faire une terrasse_2

8 octobre 2017 dimanche

 

テラスづくりを開始。

平日は大学の仕事が忙しくて、崇仁地域まで来ての作業は、土・日・月しかできない。

10/22(日)の「漂流するアクアカフェ」に間に合わせるには、10/08,10/09,10/14,10/15,10/16,10/20,10/21の7日間。

形はシンプルとは言え、川の中に設置するし、人が乗るので構造的に安定・安心なものでないといけないので、結構あせる。

京都市からもらった高瀬川の図面はあてにならないので、やはり現場で採寸からやり直すのに限る。

正解だった。やってみてわかったことがたくさんあった。

テラス試作

高瀬川の設置場所にて、北を望む。

これで奥行8m、左右6m。川底から梁の下面まで80cm。

脇の支流の石垣の東側は西側より5cm低かった。

束石を使うのも正解だった。

これで束柱の加工の仕方が決まった。

このエリアの再開発のとき、唯一残されたという桜の木を取り込む。

その枝を使ってスクリーンをつくることも可能とわかった。

 

高瀬川の川魚

川には魚がいっぱい。ハエかオイカワかカワムツか。

 

oiseau

エサを求めて、サギもしょっちゅうやってくる。

 

この場所は芸大移転予定地ではB地区といい、将来、地域と芸大の直近の交わりの場となる。

 

崇仁団地予定地

高瀬川の西側はもっか空き地になっている。そこに建てるという崇仁市営住宅。

下中北ブロックが25戸で地上6階、下中南ブロック(芸大側)が96戸で地上10階、高さ31m。

結構高いビルがドーンと突立つことになる。

芸大側から北を見て、見通しが開けるのは高瀬川ぐらいしかないだろう。

都市計画局が三宅建築事務所とかにまかせたビルのデザインは、芸大の設計チームに伝わっているのだろうか?

そもそも都市計画局は、芸大の移転コンセプトや設計イメージを知っているのだろうか?

 

久しぶりに中光園で昼食をすませたあと、たまたま「平成の京町家」KYOMOに立ちよったら、閉鎖前のイベントをやっていた。

無料でおいしい珈琲が飲め、ドーナツももらえる。

企業のモデルハウス群は近く撤去されるというが、平成の京町家普及センターは残るという。

2年前に2階にとりつけた鍛金アルミの高瀬川がまだあるだろうかとのぞいたら、しっかり残っていた。

かつての高瀬川の流れがこの方向。

2年を越える長期インスタレーション。ちょっとうれしい。

tracing suujin 2015

 

資材置場

旧崇仁小学校体育館西側に資材置場兼作業場所を確保。

今日は、廃材で作業テーブルをつくり、材木をコーナンプロ吉祥院から運んだ。

足場板(30x200x4000)54本、桧バタ角(90x90x3000)9本(2本足りない!)、2x4材(L3650)14本、束石15個・・・

 

体育館から電気を引け、庇もあり、照明もつく。まわりに住宅はない。

にんまりする。

 

その体育館のなかでは金氏徹平氏らのチームが舞台稽古に励む。

にぎやかだ。

高校時代のことを思い出す。

ぼくは柔道部でたった3人でさみしく練習していた。

それに対して、文化系の連中はたくさんいて、にぎやかで華やかで、男子も女子も大人びていて高尚そうだった。

同じ構図が今も。

にんまりする。

 

 

faire une terrasse

5 octobre 2017

 

9月にカッセル、ミュンスター、ヴェネチアに行ったが、この備忘録に記録を整理できないまま、さまざまなモノゴトにまきこまれている。

勤務先の京都芸大の移転計画の公募プロポーザルの結果が9月11日に公開された。ちょうどベネチアに着いた翌日、イタリア人建築家の友人Robertoと駅のカフェにいたとき、青木淳さんのtwitterで結果を知った。(→

この移転の基本コンセプト<Terrace>をまとめたのは僕だが、それと関わって今年も移転プレ事業 "still moving"に参加することになった。

 

