voyage d'Iwate_6: La Minière de Hashino

10 août 2017

 

午後、イギリス海岸から釜石自動車道を経て、遠野へ。

さらに県道35号線で、橋野鉄鉱山高炉跡をめざすが、笛吹峠付近で一部崩壊しているらしく通行止め。

やむなく国道283号線で釜石まで出て、迂回する。

 

雨の中、地元の職員の人がインフォメーションセンターから案内してくれる。

橋野鉄鉱山

橋野鉄鉱山高炉跡は、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業(Sites de la révolution industrielle Meiji au Japon : sidérurgie, construction navale et extraction houillère)」の構成資産として、2015(平成27)年にユネスコの世界遺産に登録された。

日本に現存する最古の洋式高炉跡。

登録された年はずいぶん観光客が訪れたそうだが、今はめっきり減っているとのこと。

 

橋野鉄鉱山

高炉といわれても、今は石を積み上げた跡が部分的に残っているだけで、モニュメンタルはものはない。

高炉の一部や、フイゴをまわすのに使った水路跡のまわりに、石がゴロゴロしている。

鉄鉱山の溶鉱炉で働いたことがない人間には、解説や看板がないと、さっぱりわからないだろう。

水の利用に関心があるので、斜面を使ったダイナミックな水路を水が流れ、水車がまわってフイゴに動力が伝わったことくらいがかろうじて想像できる。

橋野鉄鉱山

 

橋野鉄鉱山

湯口前で溶けた鉄を砂場に流し出す(案内板の「紙本両鉄鉱山御山内ならびに高炉之図」より)。

 

橋野鉄鉱山が近代産業遺産であるのは、欧米列強と対峙するための大砲用の銑鉄をつくるに、従来のたたら製鉄ではまにあわず、高炉とでかいフイゴを使った近代的な製鉄が初めて行われたからだ。

操業は1858年から1894年まで。

なぜこの地かというと、鉄鉱がとれるだけでなく、付近でたたら製鉄が行われていたからだそうだ。

新しい技術を受入れる土壌があったわけだ。小学校で習った「製鉄の釜石」の出発点。

 

橋野鉄鉱山

石積みの高炉がほとんど原型をとどめないまま崩れているのに対し、この鳥居だけは当時の姿のままという。

案内人さんは、いつ崩れてもおかしくない状態なので、修繕・補強したいというが、世界遺産になるといっさい手出しはできない。

橋野鉄鉱山

たしかにあわやという状態だ。

あとでユネスコのサイトを調べたら、ほかの萩や長崎などの産業遺産は建物や施設の写真が載っているのに、なんと橋野鉄鉱山は、この鳥居の写真が載っているだけではないか。→(*)

 

橋野鉄鉱山

鉄鉱石や製鉄のあとの鉄くずがまだ辺りには散見される。

石垣にも鉄鉱石が使われていた証拠に磁石がくっつく。

自分も鉄鉱石や製鉄くずを見つけて、おみやげにした。

 

橋野鉄鉱山

もうひとつ案内人から面白いことを聞いた。

世界遺産登録のとき、辺りに生えていた立派な樹木が切られ、地形がむき出しにされてしまった。

木は近代的な製鉄の仕事と関係ないからという理由だったが、おそらくたたら製鉄の時代から木(種類ど忘れ)は守り神。

近代産業遺産は、前近代の製鉄業からのつながりを断ち切って成立させられている。

 

ユネスコの選定委員はみな鉄鉱山で働いたことのない学者や行政マンたちだ。

 

 

voyage d'Iwate_5: rivage anglais

10 août 2017

 

高村山荘のあと、賢治が「イギリス海岸」と呼んだ北上川の西岸へ。

イギリス海岸

花巻では、賢治が住んだり訪ねたり滞在したりしたあらゆる場所(その多くが作品中にも登場する)が観光地化されている。

 

イギリス海岸

 

