制作で忙しいのに、たびたびアーティスト・トークやシンポジウムに呼び出される。
3/16日(土)は、今 +1 art でやっている「総合基礎課外授業」展にまつわるトーク「総基礎という現象」。
案の定、参加者は少数で京芸の内輪っぽい。せっかくなのに主役の学生は6人中2人しか参加しない。まあ一回生だし、「トークイベント」なるものにピンと来ないのだろう。そもそもアーティストがつくって展示するだけでなく、しゃべる(しゃべらされる)のが一般的になったのはいつからだろう。
3月20日(水)は、京芸陶磁器の重松あゆみ・長谷川直人退任記念展の初日で、2人に頼まれて15時から対談しないといけない(フライヤーには「司会」とされた)。
3月22日(金)には、芸術資源研究センターで、「分散型芸術資源のノードとして総基礎アーカイブを考える」というシンポジウムがあり、総合基礎を生み出した1970年の大学改革案の背景について報告を頼まれた。
総合基礎アーカイブは、自分が非常勤講師の後期の仕事確保のために言い出したもので、大学の経費から50万円だけ人件費に出してもらっていたが、ぼくが退任したら誰も引き継がず、滅びると言われた。一人寂しくデータの修正や引継ぎマニュアルづくりをしていて退任したが、それが奇跡のように引き継がれ、復活した。
アーカイブ作業をやってくれているのは、もと総基礎非常勤でもあった若手アーティストの黒川岳と平田万葉。それに情報技術者の藤岡洋さんがバックアップ(三人合わせてSARUというチーム)。石原友明さんがアーカイブ研究で採った科研費や助成金を使うことで作業が続けられるようになった。在任中のぼくは科研に申請して助成金を取る意欲がなかった。
芸術資源アーカイブは一部に関心を持たれているようだが、立場によってみな目の付け所がちがう。芸術研究者やマニアは作家や作品の周辺情報やドキュメントを芸術資源と見なすが、アーティストであれば、匿名の事象やアイデア、さらに芸術の外側の日常や自然、科学研究まで射程に含める者もいるだろう(ぼくは後者)。
平田さんから送られてきたフライヤーは、スケジュールなど詳細が書かれていず、内容がわかりにくい。
忙しいこともあるだろうし、グラフィックデザインに不慣れなこともあるだろう。芸資研のウェブサイトにも広報が載っていない(3/18現在)。
仕方なく別のメールで来た内容でフライヤーの裏面をつくって、新たにpdfに仕立てて、何人かに送った。
分散型 distributed model アーカイブというのは、データを一つにまとめない流行りのやり方だが、手続きや結果の状態を指すにすぎず、それだけでは「クリエイティブ」とは言えない。タグやメタタグを自在に更新していける藤岡さんが開発した非固定的な仕組みが要のはず。なぜ「動的アーカイブ」と言わないのか。
総基礎アーカイブは、京都クリエイティブアッサンブラージュにも活用されているそうだが、シンポジウムはどうせきっとまたごく少人数の内輪の会で終わるだろう。まあ、日の当らないあの孤独な作業に多少光が当てられただけでもありがたい。ずっと照らされ続けることは期待しない方がいい。
]]>
久しぶりに詩を書いた。
「水たまり」展のための制作中、ふと生まれた詩だ。
ガザで1〜2歳の幼児が土に座り込んで雑草を食いちぎっていたという新聞記事(*)を読み、心が張り裂けそうになった。
ひらいゆうさんがこの詩も展示しろというが、どうしよう。。。
今年初めて舞台デビューもしたことだし、初めて詩の展示もするか。アイデンティティなき変異体らしく。。。
パレスチナの旗の色の橋をつくって渡るパフォーマンスとワークショップをすることもふと思いつく。
いやしかし、画廊の中で何をしても餓えるガザの子供たちに手を差し伸べることにならない。
スピーカ持って美術館のなかで叫ぶ(*)こともぼくの仕事ではない。。。
]]>
制作年代不明。
たぶんSilent @KCUAに出品していたころなので、2011〜2017年。
---
マロニエ市に出品していた『つちのいえ2008ー2021』が2冊とも売れてしまった。
これも破格なので利潤なし。残りの在庫は12冊のみ。
八戸ブックセンターは売れ残り1冊を引き取ってくれた。
ホームページのトップに『つちのいえ』を上げるのはもうやめよう。
]]>
3月8日は父の命日。ちょうど17年前の2007年3月9日、パリで訃報を知った。
同じ3月8日の夕刊に、鳥山明の訃報が載っていた。
亡くなったのは3月1日だったらしい。
新聞に載っている『DRAGON BALL』第1巻のカバーのデザインは、ぼくの持っているもの(1991/12/15第57刷)とちがう。
悟空の髪形は、『鉄腕アトム』『カムイ』『明日のジョー』など日本の戦後漫画の伝統を引く。
ドラゴンボールは1980年代後半以降、世界中の子供たちを魅了した。
モロッコのマラケシュの旧市街の家の扉に悟空が描かれていたことを思い出す。
世界中に広がるメディア空間を悟空は飛び回っていた。
22 mai 2007, dans la vielle ville de Marrakech
]]>
マロニエ市の出品物に加えようと、サハラ砂漠の砂をサイダー瓶に入れた。
ラベルが必要と思い、サハラ砂漠を上空から撮った写真を探してデザインする。
こういうとき、このブログが便利だ。探すと、2012年にブルキナファソで開かれたSIAOに参加するため、パリ経由でワガドゥグに飛んだときの記録が見つかった(2012年10月27日 SIAO_1: 亡兎観現世)。
懐かしい。いい写真がいっぱいある。
このときとちがって、今ブルキナファソはクーデターで軍事政権になっていて、イスラム過激派のテロ対応のためとの口実で、ロシアがワグネルに代わる軍隊を送り込んでいる。メディアには、ロシア国旗を振るブルキナベたちの映像が流れる。だが、実際はまたちがった現実が流れているだろう。
SIAO参加のときのブログの別の記事には、ワガドゥグの通りを車で走る映像がある(*)。この当時は平和だった。
テロリストたちの増加とは別に、サブ・サハラ地域の砂漠化は続いている。
地球環境の不安定化は、人類の心と体を不安定化し、格差を広げ、対立を煽り、社会を揺さぶる。
朝日新聞に載ったアントニオ・ネグリの追悼文(*)がよかった。彼の言葉の要約が再録されている。
「代議制も三権分立ももうだめ。主役はあなたたち。怒りなさい。行動しなさい。そして自分たちで決めなさい。そこから次の民主主義が見えてくるはずだ」。
マロニエ市の出品物は案の定増えてしまい、キャプションづくりに手間取った。アーティストであれば、既存の意味や価値を攪乱しないとだめだと思いながら、じつは価格の決め方がわからない。。。
他の出品者は大半がそれらしい古書や物品や商品、通常の素材(木材など)。ぼくのは廃物や無用物を立たせただけのものやオリジナルジャケットの音楽CDなど。
大半が百円だが、ガチャのフィギュアとJAXAからもらった日本のISSモジュール「きぼう」のバッジを組み合わせたものは500円、試作や習作を組み込んだものは1000円にした。だがいくら売れても搬出入のための駐車場代のもとが取れない。
《きぼうをくだく》
《メートル原器》と名づけたものは、蛇のフィギュアの舌を1m伸ばしたもの。ガチャのケースに入る。
無用物もとにかく立たせてみる。「立つ」ことでモノの様相が変わり、あるかなきかの意味や価値を呼び込む。
それは二足歩行の人類史の深部に根をおろす不思議な存在の次元だと思う。
