le nettoyage du canal Takasegawa vol.19

4 mai 2019, samedi

 

連休中、崇仁高瀬川保勝会、恒例の月1回の川掃除。

今回はチラシはつくらなかった。

崇仁高瀬川保勝会

五月晴れ。

崇仁高瀬川保勝会

崇仁高瀬川保勝会

掃除後のミーティング。今年度の活動計画などについて。

崇仁高瀬川保勝会

大島桜のサクランボ。

 

vieux contes

30 avril 2019, mardi

 

世間は平成最後の日と騒いでいる。

総合基礎第4課題の『昔話集』上・下を出稿。

 

昔話は、ぼくをふくめて課題担当教員6名が選んだ。

ぼくはレイアウトとデザインを担当。上・下の冊子の命名は中国絵画史の竹浪遠准教授。

昔話集

昔話集

 

A5中綴じ冊子、上質紙にモノクロのオンデマンド印刷で各85部。3日納期で合わせて25000円。

文字校正が苦手なので、ぜったい誤字がどこかに残っている気がする。

 

高校時代、通知表で国語だけがどうしても4以上に上がらなかった。

文章解釈が苦手なのだ。トラウマになっているといっていい。

詩は好きだが、小説などめったに読まない。

何か基本的な教養というか、根本的な常識が欠けたまま、生きてきている気がする。

そんな人間がこんな課題をつくる。

といってもほかの常識ある先生方が適切な昔話を選んで下さっているので、ぼくは縁の下のお手伝いという立場だ。

 

連休中に無事届くか。

 

・ ・ ・

出稿後、久しぶりに大阪に出て、市立美術館でやっているフェルメール展を見に行った。

すごい人だかりだった。

いったん見終わって館外に出たところで、篠雅弘館長とばったりお会いした。

篠館長が展示の工夫を見せたいからと、再度、中を案内下さった。

おまけにカタログまでいただいた。

 

あとで新世界の道端に座って食べたたこ焼きがうまかった。

帰ってくると、テレビで天皇が最後の挨拶をしていた。

新世界

 

cerisier originale : Suujin-terrace, printemps 2019

7 mars 2019

 

3/30、3/31の2日間で《崇仁テラス》、再設置。

第1期=2017年秋、第2期=2018年春、第3期=2018年夏、第4期=2018年秋に続く第5期。

3/30(土)

午前中に山内政夫さんと二人で資材運搬。(前日に4mの角材2本をトラックで搬入した際、柱15本は運んでおいた)
崇仁テラスづくり

雨が降りそうだったので、小さな雨よけ小屋を即席でつくる。

崇仁テラスづくり

午後、菊浜高瀬川保勝会の上村会長、景観フォーラムの辻野隆雄さんが加わってくれて、4人で軸組を仕上げる。

崇仁テラスづくり

鳩の夫婦が付け替えた角材に乗る。餌付けされているらしく、作業の手をとめると近寄ってくる。

 

3/31(日)

山内さんと二人だけの作業。午前中、筋交いなどで構造を強化。

午後、足場板張り。

この日は元崇仁小学校で地域の自治連主催のお花見会をしていて、それに参加した伝音の竹内有一先生、小西志保さん(竹内研究室研究嘱託員)、ギャラリーアクアの藤田瑞穂さんらがおしるこを持ってきて下さる。

作業中、山内さんがインパクトドライバに慣れないらしく、よくビスの頭をつぶす。

それを取り除くのに時間がかかる。責任感で熱心に手伝って下さるのはありがたいが。

なんとか16時半には完成してほっとする。

 

傍らの大島桜はまだつぼみ。

(大島桜は、園芸種でクローンのソメイヨシの原種。花だけが開花する派手なソメイヨシとちがって、葉と花がいっしょに開く。開花はおそめ。)

 

4月6日(土)

この日は定例の川掃除の日。

看板づくり

午前中、《崇仁テラス》の傷んだ看板を手直しする。文字は手書き。

 

昼すぎに崇仁に到着、円形ベンチを組み立てる。脚が1本足りない。

1時前にはセッティング完了。崇仁テラス

傍らの大島桜はまだ三分咲くらいか。

ソメイヨシノが近隣で満開なのと比べると、1〜2週間、開花がおそい。

 

崇仁テラス

13時半から川掃除。

今回、テラスは3m近く北に寄せ、中心軸を桜の木の位置に合わせた。

崇仁テラス
川掃除終了後のミーティング。ギャラリーアクア学芸員の藤田瑞穂さん、国立国際美術館の学芸員補の滝本さんも参加。

崇仁テラス

山内さんが、「ワークショップ」と称して、崇仁の石の遺産を京芸B地区の高瀬川の出会いに配置することをみなで考えたいという。

だがだれも石の遺産のことを知らない。

それで資料館前の灯籠などの石遺産をみなで見に行き、ぼくがそれらを紙にスケッチして切り抜き、地図の上で自由に動かせるようにした。

写真は自分で紙の切抜きをあれこれ動かして、配置を検討する山内さん。

 

4月7日(日)