イギリス海岸

地層がはっきり見える。一番下の固そうな岩の層は、手前の河岸の泥岩と同じものだろう。

賢治が『イギリス海岸』のなかで、乾くと真っ白に見え、「イギリスあたりの白亜の海岸を歩いているような気がする」と書いた泥岩層は、今は水に沈んで見えない。

 

イギリス海岸

ちょうど岸壁の補修をしていて、小学生たちが思い思いの石を塗ったばかりのコンクリートに埋込んでいた。

いい試みだと思う。

 

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賢治と土地や場所との関係は、郷土愛というような次元のものでは決してない。

地質学者でもあった彼は、決して地面を人間的な尺度で見ていなかった。

いつもはるかな過去と未来のあいだで変成する存在として川や山や大地を見ていた。

だから人間的な尺度で名づけられた地名にもこだわりがなかった。命名は根源的に無根拠で恣意的である。

そのことがこの「イギリス海岸」によく感じられる。

 

彼は、北上川のあった場所が地質時代の第三紀、海だった頃のことについて書いている、

「そのころ世界には、人はまだいなかったのです」と。

 

ぼく自身、昨年の「新シク開イタ地」展で、「無人の地」というコンセプトを得て、かつて「無人島 Bonin Islands」と呼ばれた小笠原の父島まで行った。地名の徹底した無根拠さも、大事な視点になった。

北上川の岸辺を行ったこともない「イギリス海岸」と名づける賢治に共感する。

 

それ以上に、発見したのは、賢治は、知覚される現象や心の中の情感をことごとく鉱物のように見ていることだ。

空の色は鉱物の色になぞらえられる。逆に言えば、鉱物とそれでできた大地は、彼にとっては「すきとおった空」なのだ。

地面を通して銀河を見、見上げる空に地面を見る。それを見る賢治は「気圏の底」にいる。

上と下、天と地、内と外、虚と実の可換性。

地をみることは星をみること。岩手山も空にえぐられた空虚だ。

なぜなら「物質全部を電子に帰し、電子を真空異相といえば、いまとすこしもかわらない」(賢治)

賢治のイメージ

 

 

外の堤防の上に、賢治の黒板伝言板を模したユーモラスな看板があった。

イギリス海岸

 

 

voyage d'Iwate_4: lumière

10 août 2017 jeudi

 

日本の近代芸術史をしっかり勉強してこなかったので、今回の旅はその再学習の旅でもある。

 

朝、花巻市太田にある高村光太郎記念館と山荘を訪ねる。

高村山荘

高村光太郎(1883−1956)が1945年11月から1952年10月までの7年間独居したという小屋は、二重の建物で覆われていた。

 

高村山荘

もとの情景。小屋はもと鉱山の飯場小屋を移築したものという。

左手に光太郎。右に厠(月光殿)、風呂小屋。(案内板から)

 

賢治の死後、著作集の刊行などによって賢治が知られるようになったのは、光太郎の尽力によるところが大きい。

そんな近代文学史の常識も知らなかったことが恥ずかしい。

 

1945年に東京のアトリエを空襲で失った光太郎は、懇意にしていた宮澤賢治の父と弟(宮澤清六)を頼って花巻に疎開しに来た。

だが花巻も8月10日に空襲に会い、再び住む場所を失った光太郎は、終戦後の10月に太田村山口の小屋に移り住んだ。

このとき62歳。

 

小屋は、7坪半(22.5屐法間口3間奥行2間半、杉皮葺きの屋根に天井板なし、荒壁、障子一重。

寒風吹き込み、ときには零下20°にもなるなか、炉で焚き火し、井戸から水を汲み、石油ランプで過ごした。

戦意高揚のための詩を多く作ったことへの贖罪の気持ちから、「自己流謫」と称し、自らに彫刻も禁じ、農耕自炊の独居生活を選んだという。

 

高村山荘

じつに決まった写真。何かの取材のときか。服は特別あつらえらしい。

高村山荘

 

光太郎はこの小屋暮らしで、「書」にめざめ、数百点もの「書」を遺した。曰く、

「書を究めるという事は造詣意識を養うことであり、この世の造形美に眼を開くことである。書が真に分かれば、絵画も彫刻も建築も分かる筈であり、文章の構成、生活の構成にもおのずから通じて来ねばならない」(高村光太郎「書について」)