マロニエのwebsiteには、キャプションも欠けた状態の写真が載ってしまった。
取り合えず現時点の様相。
他の出品者と違って、行儀の悪い展示。だが一段高くしたので、ほとんどがゴザ敷きの展覧会場に変化が生まれたのと、下にも展示スペースが広がった。
しかし、自分が面白いと思うものを人も面白いと思うことは期待しない方がいい。たぶん破格でも売れないだろう。
]]>
立つかたち
「立つ」とモノの意味や価値が変わる。なぜだろう。
やたらとモノを立たせてみる。
鉛板
捨てられてしまうようなゴミを救うには、立たせればいいと気づく。
鉄鉱石に磁石。
《貝石》
「台座の考察」の続き。
モロ廃材を立たせる。台座も廃材クリップ留め。
「二つの傾斜地で」展以来、切り残した断片を捨てないで再利用するようになった。
写真も立つ。これも昔の写真作品《Parallel》シリーズの切り落とし。
額も立つ。作品のエスキスを折って無理やり額に入れて立たせてみる。
屏風も立つかたちの一つ。
留める、もたれ合う、折る、丸める・・・立たないものを立たせるいろいろなやり方があると気づく。
こういうのは思いつきの段階が一番楽しい。よそ行きになると(=作品化を意識すると)楽しくなくなる。
作品制作において、この初発の衝動や悦楽をいかにキープするかは今後の(永遠の?)課題でもある。
]]>
Taroハウスで開催されていた展覧会「リベルダージ:ディアスポラ、祖先、共存の地」もこの日(2/25)まで。
隣接するBooks & Coffee Sol.の2階のノランナランで、13時から主催者チームのアウグスト・オヤマ君と、ハルミ・ロペス・ヒガさんによるトーク。
二人とも日系だが、アウグスト君がブラジルの日系3世、ハルミさんがペルーの日系4世で、まだ日本語がうまくないらしく、英語で話す。通訳は、アウグスト君と同じ京大地球環境学堂の人間環境設計論分野修士1回生の若林君。(ハルミさんは、京都造形芸大で映像を学んでいるとか)。
リベルダージ地区は、かつて日本人街と言われたほど日系移民が多かったそうだが、今は中国や韓国からの移民も増え、東洋人街と呼ばれるそうだ。だが、日本人の移民が始まった20世紀初め以前のリベルダージ地区についてはほとんど語られることがない。
アウグスト君らのチームの試みは、リベルダージの歴史を掘り起こし、黒人奴隷の歴史とのつながりや、ジェントリフィケーションによって揉み消されようとしているこの地区の人々の複雑な歴史を提示することだ。
ブラジルは、他のアメリカ大陸の各地と同様、複数の先住民が暮していたが、1500年から1808年まで、ポルトガルの植民地になった。だからなのだろう、土地開発や所有の問題が格差の広がるブラジル社会の根本矛盾の一つになっているようだ。
アウグスト君のレクチャーから。
ブラジル史についてはまったく無知なので、土地改革がなかったとか、土地に関する法律がどう社会的差別を温存させているかについては、よくわからない。植民地主義の爪痕がかなり深くブラジル社会に残っていることはわかる。
だが一方で、人々が自分で勝手に住宅をつくり、インフォーマルな都市化が顕著ということには興味を覚えた。なぜかぼくの細胞の奥に潜む遠い記憶が呼び覚まされる。
ブラジルがポルトガルから独立するのが1822年。奴隷制が廃止されたのは1888年。このあいだにリベルダージ地区の暗黒の始まりがある。地区の中心の広場に絞首台があり、反抗する黒人奴隷が次々と処刑された。この地図は、そうした歴史を示す唯一の古地図で、彼らが掘り起こしたらしい。(展示パネルから)
「リベルダージ地区は、歴史的に辺境の地域でした。市の中心部と南部地域を結ぶ街道上に位置するこの地域は、「イブラブエラの小道」あるいは「サント・アマロへの車の小道」として広く知られています。
そして単なる通過する場所というよりも、この地域はいわゆる「呪われた」仕事場がモザイク状に混在していました。ゴミ捨て場であり、財産を持たない人々や裁判所から断罪された人々のための墓地であり、絞首台やさらし台の存在など、公開処刑や拷問の場でもありました。これらの公共施設は、奴隷制度(1550年から1888年まで300年にわたって続いた)がいかに恐怖と支配に基づいた統治であったかを示すものです。
こうした抑圧の文脈において、この地区は「リベルダージ」(英語で「自由」)が換気され、そう呼ばれるようになったのです。
最初に到着した日本人移民(1908年)の多くは、形式的な奴隷解放(1888年)後の黒人労働力の代わりとなりました。少数の黒人のルーツを持つ者だけが抵抗しましたが、他の者は再都市化のなかで葬りさられました。」(展示パネルから)
19世紀の黒人の反乱兵士の一人、チャギーナス。絞首刑のロープが3回も切れたといわれるリベルダージの黒い聖人。
リベルダージ地区の都市化は、こうした歴史の抹消と共に進む。
日本人移民は、この過去の歴史をなかったことにするのに都合がよかったようだ。
アウグスト君によれば、たくさんある日系人の県人会の男性リーダーは、自分たちの「成功」の歴史を語りたいため、こうした歴史の負の側面には蓋をする傾向にあり、アフリカ系などの移民集団との連帯にも消極的だという。
段ボールを支持体にした展示パネルのヴィジュアルとレイアウトは秀逸。
彼らの仲間にデザイナーがいるのだろう。
横浜のJICAでは、これらに加えて、ぼくが教えた日干しレンガと竹で「象徴的オブジェ」をつくって展示していた。
聞けば、リベルダージ地区を商業的に日本化している「鳥居」に、牧師が黒人と日本人の教会のアーチを加えて変形したそうだ。どうせなら、鳥居をもっとハイブリッドにブリコラージュすればよかったのに。求心的で愛国的な「鳥居」のかたちは換骨奪胎するべきだ。
終わってから気がついたが、リベルダージ展のプロジェクトチームのホームページがある。
なんとぼくも一員になっているではないか。しかも建築的展示と設置の担当(*)。笑える。
アウグスト君は京大の博士課程に合格したそうだ。
情報共有と身体的交流を促す視覚デザインや空間デザイン、さらに自由でラジカルなアート制作は、監理と分断、抑圧と排除の進む社会に対する「抵抗の手段」になりうることを研究実践してほしいと思う。
]]>
3月に大阪の+1 artで二つの展覧会に関わることになった。
一つは、課外授業「2023年度総合基礎実技 第2課題『身体』」3/6(水)〜3/23(土)。
これには3/16(土)に「トーク:総基礎という現象」というのがある。
続けて、ひらいゆうさんとぼくの二人展「水たまり」3/27(水)〜4/13。
野口さん・カワラギさんから、どういう展覧会になるのかわかりにくいので、DMをデザインしてほしいと頼まれた。
それでいつもの+1artのDMのフォーマットで作業して、2/17に完成データを渡した。
表面。A4変形三折。ブルーの線で山折りする。
中面。谷折二つ。
タイトルロゴは手書き文字からデザインした。「水」という字が、縦線とその左右の水の流れを表わすカーブ2本からできていることを改めて意識した。ひらいゆうさんには気に入ってもらえた。
自分としては奇を衒うことなく、比較的ストレートな絵画とドローイングの展覧会をするつもりなのだが、ひらいゆうさんはともかく、ぼくがいつも何をやるかが判然としないので、展覧会イメージがつかめないのだろう。それですでに画廊に送った作品画像を使ってデザインした。できたDMを見たカワラギさんらからは「ゴシック・ホラーに見えるかもしれない」と言われる。