朝から七条大橋をキレイにする会の活動に参加。

同会の井上茂樹さんがたびたびテラスに来て下さるが、努力みのって3月29日に七条大橋が国の有形文化財に登録されたという。

 

その後、ひとりで元崇仁小学校にもどり、2x4の廃材でベンチをつくる。

テラスに椅子があった方がありがたいという藤尾まさよさんの意見に応えて。

崇仁テラス

崇仁テラス

テラスに運んで大島桜の下に設置。

崇仁テラス

昨日はまだつぼみが多かった大島桜が、たった1日でかなり開花が進んでいる。

崇仁テラス

西側の空地は消え、団地は建設が進んで、もう京都タワーも見えない。

やはり1年前のあの光景は貴重だった。

当時はテラスは空地なので、ベンチは不用と考えていた。

もっとも近所の人たちがテラスのベンチに気軽に座るようになるのは、もっと先のことと思う。

 

le nettoyage du canal Takasegawa vol.18

20 mars 2019, mercredi


夜、春の崇仁テラス設置と川掃除のチラシを出稿する。

いつもの印刷会社のデータ受信にやたら時間がかかり、この日じゅうに送信完了しない懸念があって、深夜、印刷会社とやりとりする。

深夜まで会社に詰めて顧客対応に当たる社員もたいへんとは思うが、ブラックな仕事の進め方は、ぼく自身のスタジオそのものがやっている。作品制作だけしてたらいいのに、デザインもする。休みも娯楽もない日々。

高瀬川保勝会チラシ

 

]というウェブサイトがいつのまにかできている。

芸大の基本設計などの資料がダウンロードできるようになっている。

そこに、昨秋、ぼくが元崇仁小学校でやった「水の生きものでアートする」の展示光景が唯一の絵としてアップされている。

知らせてくれてもいいのに、と思う。子どもたちが描いた絵だからヴィジュアルとして使ったのだろう。

だが、ここまで導いた人間がいたことは無視。ヴィジュアルの生産者は無産者である。

 

・・・

この日、午前中は、十三回忌を忘れてしまった父の墓参。

三笠霊園の高台の上は無風だった。生駒山がはっきり見える。

 

墓の敷地の草抜きをしていると、スミレの若葉。

 

Lit de rivière

2 mars 2019, samedi

 

2月半ば、1月26日のシンポジウムでの不十分な発表をまとめ直した。

いいかげんなイメージ・スケッチはそのまま載せた。

京芸のキャンパス・デザインに地域の場所性・歴史性が造形的に組み込まれていないのは残念なので、という話。

 

創造の河原1

こういう「河原」ができたら、それこそ京都芸大は「川の上のテラス」という基本コンセプトに立ち戻ることができる。

それに北側の団地が京芸に背を向けているが、高瀬川と河原が団地の大人や子供の憩いと交流の場になる。

地元にも開かれたという学食も近くにある。京都駅に近いから観光的な魅力もあるだろう。

 

京都芸大は基本設計が終わって、4月から実施設計に入る段階だから、これらのプランが実現するのはむずかしいだろう。

それに東九条の氾濫原提案は芸大の敷地から離れている。

また万が一この案が実現されることになると、仕事が増える。高瀬川の水流不足という問題もある。

だが、気候変動で日本各地で洪水が多発するなか、川と人の新しい関係を提案することは、高瀬川を持つ京都ならではの発想ではないか。ネオ東山文化は、多文化・多生物が共生する京都駅東南の「河原」から始まる、と。

しかしそれよりも、どこまで京都と京都芸大につきあうかという個人的問題もある。そもそもぼくは他所者なのだ。

 

この日(3月2日)の午後は、崇仁高瀬川保勝会の川掃除。

川掃除

中心メンバーの3人以外に、参加者はこのところ決まっている。

市営の共同浴場を管理している都総合管理株式会社の太田さん、京都景観フォーラムの辻野隆雄さん。立命館大生の藤原君はやたら熱心。もう中心メンバーだ。

地元住民は「ご苦労さん」と声はかけても参加しない。

 

西側では団地ビルの建設が進んでいる。

右に来る京都芸大B地区にとっては、目の前に高層団地の壁が建つわけだ。

コの字型配列の中庭になる部分。

崇仁

 

川掃除のあと、ワークショップと称して、近くの白蓮寺跡から崇仁ゆかりの石灯籠を救い出してきた山内さんが説明する。

 

地図

高瀬川が開削された1614(慶長19)年まもない頃の地図にある白蓮寺(時宗)。今は山科に移っている。

金光寺は今もある。東本願寺の枳殻邸(1653年石川丈山が造園)はまだなく、塩小路村とある。七条通に材木などを運んできた船のたまり場がある。高瀬川の東側と鴨川のあいだは畑。金光寺の東には火葬場とある。

当時の日本の人口は1800万人くらい。京都のこの辺りは閑散としていただろう。

山内さんが非人小屋と付箋をつけている辺りは、今の京都駅の北あたりか。

*『慶長昭和京都地図1611-1940』(柏書房)から。