujin terrasse vol.5 et cerisier

17 avril 2019, mercredi

 

崇仁テラス

崇仁テラスの大島桜の満開を見逃すと思って、授業後、機を見て、崇仁へ。

幸い、まだ満開だった。

大島桜はソメイヨシノより開花が1〜2週間おそい。

 

香り豊かな桜満開の下、先日手作りしたベンチに一人座り、サンドイッチをほおばる。

テラス周りの川面にも、板の隙間から見える川面にも、たくさんの桜の花びらが流れる。

至福の時間。

 

桜さく崇仁テラス

桜さく崇仁テラス

崇仁テラス桜

桜さく崇仁テラス

 

Journal FKSK vol.1

15 avril 2019, dimanche

 

塩江ツアーの報告とお礼を兼ねて、しんぶんを即席でつくったらどうだろうと提案したら、小野環さんが即反応してくれた。

あえて時間かけてまとめるより、体験がホッとな状態のまま、かたちにするのがいい、と。

で、高松駅前のカフェに陣取り、みなで記事を手書き、そのまま版下にしてA4の台紙に貼り込んでいく。

適当感がいい。

翌日、小野さんからできあがったものが届いた。

塩江温泉ツアーFKSK新聞

 

 

enquête sur le terrain de Shionoe

13-14 avril 2019, sameidi - dimanche

 

FKSKのメンバー5名で、高松市塩江町の地域おこし協力隊の村山淳さん、県の地域振興課の砂川のぶえさんらの案内で、塩江町をフィールドワーク。

話題に出遅れているので、現地に着くまで経緯や関係がよくわかっていなかった。砂川さんと横谷奈歩さんが以前から親交があり、そこから小野環さんの尾道案内、それへの返礼も兼ねての今回の塩江ツアーとなったようだ。

 

(FKSKは、去年の東京都美術館での「複数形の世界のはじまりに」展をきっかけに、ぼくを含めた美術家4人と文化人類学者の服部志帆さんで仮設したアーティスト・コレクティブ。FKSKはぼくが語音から名付けた。物事の決定に偶有性[本質的なものではなく偶々備わっている性質]を持ち込むことに関心があり、意味からではなく音からグループ名を決めた。FKSKのサイト構築はぼくの担当だが、忙しくてできてない。)

 

塩江はどこにあるのかさえ知らず、何度も「しおえ」と読みまちがった。高松の奥座敷と呼ばれ、昭和前期に温泉町として栄えた。宝塚を模した塩江温泉少女歌劇でも知られたという。今は過疎高齢化で廃れており、村山さんらが地域振興にとりくんでいる。そこに、FKSKの全国各地の廃れた資料館・博物館を「驚異の小屋」化するというアイデア(小野環さん発案)が重なって、今回のツアーとなった。

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§塩江町
・面積は80.10 ㎢で、その84%が森林。
・人口は2700 人程度。高齢化が激しく、2030 年代には人口が1000 人を割る見込み。
かつては安原郷という集落で呼ばれており、独立町になる前は、塩江村、安原村、上西村の3 村に分かれていた。2005 年に高松市に合併され、高松市塩江町となり、住所として旧村の区分も無くなったが、未だに自治会には古い地名が残り、住民の意識も3つの村でわかれている。
奈良の僧侶である行基が7 世紀に開闢したという伝承のある温泉で、塩江温泉郷として知られている。しかし、温泉郷として栄えたのは比較的最近のことで、日露戦争(1904-1905)のあと、傷病兵の湯治に使われたのがはじめだと思わ
れる。その後、「ガソリンカー」として現在も親しまれている「塩江温泉鉄道」が1929 年に開通し、華やかな温泉郷となった。
しかし、1941 年に塩江温泉鉄道が廃線になってからは訪問客数が減り、人口も流出するようになった。50 以上あった旅館や民宿も減り、現在はホテルが4件、旅館が1 件営業するのみである。(村山さん作成のツアーガイドより)

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塩江

岡山からマリンライナーで正午前に高松について、そこから村山さんらの車で塩江に向かう。

塩江温泉

往時を偲ばせる絵葉書。

塩江温泉鉄道の「ガソリンカー」(1929〜1941)。

列車の躯体をアメリカ製のトラックのエンジンで動かす。橋脚や駅の遺構が今もあちこちに残る。

昔の航空写真。温泉の桃源郷というイメージ。川の名は香東川。蛍がたくさん舞ったという。

塩江温泉鉄道がかつてこの橋を通っていたらしい。上の古い写真の橋がこれか?