前回の個展(2022年)の際はDMを野口さんにデザインしてもらったのだが、同じように「展示のイメージがつかめない」と途中で相談された。
さらにコラボレーション「発酵をよむ」展(2019年)のときも、全体のインスタレーションを担当するぼくの動きが一番おそく、画廊のお二人を戸惑わせた。
技法やスタイルが一定している作家であれば、わかりやすいのだろうが、ぼくはそうではない。ほとんどそのつどゼロからやり直す。
自分としては関心事は一貫しているし、作法としては根底にドローイング(平面/空間)があるのだが、それが人に伝わっていないのだ。コツコツ個展を積み重ねてきた作家とちがって、注文や依頼で展覧会やプロジェクトをやることが多かったことにも起因するだろう。
困ったことにデザインや建築的なこともできてしまうので、アーティストとしては異端視されている気がする。だが、自分は複合プレートでできていると自己分析してすっきりしたので、単一プレート中心の人間観・芸術観に付き合うことはやめた。
今、心に去来するのは、「研ぎ澄まされた幼稚さ」。「水たまり」はそれをめざす道程標にする。
水たまりはどこにでもある。ガザにも。それは子供を楽しませ、大人を困らせる。
ガザの水たまり(* Yahoo Newsより)
地上に偏在する「水たまり」は、根源的なはかなさでもって生成消滅する。
人の足元にある「水たまり」は、つねに空に表面を向け、それに見向きもしない人の姿を映して消える。たまに子供がそれに手をのばす。水たまりは、非人間的自然・前人間的世界へのもっとも身近な入口である。
]]>
ギャラリーマロニエでの版画のグループ展「Printmaking II :刷りとその解体」の搬出。
言葉を真に受ける単純な人間なので、ぼく自身は「解体 déconstruction」という語を意識したが、全体を見渡せたば、この語は強すぎて空回りしていたように思う。「版画家と版画家でない作家が版画技法を用いた作品制作を行う」程度の内容。去年に続いてぼくは2回目の参加だが、このシリーズは9回目らしい。
マロニエの再活性化をめざす版画家の吉田佐和子さんらの企画。一昨年夏のサイアノタイプのワークショップに軽い気持ちで参加して以来、吉田さんらの情熱に反応して、いつのまにか巻き込まれて協力している。京芸時代なら時間がなくて無理だっただろう。
今回の制作の振り返り:
1_能登の大地震の光景に影響を受け、垂直の安定した壁を前提にしないことと、吉田佐和子さんから、壁を使う人が多いので、床を使ってくれないかと言われたことをふまえ、床に自立型の作品構成を考える。
2_アトリエに一部残っていた「傾斜」をテーマにした+1 artでの個展の作品を再考。作品/作品以外のもの/作品素材を等価に扱うこと。展覧会用の「作品展示」ではなく、作業場/アトリエの状態をめざすこと。
3_特定のコンセプトもできあがりのイメージもなしに、一定の造形原理のなかで制作を進める。手探りでイメージを導く。災害の中でのとりあえずの復興に向けての作業とパラレルに。
4_今できる版画の技法〜サイアノタイプ、ドライポイント、モノタイプを組み合わせる。
5_過去の試作や作品の一部も取り入れ、作品から時間的統一性を排除する。素材とイメージの複合性と循環性を重視する。
こうみると、ぼくはずっとマチスの造形原理とブランクーシのアトリエの影響下にある。
搬入は2/4なのに、取りかかったのはおそく、1月下旬になってから。
ブラインドの加工、webdesignの自習、PowerBookProの故障、歯医者、健康診断・・・、いろいろあった。
1/27 倒れ合い、支え合う異質な面。
1/28 去年の作品で使った枝ともたれ合う面の構成を組み合わせることを考える。
版画の複数性の原点である版木と版画。この対(twin)の原理で制作することを決める。
自分の自発的なドローイングを模写した昔の試作も本のかたちに仕立てて、背中に版木と版画を貼る。
去年のサイアノタイプの試作も「対」でやっていた。ここからかたちを抽出し、空間構成の要素にする。
もたれ合う2枚の板は両面使う。楕円が二つ交わるかたちの版木を上にのせる。その版木でモノタイプを刷る。
2/1、支え合う2枚の板の背中(オモテ面)に、逃げるような2本脚のドローイング。いい線が描けて、今後の展望が開けた気分。
二つの曲ったような曖昧なかたちは、サイアノタイプ試作から抽出。曲げた脚の線と重ねる。
2枚の楕円の板に貼るドライポイントの構想。曲線と直線、二つの丸いかたちと四角いかたち。これらは背中合わせになり、同時に見られない。制作は2/1と2/2。
刷れたドライポイントを仮留めしていると、アトリエに差し込んだ日が当る。手をかざす。
「対」の原理が反響し合ってできているので、タイトルもしゃれで《Be twin》。
作品の出来は65点。しかし次につながる収穫はあったので、よしとする。
]]>
2月17日(土)
よく展示をさせていただく大阪の現代美術ギャラリー +1 artで京芸の総合基礎実技の「授業」をすることになった。
去年個展した京芸教員の安藤由佳子さんに、野口さん・河原木さんが、画廊で何か新しい取組みができないかと相談したことがきっかけだそうだ。
安藤さんは京都精華大学時代に松井紫朗さんに師事、その後デュッセルドルフ・アカデミーを修了してドイツで長く作家活動、さらにアメリカでも活動し、2021年に京芸の彫刻専攻に赴任したばかり。発想が日本人離れしておおらかで、京芸の将来を託したいと思っている人の一人。で、2022年1月のぼくの個展に来た安藤さんを画廊のお二人に紹介した。それを機に去年3月に +1 artで日本デビューとも言える個展、野口さん・河原木さんが主宰する高知・大月町のアートプロジェクトでも若手作家らを引き連れて活動、そして今回の企画につながった。
学生が画廊で発表することは珍しくないが、身体をキーワードに(画廊がある空堀という)地域を探り、その成果をかたちにするという「授業課題」をその画廊で発表するのはまれではないか。授業と創作、リサーチと作品、画廊と大学、さらに学生と教員の区別も揺らぐことは悪いことではない。それに、フィールドワークの体験を造形的に変換して出力するという訓練は、ドイツなどでは普通だが、造形を「変換」ではなく「表現」と考える日本の美術教育ではあまりやっていない。学生時代にそういう制作経験を積んでおけば、用意された画廊空間だけでなく、社会の中で場と作品を展開する美術家も増えるだろう。なので、協力を頼まれて即引き受けた。そもそもコロナ禍が始まった2020年度に総合基礎委員長をしていたし、総合基礎アーカイブには今もタッチしている(総合基礎アーカイブは今年度中に姿を現わすか?)。
何よりも、2年前のぼくの個展「二つの傾斜地で 空堀と竜ケ迫」がほぼ同じ内容で、「傾斜」という視点から画廊のなかと空堀のまち空間、そして高知の竜ヶ迫を地続きにする造形実験だった。
呼びかけに応じて参加するのは1回生6名。小さい画廊なので、ちょうどいい人数。17日は、各自の現時点での考えを共有するチュートリアルを+2でさせていただいた。ぼくが伝えたかったのは、空堀は時間も素材も異質な要素のブリコラージュでできていて、つじつまの合わない事象が魅力的だということ。
久しぶりに学生たちと話して思ったが、自分が大学1年生のときにこんな豊かな体験ができる授業はなかったし、ぼく自身ももっと幼い感じだった。人類は進化しているのか?、美術と美術教育は進化しているのか?
