voyage d'Iwate_2: Association Rasuchijin de Kenji Miyazawa

9 août 2017

 

午後3時頃、花巻農業高校敷地内にある宮澤賢治の元私塾「羅須地人協会」をたずねる。

 

羅須地人協会

 

羅須地人協会

 

羅須地人協会

 

建物は賢治の祖父のもと別邸で、1904年に宮沢家から1.5kmほどの花巻市桜町にあった。

賢治は大正15(1926)年8月、ここを拠点に羅須地人協会を設立し、農業を基盤に、科学・芸術・教育を融合する総合芸術運動を始める。同年暮れには自分自身を高めようと、上京してオルガンやチェロを習い、図書館やタイピストの学校にも通う。賢治が高村光太郎のアトリエを訪ねたのもこのときだった。

羅須地人協会の強烈な理想主義には、ウィリアム・モリスらのユートピア思想も影を落としているように感じられる。

だが、まもなく賢治の思想と行動は危険思想として取り締まりの対象になり、翌年3月には活動停止に追い込まれる。

 

賢治は同じ大正15年3月に、4年務めた花巻農学校を依頼退職している。

前年の10月25日に書いた詩「告別」に、教員をやめる決意がうかがえる。

 

 おれは四月はもう学校に居ないのだ
 恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう

 

賢治の没後、建物は人手に渡って現在の場所に移築されたが、奇しくも1969年に花巻農学校の後身である花巻農業高等学校が移転してきて敷地の一部となった。解説看板にも書いてあったが、なんという不思議なめぐりあわせだろう。

 

羅須地人協会

有名な「下ノ畑二居リマス」のチョークの板書が玄関の外に掲げられているが、賢治の書体をまねて弟の宮沢清六が書いた文字が消えないよう、高校生がなぞり書きしていると聞いた。この言葉は単純な伝達である以上に、賢治の生き方と思想を物語って、感動的だ。

 

建物内の展示物のなかでもっとも興味をひかれたのは、賢治が描いた教材絵図の複製だ。

 

「原子・分子と岩手県」の図

賢治教材絵図

教材という、説明を目的としたものであるがゆえに、美術作品くさくなく、純粋ですばらしいドローイングだ。

賢治のこういう側面も知らなかった。

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この図で賢治は生徒たちに物理的なスケールを説明しようとした。


Xの左上の○を16000000倍すると、右に点線で示された岩手県の○の大きさになる。

つまり直径が19.2kmとなり、岩手県の東西径とほぼ一致する。

一方、分子は16000000倍しても黒い○の大きさ(直径3.2cm)にしかならない。
次にその分子を5倍すると、二つの原子が円運動する直径になる。

その原子を10倍すると、その下の大きな円環(直径16cm)になる。

これは原子核とその周りを回る電子で、水素原子の構造を示す。

電子の大きさは0.0000000002cm、水素原子の直径は、0.0000000217cmとも記されている(賢治は点の位置を下位に訂正している)。
原子運動の右の図は、空気中の分子の運動を模式的に表わしたもので、上の書き込み「1 mile per sec」は水素分子の速度。「100,0000,0000 attaction per sec」は、水素分子が1秒間に他の分子に衝突する回数。attaction はattackの誤記。

これらの数値は、賢治の蔵書「通俗・電子及び量子論講話」218ページにもとづくらしい。

——高村 毅一・宮城 一男編『宮沢賢治科学の世界―教材絵図の研究』 (1984年) による。

 

「土色図」

賢治教材絵図

 

賢治教材絵図上のは、当時の土壌学の本の中の「土壌三原色の図解」

を左右反転して賢治が彩色したもの。

白は鉱物に基づく色、

赤は酸化鉄に基づく色、

黒は腐食土に基づく色。


 

「段丘の歴史」

賢治教材絵図

右が北上川、左が豊沢川。

賢治がなづけた「イギリス海岸」は右の段丘に顔を出す。

 

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鑑賞されることを目的としない純然たる概念図が、鑑賞されることをねらった美術のドローイングよりも美しいものになりえることは、田中敦子の《電気服》の配線図ドローイングで知っていた。

そんなことを賢治の教材絵図で確認することになろうとは。

 

 

voyage d'Iwate_1

8 août -10 août 2017

岩手県盛岡ー花巻ー橋野(釜石)の短い旅

 

8 août, mardi

16:45 京都発 ー 盛岡泊(駅前ホテル)

 

9 août 2017, mercredi

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報恩寺(盛岡市名須川町31-5)