ぼくは移転先の地域の崇仁高瀬川保勝会にもまきこまれているので、立場的に微妙なところがある。

今回は作品を展示する「展覧会」ではない、ということなので、崇仁高瀬川保勝会との協働作業という仕立てで、高瀬川の上にテラスを仮設することにした。

高瀬川の物理的な使用の可能性を探り、次年度の活動の下地をつくること、「漂流するアクアカフェ」の舞台として「テラス」のコンセプトを先取りすること、そんなねらいがある。

 

つくるテラスは8mx6m。結構でかいのをまた一人でつくることになりそうだ。

 

この上で10月22日にやる「漂流するアクアカフェ」のコンテンツを探っていて、面白いアイデアに出くわした。

<河原>だ。

崇仁地区を芸大という「テラス」が着地することで生成する新しい「河原」ととらえる。
生態学的撹乱の発生する川・河原の不安定なダイナミズムは生態系の生命システムのリソースでもあり、アートは社会における生態学的撹乱でもあるから、河原はアートの場にふさわしい、という乱暴なヴィジョン。

楽しく刺激的な集いになればと思う。

人数制限のために川掃除に参加しないとアクアカフェのテラスに上がれないという、これも乱暴なアイデアが気に入っている。

 

高瀬川川掃除イベント171007

 

漂流するアクアカフェvol.7チラシ

 

 

 

 

 

Ma maison natale s'efface...

16 août 2017

 

ブリューゲルの『バベルの塔』を見に、大阪の国立国際美術館へ。

お盆なので、その後、大阪の四天王寺にお参りし、生家のあった針中野まで足をのばす。

 

針中野

 

針中野

 

針中野の地名の由来は、この中野鍼にあることぐらいは知っていたが、中野家は、大正時代に大阪鉄道(今の近鉄)の開通に尽力したので、「針中野」の駅名がついたそうだ。

中野鍼は、「弘法大師の伝授した鍼の技術を今も伝える」と言われているらしい。(

かんしゃく持ちだった幼年期の僕は、よくここに連れて来られて鍼を打たれて泣き叫んだが、弘法大師の鍼だったのか。

それでのちに真言密教に興味をもったのか。

 

生まれ育った場所とはいえ、高校を出てすぐ生家を離れたので、土地にも家にも何の未練もなかった。

そもそも生家は薄い壁を通して隣の音もよく聞こえるオンボロ長屋の借家だった。

土地も借地だった。道路より低く、よく床下浸水した。

 

10年前、文化庁芸術家在外研修で在仏中に父が亡くなり、家賃を払い続けるのもむだなので、借家の生家も家主に返すことにした。

又貸しでややこしい借り方だったので、昔は裁判沙汰にもなった。返却処分には弁護士の助けが必要だった。

ちょうどそのころ始めたブログに、家を処分する記録が載っている。

> 11 avril 2007 le denière jour de ma maison natale

 

それからめったにこの地を訪ねることもなかった。前回来たのは2011年8月19日。

今年は実家を撤去してちょうど10年目。

googleの航空写真で見たら、建物がなくなっているようだったので、実際に見に来たのだ。

 

やはり家は消えていた。

中野150番地

生家があった借地は、セブンイレブンの駐車スペースになっていた。

 

中野150番地

このコーナーにすごいトタン張りの家(野路さんち)があった。

「バベルの燈 水平化すれば コンビニに」

 

中野150番地

うしろの駐車ガレージはそのまま残っているので、それを目安にすれば、この辺りが以前の家の正面か。

 

 

中野の実家

かつてあった実家(2007年3月16日)。

幅一間半。店じまいしたクリーニング店と中華料理店にはさまれていた。

 

野路さんち

角にあった野路さんち。トタン張りがすごかった。(2007年3月16日)

よく見ると、歩道の手すりやポールはそのまま残っている!