その後、ノランナランをいっしょにリノベした玉井静穂の個展「いさんだ」(四三館、動物園前)と山本紗由里の個展「潤み窓に彷徨」(Gallery Yolcha、中崎町)へ。
四三館は、2年前に吉浦嘉玲君らが「廻覧会」というユニークな展覧会をやっていたのと同じ場所。建物の名前が変わっていて迷ったが、中身は同じまま。ユニークきわまる戦前の広告装置や看板のコレクションで埋め尽くされ、南海本線高架下という魅力的な立地のビル。ちょうど噂に聞くシンバルの演奏会があった。
コレクションの一つの下駄箱。
ビルの屋上は線路のすぐ下にあって、屋上の(屋上からの)眺めもすばらしい。
動物園前駅の周囲がいろいろ変わってきているなと思ったが、長く行ってない中崎町の様変わりぶりもなかなかだった。
「ヨルチャ」は韓国語で「汽車」という意味らしい。リノベの仕方もユニークだった。
梅田のキタにある中崎町は、ミナミよりもさらに南にある平野や住吉といったぼくが育った環境とは大違いの「都会」で、ここ20年くらいの変化もまったく目撃していない。だが、新旧が混在するブリコラージュ感あふれる町並みは面白く、一度ゆっくり回遊してみたい。
]]>
ひらいゆうさんとの二人展「水たまり」のDMのデザインを+1artの野口さん・カワラギさんから頼まれて、ほぼできたとき(夕方)に、吉田寮勝訴の吉報が入った。
ほぼ敗けるかなと思っていたので、意外でうれしく、ちょっと小躍りした。
元吉田寮生だったぼくは、「21世紀に吉田寮を活かす元寮生の会」にも入って、当局と戦う後輩たちを間接的に支援してきた。
一昨年(2022年)の夏から秋にかけて、寮生の依頼により、壊れた土壁や崩れた炊事場の外壁の補修を行った(*)。当局の立ち退き要求の口実が建物の老朽化にあり、寮生自身が自ら建物を補修し、維持管理を行っていることを裁判に関わる視察者らに示すためでもあった。
ちょうどTaroハウスのリノベーションと同時期で、10月末からの東九条アンサンブルの開催に向けて、半月間ほとんど一人工務店の状態だった。好奇心旺盛な留学生とはちがって、手を動かさない日本人の寮生に苛立ちながら。
デザイン作業があったので、18:30から京大であった裁判報告集会には行けなかったが、吉田寮自治会から詳しい報告集会議事録が届いた。
集会後に短時間でここまで議事録をまとめて関係者や支援者に知らせる寮生たちはたいしたものだ(急いだのだろう、誤字が目立つが)。
京大当局の寮生への立ち退き要求の理由は、建物の老朽化ではなく、寮の自治を葬り去るためだ。
今回の判決の画期的な点は、京大と吉田寮自治会との間の確約(自治会が入寮選考権を持ち、入寮者を決め、大学が追認する仕組みを双方が認め合う)は法的有効性があると認められたことだ。
退去を訴えられた40人のうち、23人はすでに卒業、残る17人のうち14人への退去請求は棄却、当局が入寮を禁止した(確約破棄?)2019年以降に入寮した3名のみに請求が認められた。これは全面勝訴にすると裁判所への突き上げがあることへの配慮かも、と法学部の高山教授。
京大当局が控訴することは断じて許せないが、やるかもしれない。
報告集会で、東北大学の日就寮生が言っていたことが、今の日本の大学をめぐる現実だろうと思う。
曰く、「本当に廃寮問題は深刻で、今年は東京農工大や静岡大でも自治寮が廃止される状態。昨日まで熊野寮で行われていた学寮交流会に参加していて、学寮の立場が苦しいという重い雰囲気であったところで、今日の判決があった。今後も連携を拡大し、全国の学生自治の空間を拡大していきたい。大学自治をめぐって、卓越大学制度や法人法が追加されて、大学の自治は将来どうなってしまうのかという暗澹たる思いがあった。大学の、社会全体の新自由主義化があって、その中で個々人が分断されて社会を変えられない状況。」
一方で、吉田寮のような学生自治の空間の重要性をあらためて認識する声には安堵した。
「吉田寮とかが粘り強い運動で人を集め、集会を開催したり、鍋をつつきながら、色んな人と語り合える生活空間と接続された交流空間があるからこそこのような運動があったのだと思う。大学の自治を守っていくためには学生自治の空間が絶対に必要。」(これも同じ東北大の日就寮生。寮生が激減しているそうだ。)
実際、吉田寮とその補修作業があったから、ぼくは環境デザインの留学生たちとつながり、それが現在、Taroハウスで行われている「リベルダージ:ディアスポラ、祖先、共存の地」の実現に至っている。
時代は、個々人を分断して管理しやすい方向に行っている。それを求める人も増えている。
アートにできることは、こうした新自由主義に徹底して抵抗し、感性のコミューンとそのための場をあちこちに立ち上げることだ。
それは物理的・身体的(フィジカル)であってもなくてもよいが、ぼくはフィジカルにやりたいと思う。
]]>
2月12日 梅の花芽が膨らんできた。
この日は、久しぶりに亀岡のみずのき美術館に立ち寄ったあと、スプリング日吉へ。1500m泳ぐ。
2月13日 歯医者。
2月14日 世人研(京芸A棟7階)の会議室で、山内政夫さんが呼びかけた「六条村跡(アート)プロジェクト会議 第1回」。
ぼくは頼まれた「六条村跡保存活用の提案」。去年11月末の河川整備課相手の提案に、《テラス》としての京芸と崇仁地域との関係を肉付けして発表した。
ぼくの前に発表された京都市埋蔵文化財研究所の南孝雄さんの「埋蔵文化財発掘からみた崇仁の歴史」がたいそうよかった。研究者の実証にもとづく知見はやはり得がたい。高倉通の東西で地質が変わり、東側は砂が多く、人が住んだ痕跡が古い時代は少ないと。崇仁地域が古代〜中世は鴨川の氾濫原だったことと関連する。川の氾濫は室町期ごろには収まったようだというのも興味深い。南さんの話は、京芸の移転コンセプトをなぜ《terrace》としたのかで始めたぼくの提案と偶然うまくつながった。
高瀬川横のミニ公園には、御土居や材木町、高瀬舟など、地域の歴史的資料のオブジェを集約するが、西側の「六条村跡歴史公園」にはモニュメントやオブジェを一切置かず、音響のインスタレーションだけを配置し、あくまで「空虚void」としてキープするという案に、意外と反発はなかった。
京芸のテラス越しに六条村跡がよく見える。被差別部落の歴史は抹消されるのか? 京芸が芸術的手段を通して保存活用するのか?京都駅横の便利な場所に来たと浮かれるだけに終わるのか?