禅宗寺院が建ち並ぶという寺町をたずねたところ、たまたま入り込んだ報恩寺。

山門の立派さや彫刻と鉱石が同席するせまい展示室、五百羅漢のお堂に驚く。

報恩寺五百羅漢

 

報恩寺五百羅漢

 

報恩寺五百羅漢

左がマルコ・ポーロ、右がフビライ・ハーンと言われているらしい。

 

報恩寺五百羅漢

羅漢堂の五百羅漢(寄木造・漆彩、1731年〜)は京都の仏師・駒野丹下ほか9人の作。

五百羅漢は日本に50例ほど現存するといわれるが、実物を見たのはここが初めて。

それぞれ表情や身ぶり、持ち物を違えたユーモラスな造形はとても日本的に見える。

 

報恩寺

羅漢堂に入る手前の通路が彫刻や石の展示室になっている。

 

報恩寺

日露戦争の戦没兵士・横川省三の巨大彫刻。

彫刻に合わせてわざわざ天井を高くしているが、だれも顔を見ることができないのが笑える。

もとは屋外に展示していたのだろうか。

 

報恩寺

彫刻のまえには鉱石や珪化木がずらずら並べられている。前近代の展示スタイル。

尾去沢鉱山は、秋田鹿角市にある近代化産業遺産で、黄鉄鉱や黄銅鉱がたくさん採れた。

岩手は、岩石、彫刻、そして賢治の土地なのだ。

 

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小岩井農場 

中はテーマパーク風なので、入らずに付近を散策。起伏する地形が美しい。

 

小岩井農場にて

牛の飼料

これが黒だと、汚染土壌収納フレコンを想起させる。

 

トレーラーハウス

トレーラーハウスの下。

 

岩手山

岩手山

台風5号は日本海で温帯低気圧になったとはいえ、東北は雲が厚く、山頂は見えない。

 

岩手山は複成火山(成層火山)で岩手の最高峰(h2038m)。賢治はこの山に30回以上登ったという。

賢治が「溶岩流」(『心象スケッチ・春と修羅』)という詩に書いているように、貞享4(1686)年の小噴火に始まり、享保16(1731)年の大噴火で有名な焼走り熔岩流ができた。

さらに面白いのは、賢治の「国立公園候補地に関する意見」と題した皮肉たっぷりの詩だ。

岩手山は1956年に国立公園になった。

 

今更だが、賢治が徹底的に地形やそこを歩いた経験を詩にしていることをあらためて知った。

自分も地形をテーマに作品をつくっていて、賢治も大好きなのに、そのことを知らなかった。

賢治が隠れてみえない巨大な岩手山そのものに見える。

裏岩手に回ると数度にわたる山体崩壊のあとも見れるという。

 

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早池峰神社(花巻市大迫町内川目第1地割1)

明治期の排仏毀釈前は、岳妙泉寺といったらしい。

大迫の市街地にも同じ名前の神社があり、最初まちがってそちらに行きかけた。

早池峰山は北上山地の最高峰(標高1917m)で、もとは霊山で修験道の山だったらしく、賢治も好んだ山だった。

隣接して早池峰岳神楽伝承館(大迫郷土文化保存伝習館)があり、衣装装束やお面、古絵図などが展示され、舞台もある。

 

早池峰神社

 

早池峰神社

変わった基礎が気になる。どの建物だったか。建立は慶長年間?

 

早池峰神社

山門の脇にて。

 

妙泉寺絵図

興味深い絵地図。二つの川筋から左右の山を見ている。あいだの山がせめぎあっている。

 

岳明泉寺絵図

岳妙泉寺絵図。手前は岳の部落だろう。

堀や石垣、庭園もあり、寺領壮大な相当立派な寺だったようだ。

明治の排仏毀釈というのは、寺院権力を削ぐためとはいえ、まったく無茶なことをしたものだ。

 

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大沢温泉湯治館(花巻市湯口大沢181)

 

大沢温泉

 

大沢温泉

 

大沢温泉

 

大沢温泉の三つのパートのうち、素泊まり・食事別でリーズナブルな価格のうえに、木造の建物が江戸時代のものと最も古い。

ここから隣の山水閣、川向こうの菊水館の温泉に行けるのも魅力。

食事は館内の「やはぎ」という食堂でとるが、好きなメニューを選べ、レトロなインテリアもいい。

部屋は和室で鍵もかからず、片隅の赤い箱には避難梯子が入っている。

東北の温泉にまだあまり入ったことはないが、今までで一番気に入った温泉。

湯治というのも、いつか一度はやってみたい。

 

大沢温泉

 

大沢温泉

古い旅館でもっとも好きなのが、増設した建物のジョイント部分。

ブリコラージュ感覚にあふれ、ギシギシとたてる音がたまらない。

 