 

 

中野150番地 

 セブンイレブンでアイスキャンデーを買った。

 レシートに住所が記してある。

 東住吉区中野4丁目8 - 19。

 まぎれもなく僕の生家の住所。

 区画割で4丁目となる以前は「中野町150番地」。

 

 戦後、市街地が田畑をつぶして拡張していく。

 中野町150番地はその前線地だった。

 廻りは田んぼばかりで、ぼくは都会っ子ではなく自然児だった。

 

 本籍もまだここ東住吉区中野4丁目8にある。

 本籍がコンビニというのは面白い。

 このレシートは本籍証明書になる。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

親類からまかされていたお好み焼き屋(ミッキー)が近くにあったので、そこにも行ってみた。

ミッキー

 

ミッキー

やはりなくなっていた。こちらは駐車場になっていた。

向いに小倉屋の昆布工場があったが、今は高層マンション。

 

色即是空、空即是色。

 

 

voyage d'Iwate_8: architecture attend le vent

12 août 2017 samedi

 

気仙沼湾最奥部の内湾地区に「風待ち」という面白い呼び名の地区がある。
港を出る帆船が船出に適した風を待ったためにこう呼ばれる。

そこには国登録文化財にもなっている多様な建築スタイルの建物があり、独特なまち並みを形成していた。

風待ち地区は、2011年3月11日の震災と津浪で大きく壊滅したが、その後、「風待ち復興検討会」により復元工事が進められている。

そのひとつ、魚町二丁目の角星酒店を訪れた。

伝統的な塗り家造りで、魚町の屋号通りに面し、歴史的町並みを形成していたという。

店舗は昨年2016年11月に復元工事が完成し、お披露目が行われた(*)

 

なんとそこは、見覚えがあった。

2011年8月1日、壊滅状態の気仙沼をぼうぜんと歩き回っていたぼくは、その建物の写真を撮った。

 

風待ち

(2011年8月1日撮影)

 

一階は流失、二階も大破して敷地の奥に流された。

それを曳屋工法でもとの位置にもどし、気仙大工たちが復元に取り組んだという。

表からみるとわからないが、敷地は平行四辺形で、海側に正面を向けるため、腕木や瓦に角度をつけている。

 

風待ち

 

風待ち

2階はギャラリーになっていて、建物の構造を一部見えるようにして紹介している。

モダンな窓ガラスのデザインは、この建物が建てられた昭和初期を物語る。

(気仙沼は昭和4年に大火があったそうだ。)

 

風待ち

 

気仙大工のわざと心意気。

風待ち

 

風待ち

 

みごとな復興ぶりを見ると、6年間が長いような短いような。

 

 

voyage d'Iwate_7: Musée de Kenji Miyazawa et de la pierre

12 août 2017 samedi

 

賢治の足跡をめぐる短い旅の締括りに、陸中松川駅(ドラゴンレール大船渡線)近くにある石と賢治のミュージアムを訪れる。

賢治が20ヶ月余りの肺炎との闘いののち、昭和5年から技師・アドバイザーとして協力した東北砕石工場の跡地と線路沿いにつくられた「大洋と風邪の家」、トロッコ道ギャラリーなどからなる。

 

石と賢治ミュージアム

工場は改装中で入れなかった。

石と賢治ミュージアム

群像写真を元にしたコーナー。ベレー帽の賢治の右手に工場長の鈴木東蔵。手前にトロッコに満載した石灰石。

なんで写真を立体化したのだろう。

 

石と賢治ミュージアム

 

石と賢治ミュージアム

砕石工場の建物は県の登録文化財になっている。

さまざまな屋根の組み合わせが抜群。白い禁欲的な板張りがモダンで美しい。

だが、実際は内側にコンクリブロックで構造体がつくられ、板張りは外見のみ。

 

石と賢治ミュージアム

賢治が「雨ニモマケズ」の詩を手帖に書いたのは、昭和6年11月3日。

この工場のために石灰の肥効を説き、石灰販売のためのパンフレット制作や営業に東奔西走して、9月にまたからだを壊して臥せっていたときだ。

石と賢治ミュージアム

石と賢治ミュージアム

 

石と賢治ミュージアム

ミュージアムの中心施設「太陽と風の家」は、鉱物標本や賢治の関連図書が展示されている。

これは、ロシア産のイカ石で珪酸塩。成分は含水炭酸カルシウム。丸い塊の石から赤茶色の石がトゲのように突き出ている。

奥の双思堂図書館は、賢治に関連する充実した蔵書を持つ。

 

石と賢治ミュージアム

みやげものコーナー。

 

石と賢治ミュージアム

今も石灰岩の山を削っている。