乾久美子さんら設計チームのコンセプトは、京都の街と京芸との連続性を強調していたが(*)、ぼくの《テラス》構想はむしろ逆に京都の街との新しいかたちの断絶を図るものだった。氾濫原に立つか、安定した土地の上に立つかは決定的にちがう。
やはり穴派のぼくは、建築系に進んでいたとしてもきっと孤立無援だっただろう。
]]>
新・京芸の作品展に行く前に、ACG Villa 京都の「太陽・酸素 − 野村 仁」展(2/4〜2/13)へ。
地球上のストロマトライトの時間と宇宙の時間を、ストロマトライトと天体写真の併置で表わす。
野村 仁《ストロマトライト:1年はかつて435日だった》1992|写真
「35億年前までの地球の大気に酸素は存在しなかったのですが、その酸素を最初にもたらしたのは藍藻という微生物だそうです。それは今もオーストラリアの海岸でコロニーを作っています。日中、太陽の光を浴びて酸素を生み、夜、粘液を分泌して石灰質の皮膜を作り、徐々にストロマトライトと呼ばれる石になるのです。 1992年2月、機会があって現地に行きましたが、石は1年間に0.5ミリずつ成長して、年輪のような縞模様を作ります。それで、ストロマトライトの化石を詳しく読むと、8億5千万年前、地球の1年は435日で、1日が20.1時間であった、と・・・。この「地球自転の永年減速」という現象は、日数、月との距離、ストロマトライトの成長に変化を及ぼすのです。(野村 仁)」
野村先生は2022年10月3日に同じACG Villa 京都の個展の最中に倒れられた。それが岩城見一先生来訪中だったことを知った。
野村先生は昏睡状態のまま、ちょうど一年後の2023年10月3日に逝去された。
今年の1月26日に偲ぶ会が開催されたが、その日は満月で、野村先生の誕生日でもあったらしい。
彫刻専攻ではなかったので、野村先生とは教え子たちほど懇意ではなかったが、AASを数年間いっしょにやっていた。
野村先生としゃべったのは、数年前の大阪のACGでの個展会場が最後だったが、そのときの先生の言葉は、わが意を得たりというものだった。
曰く、「美術を続けていると、人間がつくったものはすべてつくり替えることができるという、根拠なき自信が湧いてくる」と。
静謐な作品展示で、そのおかげか、初めて藤井厚二(1888〜1938)が設計した建物の細部も意識的に見た。
登録有形文化財でもある建物の正式名称は小川家北白川別邸。木造平屋建で竣工は1934年、数寄屋大工の北村傳兵衛(1894〜1985)による施工、庭は小川治兵衛。
床の間横の大きな円窓が強烈。
茶室。
スリガラスのため白壁のように見えるが、真ん中は上から下までガラス。
電灯なしでこの北側廊下を明るくする。庭に面した二間の部屋の南側にサンルームのような広縁を配したのと対照的。
段差のある天井に扉がついていて、屋根裏の熱を逃がす換気口となっている。
戸棚の扉の把手の位置。扉は四角い枠で囲まれているように見えるが、じつは上側は左から右まで一枚板。割れが入っているため、別の材に見える。茶室の凝った仕上げと共に北村傳兵衛の技。
藤井厚二設計で、北村傳兵衛施工の茶室として、ほかに長岡京の中野邸奥の茶室もそうだという。
以前、天井の段差のあるデザインが気になったことを思い出す。
聴竹居をもう一度見に行きたい。
]]>
Taroハウスでのアウグスト・オヤマ君の「リベルダージ:ディアスポラ、祖先、共存の地」展をwebsiteにアップした。
(リベルダージの綴りをまちがえていた。Liverdadeではなく、Liberdade。)
日系ブラジル人のアウグスト君は、同じ京大の地球環境学堂人間環境設計論研究室を修了したインドネシア人のイ・マデ君とも親しいらしく、頻繁に連絡を取り合っているようだ。
海外のZ世代は国籍もジャンルも関係なく、SNSなどでつながっている。社会意識も高い。日本はどうか?
リベルダージ展は、サンパウロの移民街を軸に、ブラジルでの非西洋人系移民、特に先祖が奴隷だった黒人や、20世紀にたくさん移住し日本人の暮らしや社会意識を扱うが、ベースにあるのは、今世界中で危機に瀕している「人権 droits humains」の問題だ。
それで世人研事務局長の淀野さんや、京芸の一部教員にも伝えた。
京芸はもっか作品展期間中で、終わって片づいたら、関心を持つ教員や学生も見にくるかもしれない。
崇仁・東九条というマイノリティの歴史が刻まれた地域全体が、壊れていく世界のなかで、生きのびる術を共にたぐり寄せる無国籍・多分野・多世代の創造的交流の場になること、それが「テラス Terrasse」という京芸の移転基本コンセプトに込めた思いなのだが。
それとも関連して、崇仁高瀬川保勝会のホームページをモバイルファーストになるようコツコツ手づくりしているが、google fontの利用を思いついて、検索してみたら、面白いことに気がついた。
書体見本の文章が世界人権宣言(Universal Declaration of Human Rights)の一節になっているのだ。
" Whereas disregard and contempt for human rights have resulted "
このあとには、"...in barbarous acts which have outraged the conscience of mankind, and the advent of a world in which human beings shall enjoy freedom of speech and belief and freedom from fear and want has been proclaimed as the highest aspiration of the common people, "(人権の無視と軽蔑は、人類の良心を踏みにじる野蛮行為をもたらした、それに対して人々が言論と信仰の自由を享受し、 恐怖と欠乏から解き放たれる世界の到来が、人々の最高の願いとして宣言された・・・)と続く。
イスラエルによるパレスチナ人の大量虐殺がSNSで世界に同時中継される時代だ。ホロコーストを被ったユダヤ人たちは、今度はパレスチナ人を同じ人権を持つ人間と見なさない。恐怖の連鎖はさらなる暴力の過激な連鎖を導く。
]]>
ギャラリーマロニエでの版画のグループ展「Printmaking 刷りとその解体 II」が始まった。去年の同時期のが第1回展で、今回は2回目。
今回は、吉田佐和子さんとKunstarztの岡本光博さんが共同で人選。(と思っていたら、岡本さんは人選にはノータッチでKunstArztの作家たちも吉田さんが選んだそうだ。)
ちょうど今、京都国立近代美術館で「小林正和とその時代」をやっていて、小林正和さんのギャラリーマロニエでの展示シーンが再現展示されている。マロニエがかつてのように現代美術のシーンとのつながりを回復すればと願って参加したが、はたして貢献できたかどうか。
岡本光博さんといっしょに展示するのは、2016年の「フクシマ美術」以来だ。
あのときはChim↑Pomと同室で、床全面と壁を使った。今回は吉田さんから床を使うよう指示を受けたので、同じように床を使った。版画をどう見せるかが問題だったが、ガザでも能登でも版画を展示できるような垂直な壁はなく、傾斜が支配する世界であることをふまえる。ちょうど横に随行奏子さんの木彫による版木と版画を下に敷いたものがあったので、それとパラレルになるよう、版画を床に敷き、傾いた版木を宙に浮かせた。
売上げの作家収納分は、毎月会員である国境なき医師団「緊急チーム」募金に全額寄付する。まあ売れないだろうが。
今回の制作の収穫は、ドローイングのスイッチが入ったこと。