 

Au bord de l'eau

2017年5月27日(土)

 

夕方から、東九条のお好み焼き「あずき」で、崇仁の山内政夫さん、菊浜の上村隆明さん、景観フォーラムの中村伸之さんとミーティング。

次回の崇仁高瀬川保勝会の川掃除イベントは6月11日(土)と決まる。

 

上村さんから五条〜七条の高瀬川にホタルが飛んでいることを教えてもらい、会合後、足を延ばす。

ほんとうにたくさんいる。五条下ったあたり。

都会のまんなかの川にホタル。上村さんたちの高瀬川保勝会の活動の成果だ。

高瀬川のホタル

 

この連休明けに、京都芸大の移転の公募プロポーザルが京都市のHPに公示された。(→

設計の資料のひとつとなる芸大の移転基本コンセプトは、ぼくがつくったものがほぼそのまま載っている。

「高瀬川の活かし方が要のひとつとなる」との1節が6頁にある。

山内さんは高瀬川の歴史の掘り起こしに懸命だ。

どれだけの応募者がこの地域の高瀬川の歴史地理を読み取ってくれるか。

9月には設計チームが決まり、秋にはいっしょに動き出すことになるだろう。

 

今年に入って、不思議と川がらみの仕事が増えてきた。

先週5月15日(月)には、水道局に呼ばれ、四ノ宮舟溜りの案内板のデザインの正式委託を受けた。

2009年に始まった琵琶湖疏水の案内板が、ぼくのデザイン領域のメインの仕事になりつつある。

その琵琶湖疏水は高瀬川ともつながっている。

 

5月19日(金)には、高瀬川の保全と芸術文化活動の関係について韓国テレビKBSの取材を受けた。

銅駝、立誠、永松、そして崇仁の高瀬川保勝会の会長さんらといっしょに。

面白いことに、もっか企画小品展に出品しているギャラリーマロニエの西川さんが立誠保勝会の会長として横に座られた。

KBS取材

ぼくは地域の人間ではないので、高瀬川については浅い知識しかなく、2015年の作品"Tracing Suujin"をプレゼンしただけだった。

あとでぼくだけ個人インタビューを受けた。準備ゼロだったのでしどろもどろだった。

だが面白いことに、取材場所が京都市の河川整備課だったので、同課の人と初めてつながりが生まれた。

今後、川のなかで何かするときに手がかりになる。「偶々」が効いている。

 

4月には、サントリー文化財団宛に、「川縁(かわべり)のちから:京都・崇仁地区を中心とした高瀬川の歴史地理学的研究と芸術的活用の可能性」という助成申請を出した。高倍率なうえに助成金額も多くはないが、通れば面白いことになりそうだ。

移転以前にぼくは京芸を去るが、崇仁に関わっている限り、京芸との妙なつながりが残る。

 

 

Volcan Nishinoshima encore actif !

20 avril 2017

 

一時、噴火活動を停止していた西之島が再噴火した。

 

西之島は大陸の赤ちゃんとして、「新シク開イタ地」展で、人間と土地の関係の参照モデルとした思い入れのある島だ。

昨年秋には研究者が上陸し、生態系の調査もはじまっていた。

ぼくにとって、西之島は終わったのかと思っていた。

だが、西之島は死んでいなかった。

これが人為を越えた自然だ。

感動する。


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朝日新聞の記事から:

http://digital.asahi.com/articles/ASK4N5RS1K4NUTIL02X.html

 

同。三好和義さんの写真がすばらしい。

http://digital.asahi.com/articles/ASK6J7W53K6JUBQU017.html

 

噴火活動も「前回並み」。島はさらに拡大する。

http://digital.asahi.com/articles/DA3S12995484.html

 

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もっかの西之島の大きさを居住地と比較するという面白いサイトがあったので、やってみた。

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西之島の大きさ

 

 

M.Tsuneo Hattori nous manque énormément

13 février 2017

 

牛窓のオリーブマノン化粧品の服部恒雄さんが亡くなられたことを、しばたゆりさんからの便りで知った。

自由工場の生みの親だった。

1984に始まる日本初の地域芸術祭だった牛窓国際芸術祭の生みの親でもあった。

知的で穏やかなお人柄だった。

もう日本にはいなくなった真の芸術パトロン。芸術を愛した知的な企業人で文化人。

資生堂の福原信三にまさるとも劣らない、本物の「旦那」だった。

いつ亡くなったのか、詳細がわからない。

 

今はとにかく心からご冥福をお祈りいたします。

 

服部恒雄回顧展