いこい食堂(親子中華ソバで有名)の向いにある個人タクシー。

塩江美術館の陶磁器工房で塩江町の説明会。美術館は高松市立で、リニューアルオープンしたばかり。

セレモニーにラテン曲のバンド演奏をやっていて、山あいの小さなユートピアに紛れ込んだ気分。

美術館学芸員の小田有紗さんも翌日ツアーに同行。

行基の湯の隣に廃墟となった接骨院(イセ接骨分院)があった。

屋根に描かれた土星のようなマークが謎で、「土星の家」と呼ばれる。FKSKの今後の塩江プロジェクトのシンボルになる予感。

同じ川岸に建てられた川島猛さんのアトリエ。

耐震設計がなされていず、現在は改築もできないが、昔は川島さんがニューヨークから美術学生らを連れてきて、レジデンスのようなことをしていたらしい。

川島猛

中を案内してもらったが、川を眺めるテラスや岩風呂、曲り木をあしらった床の間もあり、アーティストの楽園願望を感じる。

河岸の 急斜面 浮かぶアートの 夢の跡

この会社は「ボザール」の意味を知らないと思う。

だがそれがかえって面白い。実際にボザールらしき活動をする有限会社をでっち上げてみるか。美術の「有限」性を自虐的に。

塩江温泉

塩江温泉

温泉「華乃荘」の一部・ほたる屋の廃墟。

廃虚に泊まるのも面白いが、実際に泊まったのは地域に残る唯一の旅館・魚虎旅館

華やかな戦前(たぶん1930年代?)の風景。

まぼろしの 橋を渡れば ほたるの湯

塩江温泉

魚虎旅館のある通りには、元旅館だったらしき建物がそのまま残る。ここは昭和前期と思われる意匠。

塩江温泉

魚虎旅館の向かいのスーパー蓮井商店。半分の棚にブルーシートがかかっているが、89歳になる蓮井晃子さんが元気に営まれている。

塩江の100年の盛衰を見てこられたらしい。

地方に行くとよく出会うのが、映画になるような人生を送って来られたお年寄りだ。

ぞくっとする店内の気配に、気の遠くなる歴史の変転を感じた。

上西

上西地区にある廃校になった上西小学校は、コンテンポラリー・サーカスの練習場になっていた。将来、ShionoeAIRを開設するそうだ。

上西・和田さん

上西地区では元庄屋の和田さんが、みかんジュースや芋餅で親切にもてなして下さった。村山さんとの信頼関係の賜物だろう。

テラスがあり、そこからの眺めがすばらしかった。

上西

和田家の石垣はどれも面白く、瀬戸内の石積み文化を思い出すが、石垣ならぬブロック並べての「抑えるくふう」も壮観だ。

雑草を抑えるためと聞いたが。

塩江温泉

和田家の裏山を登る。村山さんらが和田さんの頼みで整備した道。山頂からはダムでできた内場湖が樹木越しに見える。

 

ツアーの最後は、元安原小学校とその中に作られた塩江歴史資料館へ。

安原小学校

資料館を一人で支える藤澤保さんが解説してくださる。60年代に浅丘ルリ子の映画のロケが行われたらしい。

塩江歴史資料館

解説くださる藤澤姓さん。藤澤さんは、なぜこの地に藤澤姓が多いのかという疑問から一人で丹念に地域資料を集め、解説を書いて展示している。総数は1000点を超える。だが耐震構造の問題で資料館は月に一日しか開かない。

借耕牛

牛を山の向こうの徳島から何十頭も借りて耕作し、また徳島に送り返すという、変わった習慣があったらしい。

 

小野さんの尾道ツアーガイドへの返礼もあるのだろうが、村山さんらの懇切丁寧なガイドのおかげで、とても濃密なフィールドワークになった。

来年、FKSKで塩江で何かすることになるかもしれない。

 

sur la terrasse

10 avril 2019, mercredi

 

勤務先の京都芸大はこの日が入学式。

ぼくは例によって出席しなかったが、赤松玉女新学長が入学式の挨拶で、

来賓として教育研究審議会にも言及しているから、一員であるぼくも出ないといけなかったかな。。。

だが、教員をしていながら、大学という教育機関につねに距離をとっている(というか信じきれない)ので、

教育機関の保守的核心である入学式や卒業式は出たためしがない。

京大時代も入学式に出ただけで、あとは博士課程を中退したから、卒業式には一度も出なかった。

このままたぶん京都芸大の入学式・卒業式にも出ないままになりそうだ。

 

要するに『脱学校社会』のイリイチ主義者なのだ。

イリイチは、自ら学ぶ力と可能性をうばう学校を産業社会の制度的基盤として批判したが、

芸術はそもそも制度化された「学校」で学ぶものではない。ましては今の芸大は文科省に振り回されている。

だいたい芸術家になるには芸大で学ぶことが当然と考えている芸大出身の先生連中に腹が立つ。

芸術をなめられている気がする。

 

それはそうと、赤松新学長の入学式の式辞を読んで、ちょっとびっくりした。

芸大のキーワードとしての「テラス」に言及しているのだ。

「テラス」は、3年前の2016年の夏休み前、ぼくが理事会に頼まれて、小山田徹さんといっしょにつくった芸大移転の基本コンセプトだ。

新キャンパスの設計を公募するため、建築家にも取っつきやすく、かつ芸術大学の理想を端的にあらわす概念が必要だった。

terrasse

 

ぼくは地形を芸術の理想のモデルと考えているので、terrasseがラテン語のterraに由来し、まわりより小高くなった段丘をあらわすことを知って、これしかないと思ったのだ。そもそも移転先の崇仁地区は、もと鴨川の氾濫原で、運河の高瀬川が時代ごとに流路を変えてうねうねする。

移転基本コンセプトの冊子はそのままぼくが仕上げて公募にまわされた(表紙絵だけ小山田さん)。

テラスのイラストは時間ないなか即席で仕上げたが、それが今も使われている。

 

だが設計が進むにつれ、いつのまにかだれも「テラス」を口にしなくなった。

案の定、当初の基本コンセプトは消えていくように感じていた。

高瀬川のうえに木造の《崇仁テラス》を実際につくったのは、それへの暗黙の抗議でもあった。

 

赤松学長は、しかしさらに進んだことも言っている。

それは、今沓掛にあるキャンパスそのものを「テラス」(という理念)としよう、と呼びかけたことだ。

これにはちょっと感心した。

芸術を学ぶ場を「テラス」にするとは、芸術を人間と自然の対話的関係のうちに置き戻し、社会への問いかけとして開くことを意味する。

学長になって、玉女さんは化けたのかもしれない。

いずれにせよ、芸大から消えたと思っていた「テラス」というキーワードが復活したのはうれしい。

次は教授会で一笑に付された「テラス音頭」だ。

もうすぐ一遍上人絵伝の展覧会がはじまる。