やはり描きまくる中からしか方向は出てこない。だが、造形原理の追求を伴わなければ盲目となる。それはぼくにとってやはり「2と5」の原理なのだ。コンセプト優先ではなく、探求的な制作活動優先。いい作品になることをめざさねばならないが、結果的な出来不出来は二次的。すべては道程と観念すること。
]]>
もう2月。能登大地震から1ヶ月。
petit dessin 240201_1
]]>
アトリエの棚を整理していて見つけた10年前のデッサン。心臓のかたちから。ここでも「2」にこだわっている。
出発点に帰らねばならない。
パリにいたとき、創作姿勢に共感できた数少ないアーティストの一人が、Thomas Hirschhornだった。
はじめて見た彼の個展 "Concretion Re"(Galerie Chantal Crousel, 2007)にはびっくりした。マネキンのどぎつい林立。荷作り用テープの過剰な使用、段ボールなどチープな素材の流用、勢いだけで仕上げたような造形。。。だが、なぜか爽快だった。
もとはチューリヒのデザイン学校でグラフィックデザインを学んでいたが、広告業界での仕事が95%というグラフィックデザインの業界に疑問を持ち、パリで活動していたGrapusの政治色の強いデザインに魅かれ、パリに移り住んだという。注文を受けてデザインするのではなく、「自分自身のためにデザインする」(印刷物をつくり、掲示する)のが当初のモットーだったそうだ(Thomas Hirschhorn, Phaidon, 2004, interview p.9)。
10数年たって、世界はますます暗く暴力的になっている。ウクライナやパレスチナだけではない。マリ、ブルキナファソ、ニジェールなど、近年軍のクーデタなどで政情不安に陥った西アフリカにも、ロシアがテロとの闘いを支援するとかの名目で軍隊を送り込んだ。日本にいたら肌で感じることがむずかしいが、海外ではアーティストならヒリヒリするような身体感覚ではないかと思う。ヒルシュホルンは、状況から距離をとって自分の美学を追求する普通のアーティストとはちがうので、ふと今、どんなことをしているのか検索してみたら、ニューヨークのGradstone Galleryで個展“Fake it, Fake it – till you Fake it.”を開催中だった。
そこでの率直な(ヒルシュホルンが好きなのはこの率直さによる)ステートメントに元気づけられたので、訳しておく(*)。
戦争と破壊と暴力、怒りと憎しみと恨みに満ちた時代にあって、いかにアートをするか? どんな種類のアートが暗闇と絶望の只中でなされるべきか? アートは歴史の変化を理解するツールたりえるか? 芸術作品は、世界を理解するオルタナティブなかたちたりえるか? アーティストとして、事実やジャーナリズムやコメントの罠に陥らずにいかに制作を続けるか? 私はこれらを自分自身に問いかけたい。そして私の作品でもって省察の面をつくり出したい。私は問題の解決策を提示するようなふりはしないが、本作 "Fake it, Fake it – till you Fake it. "が、アナログとデジタルのあいだの裂け目のかたちとして、こうした問題に対してなんらかの貢献をしてくれたらと思う。
リアルな世界でリアルな世界のために制作することが、私のコミットメントだ。アナログでリアルな展示空間がいかにデジタルでヴァーチャルな世界と結びつきうるのかという問題に対する造形的な提起を私はしたい。私は自分の作品をデジタルと葛藤するアナログのモードでキープしたいし、そのことでヴァーチャルなものに落ち込むリアルなものの軋轢や破砕を反映させたいと思う。もちろんそれは決してデジタルなものやヴァーチャルなものを無視することではない。なぜなら、それらの膨大な変容と広範囲に及ぶ帰結は、われわれの共存と交流のあり方に一種の「fake-utopia」の変換点をもたらしているからだ。私が今、作品を通して取り組んでいるのは、この「fake-utopia」という考えに挑むことだ。私はそれを「distopia(暗黒郷)」ではなく「fake-utopia(ユートピアまがい)」と呼ぶ。「ディストピア」というのは、もともと「ユートピア」の考えで、ユートピアがいつのまにか誤ってディストピアに変貌した。しかしここでの「fake-utopia」は、ことさらフェイクさを認めず、ユートピア的次元を信用することもない。これが、自嘲と謙虚さと愚かさと無頭さでもって自分自身を「フェイクすること」で私がやりたいことなのだ。
私は長い間、シリコンバレーのモットー「偽造の果てに実物ができる Fake it, till you make it」におおいに関心をもってきた。そして自分自身もこのモットーに入れ込んできた。なぜなら私も、いやわれわれみんなも、それを試みているのではないか。わたしもまた偽造に偽造を重ね、そのあげくにもう嘘をつかない。なぜならfakeは問題ではなく、嘘をつくこと lyingが問題なのだ。私は嘘はつきたくないし、物事を嘘にしたくない。誰かが地下鉄でお金を求め、耳が聞こえないふりをするとき、そのふりは偽りfakeだが、お金が必要ということは偽りではない。それは嘘ではないのだ。
"Fake it, Fake it – till you Fake it. "の作品のかたちは、おぼつかない precariousものだ。それは「おぼつかない彫刻 Precarious Sculpture」である。偽のコンピュータから偽のクレジットカードまで、段ボールだけからかたちをつくることで、私は造形的次元における素材を通した決定 material-decisionの重要さを主張したい。この決定はアーティストにとってつねに芸術的なものであることも。問題は次の点にある。すなわち、手っ取り早く包みこまれた貧相な出来合いの彫刻を通して、あるおぼつかないかたち precarious form がいかに提供されるのか? デジタル消費主義の影響と追従に問いかけ、「ユートピアまがい」の結末に問いかけるようなかたちがいかにして成立しうるのか?
−−トーマス・ヒルシュホルン、オーベルヴィル、2023年(試訳)
自分の方法論である「まがいものをつくり出すこと」と、デジタルなAI社会がもたらすものに平行関係を見いだして、自分のやることの意味を自覚し直した、いや居直ったと言えるのかも。とにかく彼のまがいものは堂々としている。
]]>
1月22日(月)、若手漆芸作家の佐藤由輝さんと取り組んでいた東九条の「カトリック希望の家こども園」の木製看板を取り付けた。
夏前からこども園の叶先生から相談を受け、佐藤さんにリードしてもらい、ぼくがアシストするかたちで進めてきた。
(人を使うのはヘタで、人に使われる方がラクでいい。そういえば、昨年から頼まれ仕事が倍増している。世人研の展示や看板デザイン、先日のE9の舞台出演もそうだった。)
園児たちにひらがなで文字を書いてもらい、約3cmずつ手で輪切りにした樹木の断片に文字を写して彫り込む。
それを園児たちにいったん返して、今度は自由にクレパスで色塗りしてもらう。その文字の部分に佐藤さんが漆を塗り、防水加工をほどこして、最後にぼくが柵に取付けるという内容。
分厚い樹木の切断面への色塗りは子供たちも楽しかったらしく、しっかり描き込まれている。
防水塗料には、ぼくが推薦した水性キシラデコールを重ね塗り。佐藤さんは4回も塗ったという。
厚板の裏にも色塗りがされていて、なるべく見せたいので、柵への留め方に工夫を要した。
いろいろ試して、同軸ケーブルを壁などに留める「省力V.V.R片サドル」を利用した。
取付け位置も自由で、3点でしっかり留まり、安全だ。
レイアウトは佐藤さんにまかせ、ぼくは裏からの留め役に徹した。文字通りの裏方。
去年の正月にぼくが提案した東九条の高瀬川沿いの伐採樹木の再利用の一つのかたち。
佐藤さんと染織出身の山本紗佑里さんが行った本づくりのワークショップ「ランドスケープのつづき」に平行した取組みだった。