 

「この世の造形美」というところが大事だ。人がつくらなくてもすでに自然は造形美に満ちている。それをどうすくい取るかが芸術の要だ。この世の造形美は水と光、そして生命がかたちづくる。

障子に描いた日時計がひどく美しい。ヒモが障子に落とす影で「時」をはかる。

 

高村山荘

 

光太郎は自分の名前を構成する文字「光」にもあらためて気付いたのではないだろうか。

この7年間、彼は彫刻を自らに禁じたというが、ひとつだけ彫刻がある。

月光殿と名づけた厠の板壁に彫った「光」の文字だ。

 

高村山荘

 

高村山荘 

光太郎がこの文字を彫っているときの写真がある。(撮影は濱谷浩)

これは彼がこの土地で実践した書と彫刻と建築を統合した唯一の造形といえるのではないか。 

 

10年前、ぼくはネオンで「影」という作品をつくった。影という文字が光って、影をつくりだす。

おそれおおいが、それを思い出した。

 

高村山荘

光太郎が試掘したらしい井戸が小屋の近くにある。「光井」と名づけられていた。

光の井戸。

 

高村山荘

苔むして美しい散歩道がうねる。

 

光太郎はこんなことを書いている。

 

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 山 林

 私はいま山林にゐる。
生来の離群性はなほりさうもないが、
生活は却て解放された。
村落社会に根をおろして
世界と村落とをやがて結びつける気だ。

  (『暗愚小伝』より)

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賢治が羅須地人協会で夢見たような、ユートピア思想がかいまみえる。

世間から離れて田舎に移り住んだ芸術家はみなこういうふうに思うのだろうか。

自分の中にもゼロとはいえないユートピア志向。

 

高村山荘

智恵子展望台にも行ってみた。基礎が新しい。最近建て替えられたらしい。

 

 坂を登るとここが見晴らし

 展望二十里南にひらけて

 左が北上山系

 右が奥羽国境山脈、

 まんなかの平野を北上川が縦に流れて

 (高村光太郎『案内』より)

 

 

voyage d'Iwate_3: école du jardin

9 août 2017

 

羅須地人協会の建物を出たところに、宮澤賢治の「農業芸術概論綱要」の石碑がある。

農民芸術概論綱要」は、賢治が協会での講義用に執筆した。

「まずもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばろう」という有名な言葉もこのなかにある。

 

石碑の南側に起伏のある芝地があり、賢治の銅像がある。

羅須地人協会

普通なら平らに均すところが、起伏を強調しているのが面白い。

 

賢治は花壇の設計もしている。

花巻農業高校には造園科があるらしく、芝生地の南に造園技能検定場と造園見本園があった。

花巻農高_造園科

 

花巻農高_造園科

検定試験は、石8個、正方形の平石3個、直方体の石2個で、1.5mx2mくらいの与えられた敷地に庭を造形せよ、というものらしい。

隣の造園見本園には、1級から3級までの検定用造園見本、さまざまな飛び石の見本、竹垣の見本があった。

造園見本園

 

造園見本園

1級

造園見本園

2級

造園見本園

3級

 

石の並べ方の真・行・草の三態もあった。

造園見本園

造園見本園

造園見本園

 

飛び石の見本。

造園見本園

 

造園見本園

 

造園見本園

 

造園見本園

 

ずらりと竹垣の見本群もあった。

造園見本園

 

見本園の入口には門もしつらえてある。

造園見本園

屋根は苫葺きで、シンプルな作り。つちのいえの参考になる。

 

造園見本園

造園見本園の東には環境科学棟があり、その前に造園実習で使うらしい庭石がランダムに積み上げられていた。

 

造園

敷地内は溝ブタも多様である。

 

voyage d'Iwate_2: Association Rasuchijin de Kenji Miyazawa

9 août 2017

 