だが、ほかにももっと樹木を創造的に活用する活動が出てきたらと思う。オブジェや楽器、椅子やコースター、その他何でも。
工事中の南岩本公園の一角に念入りにつくった樹木置場が使えるのも3月いっぱい。やんそるさんは韓国の地方の集落に入口に立つチャンスンをつくってみたいそうだ。
展覧会がたくさん控えているので、あまり時間が割けそうにないが・・・
・ ・ ・
マロニエでの版画のグループ展も迫るなか、今週は、webデザインの再学習にかかりきりだった。
2010年代から急速に進んだスマホ社会で、情報技術の仕組みも大きく変わっており、対応が遅れたままだ。
だが、根が技術系なので、webデザインについても、Wordpressや便利系フレームワークなど、仕組みを知らないで乗っかるのがいやだ。HTML、CSS、Javaという、もっともベーシックな技術とその組み合わせでやりたいのだ。
自分のwebサイトは情報量が半端でないので、その作り直しはやっかいだ。それでまず必要と思っていた崇仁高瀬川保勝会のwebサイトをつくりながら、学習しようと考えた。美術もそうだが、情報デザインもぼくはずっと独学だった。
ところが今はモバイルファーストでやらねばならず、レスポンシブな仕組みが必要で、その理解に時間がかかる。何せ今社会は情報資本主義に牛耳られているのだ。
そんななか、2018年に買ったMacBookPro(13inch, 2017)のバッテリーが壊れた。
バッテリーの修理交換は今アップルの工場でしかやってないらしく、37,500円(税込)かかる。2021年に枚方のカメラのキタムラに一度ディスプレイの修理に出したが、そのときは12,900円だった。
アプリケーションとの適合性もあるので、OSも10.13.6(HighSierra)以上に上げたくない。中古Macの再導入も考える。
]]>
能登の震災は山崩れと土地の隆起でたいへんなことになっている。安定した地盤が失われるということはこういうことかと思う。
地面の下から人の住む陸地を見上げている感覚が強いので、からだの奥で何かが揺れ動いているままだ。
自分の暮しを振り返ると、20年以上同じ家に住んでいるので、いろいろ傷みが出ている。
年末から冷蔵庫内の灯りがつかなくなった。部品供給も10年以上前に途絶え、修理できない。本体もいつ切れてもおかしくない。
ついに買い替え、1月4日に新品が届いた。
男二人がかりで搬入。曲り階段を上げる作業をじっと観察する。
窓のブラインドも壊れて久しい。これも年末に注文し、1月16日に届いたが、サイズがちがう。天地左右とも10cm大きく、窓枠の内側に入らない。こちらのミスだ。TOSOの製品で、Royal HCが取次ぎ、返品も交換も加工調整もできないという。新品を廃品にしてはならないので、自分で短く加工することにした。
壊れたブラインドはすでに市の環境業務課(最近よくここに行く)に出したので、新しいブラインドの加工が終わるまで窓の目隠し。
いつ手に入れたのか忘れた古いゴダールの映画のポスターで。マニアなら高く買ってくれそうだが、紙の劣化はひどくすぐやぶれる。
ブラインドは薄い鉄とアルミ製。カナノコとカナバサミで切る。二つあるので、同じ作業を2回。2回目は要領もよくなり、捨てるものも最小限に切り詰めた。取付含めて作業時間は3時間ほど。
TOSOに返しても絶対こういう加工はしないし、できないだろう。
ピッタリ納まった。
今年の運勢を占う作業でもあったので、うまく片づいてほっとする。
芸大勤務中は家のことを放ったらかしだったと反省する。階段室や廊下の壁は大工の足跡が残る石膏ボードのままだ。
]]>
「E9であそぼう!」の公演2日目。
この日は出演者が増えて、橋をつくる場所も変わった。
組立て中。床が傷むとかで、持参した黒い布シートが役に立った。
角材は35mm角x1mが15本。5段のアーチは長さ約240cm、高さ75cm。下に敷いた布シートは幅120cmx長さ275cm。
稽古のときの記録から。本番ではもう少しゆっくり渡ったらよかった。
公演終了後、頼まれて橋を再度組み立てると、たちまち子供たちがやってくる。劇場が本当の遊び場になる。
シアターE9に隣接する廃ビル。もと駐車場だったのか、封鎖された裏の空き地では、桐が暴力的な繁殖力を示している。
東九条は、人間がいなくなると、桐の天国になるのか。
地域のランドマークだった高瀬マーケット。韓国の食品などを扱っていたが、数年前から閉鎖されていた気がする。それがついに解体される。
護岸工事の進む高瀬川には水流がない。
チームラボ・ミュージアムの工事も進んでいる。
東九条の風景が大きく変質しつつある。
]]>
シアターE9での「E9であそぼう!」の初日。
あごうさんは即興的に劇を組み立てるところがあるので、リハーサルのとき、手がかりになると思って、橋を組み立てる際の多様なオプションを提示した。
材料の運び方、床への置き方、組み立てる方向、橋の渡り方、橋のバラし方、片づけ方・・・
発想がレオナルドのスケッチに由来することを説明すると、それを本番でも言ってほしいと指示される。
ただ行為するだけで何もセリフは考えてなかったので、昼休み時間にTaroハウスでごく短い文言を考えた。
現場には何も手持ちの資料がなかったが、スマホで見れるこのブログが役に立った(*)。
「1502年、レオナルド・ダ・ヴィンチは当時のオスマン帝国のスルタンに宛てて、ボスポラス海峡の金角湾にかけるアーチ型の橋のスケッチを送った。レオナルドは中東とヨーロッパに橋をかけようとしたのだ。これ(この橋)は、彼のノートに描かれた橋の構造のスケッチにもとづく。
ただし、パレスチナの旗の4色に塗り分けられている。この橋は何度こわされても作り直せる。」
これをぶっきらぼうに棒読みする。
天橋立のことまで言及しなかったが、異なる世界をつなぐ「橋」の象徴性については、だれでもピンとくるだろう。
ノランナランでは、サボテン企画によるパレスチナ写真展が開かれていて、プラカードづくりのワークショップも行われていた。
パレスチナの食事やあそぶ子供たちや海辺や丘陵の風景などの写真に交じって、とても心魅かれる写真が一枚あった。
キャプション:「ヨルダン渓谷 2009年5月/建設許可がないことを理由にイスラエルに破壊された家屋を建て直すパレスチナ人。壊されても建て直すことで抵抗する。(撮影:清末愛砂)」
1階のカフェ・ソルで開かれていたプラカードづくりのワークショップ。
京都人でないので知らなかったが、毎週土曜に京都市役所前で即時停戦をうったえるデモが行われているとか。
京都は学生が多いから、昔ならもっと激しい戦争反対運動が行われていただろう。
ぼくもカンパでもらったパレスチナの旗のワッペンを胸につけてシアターE9に戻る。
本番は3時からだった。
]]>
あごうさとしさんに頼まれた公演「E9であそぼう!」のために、コロナ禍によって中止になった2021年の「E9 2030」で予定していた橋をつくって渡るパフォーマンスを行う。
偶然にも、あのときは翌年2022年2月24日から始まったロシアのウクライナ侵略を予期してか、橋に使う角材をウクライナの国旗の色(青と黄)に塗り分けていた。
だが、今度はイスラエルにパレスチナのガザ地区が攻撃され、これまでの死者数は2万3357人(2024/1/11 ガザ地区保健当局)にのぼる。よってパレスチナの旗の色に塗り替えることにする。
すべり止めも兼ねて、塗装をヤスリで削りとる。4面x15本で、60の面を削るのは2時間以上かかる。
塗料はできるだけ余り物を使う。
パレスチナの旗の4色(黒・白・緑・赤)。角材はちょうど15本。三角の赤い板もつくろうかと思ったが、取りやめ。
3×4段なら組立ても2〜3分で渡るのも楽だが、3×5段だと3〜4分かかり、何度も昇降すると角材がずれ落ちることがある。
だが本番は5段で行くことにする。
一往復半。最後は最下段がはずれた。もう少し練習しよう。