午後3時頃、花巻農業高校敷地内にある宮澤賢治の元私塾「羅須地人協会」をたずねる。

 

羅須地人協会

 

羅須地人協会

 

羅須地人協会

 

建物は賢治の祖父のもと別邸で、1904年に宮沢家から1.5kmほどの花巻市桜町にあった。

賢治は大正15(1926)年8月、ここを拠点に羅須地人協会を設立し、農業を基盤に、科学・芸術・教育を融合する総合芸術運動を始める。同年暮れには自分自身を高めようと、上京してオルガンやチェロを習い、図書館やタイピストの学校にも通う。賢治が高村光太郎のアトリエを訪ねたのもこのときだった。

羅須地人協会の強烈な理想主義には、ウィリアム・モリスらのユートピア思想も影を落としているように感じられる。

だが、まもなく賢治の思想と行動は危険思想として取り締まりの対象になり、翌年3月には活動停止に追い込まれる。

 

賢治は同じ大正15年3月に、4年務めた花巻農学校を依頼退職している。

前年の10月25日に書いた詩「告別」に、教員をやめる決意がうかがえる。

 

 おれは四月はもう学校に居ないのだ
 恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう

 

賢治の没後、建物は人手に渡って現在の場所に移築されたが、奇しくも1969年に花巻農学校の後身である花巻農業高等学校が移転してきて敷地の一部となった。解説看板にも書いてあったが、なんという不思議なめぐりあわせだろう。

 

羅須地人協会

有名な「下ノ畑二居リマス」のチョークの板書が玄関の外に掲げられているが、賢治の書体をまねて弟の宮沢清六が書いた文字が消えないよう、高校生がなぞり書きしていると聞いた。この言葉は単純な伝達である以上に、賢治の生き方と思想を物語って、感動的だ。

 

建物内の展示物のなかでもっとも興味をひかれたのは、賢治が描いた教材絵図の複製だ。

 

「原子・分子と岩手県」の図

賢治教材絵図

教材という、説明を目的としたものであるがゆえに、美術作品くさくなく、純粋ですばらしいドローイングだ。

賢治のこういう側面も知らなかった。

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この図で賢治は生徒たちに物理的なスケールを説明しようとした。


Xの左上の○を16000000倍すると、右に点線で示された岩手県の○の大きさになる。

つまり直径が19.2kmとなり、岩手県の東西径とほぼ一致する。

一方、分子は16000000倍しても黒い○の大きさ(直径3.2cm)にしかならない。
次にその分子を5倍すると、二つの原子が円運動する直径になる。

その原子を10倍すると、その下の大きな円環(直径16cm)になる。

これは原子核とその周りを回る電子で、水素原子の構造を示す。

電子の大きさは0.0000000002cm、水素原子の直径は、0.0000000217cmとも記されている(賢治は点の位置を下位に訂正している)。
原子運動の右の図は、空気中の分子の運動を模式的に表わしたもので、上の書き込み「1 mile per sec」は水素分子の速度。「100,0000,0000 attaction per sec」は、水素分子が1秒間に他の分子に衝突する回数。attaction はattackの誤記。

これらの数値は、賢治の蔵書「通俗・電子及び量子論講話」218ページにもとづくらしい。

——高村 毅一・宮城 一男編『宮沢賢治科学の世界―教材絵図の研究』 (1984年) による。

 

「土色図」

賢治教材絵図

 

賢治教材絵図上のは、当時の土壌学の本の中の「土壌三原色の図解」

を左右反転して賢治が彩色したもの。

白は鉱物に基づく色、

赤は酸化鉄に基づく色、

黒は腐食土に基づく色。


 

「段丘の歴史」

賢治教材絵図

右が北上川、左が豊沢川。

賢治がなづけた「イギリス海岸」は右の段丘に顔を出す。

 

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鑑賞されることを目的としない純然たる概念図が、鑑賞されることをねらった美術のドローイングよりも美しいものになりえることは、田中敦子の《電気服》の配線図ドローイングで知っていた。

そんなことを賢治の教材絵図で確認することになろうとは。