パレスチナの旗はアラブ反乱旗(1916)に一番近い。
]]>
petit dessin 2020007
]]>
ウイルスのように変異し続けること。アイデンティティの希薄な自分の、愚かな望み。
年末にシアターE9の芸術監督・演出家のあごうさとしさんから電話がかかってきて、出演を頼まれて出ることにした。
最初は「公園であそぼう」という案だったが、南岩本公園の整備事業から撤退したので、京都市から難色を示され、「劇場であそぼう」に変更になったらしい。
出演者がセリフをやりとりするのではなく、オムニバス形式で順番に舞台にあがって数分何かやって交代するという形式。
出演するのも、実際の役者以外にあごうさんの知り合いの演劇の素人も多い。
ぼくもあごうさんのねらう多様性の一要素ぐらいだろう。
演劇と非演劇(日常?)のあわいを探る人なので、彼にまかせることにする。
というか、人の指示どおりに行動すると、けっこう新鮮な体験が得られ、しかも責任は問われない。
主体性放棄というのは悪の所業だが、変異を続けるウイルスには善も悪もない。
制作においてもこのあたりのギリギリを追求することを今年の課題にしよう。
舞台では、あごうさんのリクエストもあり、その場で橋をつくって渡るパフォーマンスをする。
いくら素人芸だからとはいえ、多少の準備も必要。
・・・・・
年末にブルキナファソで奮闘する作曲家の藤家渓子さんから連絡があり、彼女の企画に協力することにした。
やんそるさんともつながった。
助成申請が通れば、今年前半、Taroハウスで彼女の作曲によるユニークなギター演奏会が行われる。
やんそるさんのノランナランでは、さぼてん企画によるパレスチナ写真展が行われる。
久しぶりにTaroハウスのwebsiteを更新して写真展を告知する(*)。
Twitter上で見つけたパレスチナ人の詩を和訳して載せた。
・・・・・
『つちのいえ2008-2021』を扱って下さっている書店の一つ Calo Bookshop and Cafe の「2023年Caloで売れた本」のなかで、同書が同列5位とのお知らせがCaloのTwitter上にあった。
お薦めのなかにも上げられているが、Sold out になっている(*)。
昨年11月には、八戸ブックセンターからも2月末まで預かり期間を延長してほしいと連絡があった。
破格なので儲けにはならないが、少しでも広まっていくのはうれしい。
だが、ISBNを取っていないので一般の書籍流通ルートにはのらず、ごくわずかの人に知られるだけに終わるだろう。
建築家たちがTOTO出版から出した『How is Life ? 〜地球と生きるためのデザイン〜』にも似た側面があるのだが、普及力では圧倒的な差がある。『つちのいえ』もぼく自身も、建築なり美術なり、特定の既存テーブルに乗っていない。マイナーそのものなのだ。
今年はほったらかしていたweb designの技術も更新しないといけない。
]]>
||||||||||||||||||||||||
1月1日(月/元旦)
年が変わるのに応じて、近所の走田神社へ。
今年辰年は、1954年の第五福竜丸事件、またそれにもとづく最初の怪獣映画『ゴジラ』の70周年にあたる。
それで年賀状には、龍に見立てた木の枝とゴジラをあしらった。「第五福竜丸」の文字も船体の写真から採取し、船体のカーブに似た枝に沿って旗のように付けた。
元日16時10分に能登半島で起きた最大震度7の巨大地震と群発地震は、珠洲、輪島、七尾、穴水など、能登半島の町や村にまるでゴジラが上陸したような惨状をもたらした。地震のときは奈良にいたが、それでも強い揺れを感じた。
地震は風景を傾斜の集積に変える。
半世紀ほど前に父が手づくりしたお墓のロウソク立て。今年は修繕しないといけない。
|||||||||||
1月2日(火)
いつものように自転車で柳谷観音へ独鈷水(おこうずい)を汲みに行く。
柳谷観音は近年、広告会社にPRを頼んだようで、入場が有料となり、花手水がやたらインスタ映えをねらっている。
しかしこの独鈷水を汲む場所だけは変わらず静かでいい。
冠雪している比叡山が見えた。
長岡天神の八条池を飛び回る鳩の大群を見上げる。
空中での群れの変化に見とれる。
いっせいに電線にとまる。白い鳩が一匹。群れからはずれてとまるのが一匹。
白い鳩は翌3日もいた。
||||||||||||||||||||||||
1月3日(水)
四条河原町の高島屋の美術画廊に京芸の教員・学生の展示(New Vintage)を見に行く。
百貨店の美術画廊というのにはめったに行かないが、仕事をいろいろ手伝ってくれた若手作家も出品している。
森野彰人教授と@KCUAの岸本光大さんが出品者を選抜したようだ。
T8という専門店街ができて、アート系の本も扱う蔦屋書店が入ったので、新しいギャラリーもできたのかと思ったが、以前のままだった。百貨店の画廊の中では作品はみな小ぎれいな「商品」の顔つきになる。
高島屋S.C.と名称が変わったので、何のことかと思ったら、ショッピング・センターの略。「高島屋ショッピングセンター」と名乗らなかったのは、いかにもやすっぽく聞こえるからだろうか。
蔦屋で京芸の新校舎も載った『新建築』2024年1月号を買う。
京芸の設計チームが自賛気味に語り合っているが、やはりなぜ「Terrace」なのかは消えうせ、京都のまちの構成原理を応用して、新校舎と京都のまちの連続性を実現したことをうたっている。
「テラス」には逆に京都のまちとの連続性を断ち切る意図もあったのだが、移転基本コンセプトには「Terrace」のイデアが鴨川の氾濫原から浮上したことを読み取らせる側面が弱かったようだ。洪水のイメージにとりつかれているのはぼくだけなのだからしょうがない。
]]>
17時から、+1 artで、来年のひらいゆうさんとの二人展「水たまり」について打ち合わせ。
その前に、なかなか行けなかったcocoroomの井戸を見に行った。9月に堺で上田假奈代さんとばったり会った際、井戸堀りの本がようやく出版できると聞いたので、訪問する機会を探していたのだ。
井戸はcocoroomの楽しげな庭の奥にあった。
思っていた以上に立派な井戸だった。
急に行ったので、上田さんはいなかったが、『釜芸、井戸を掘る』と題した記録冊子で、井戸を掘る機縁になったのが、ペシャワール会の中村哲先生のアフガニスタンでの活動だったことがわかった。そして導き手となったのが、ペシャワール会で井戸掘りの活動をした僧侶・蓮岡修さんだったことも知った。ぼくも長くペシャワール会員なので、蓮岡さんが語るように、中村哲先生は釜ヶ崎での井戸掘りに興味も意義も見いださないだろうことはよくわかる。
それでも、井戸を掘ることで、自分たちの生存の基盤を確かめたいという、上田さんらの衝動もよくわかる。
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||
23 decembre 2023, samedi
廣瀬周平・山上友佳子夫妻と、毎年恒例のラバラカでの忘年会。
9月につくって設置したタペストリーの額縁が役立っているようで、よかった。
何よりも、ラバラカのムーちゃんとサリマさんが、この額を見ると元気が出ると言ってくれるのがうれしい。
来年、ムーちゃんの故郷モロッコに行くつもり。
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||
25 decembre 2023, lundi
12月15日に滋賀県大のレクチャーに読んでくれた星野祥子さんが、毎週月曜日に京芸のPDで非常勤講師をしているというので、デザイン科の新しい工房を見せてもらう。
ついでに総基礎研究室も訪れて、教室を見下ろした。
ぼくの基本計画では、2層分の空間で、可動壁で4つの教室に分れるはずだった。だが二層分あっても、可動壁がない。これでは授業がやりにくいだろう。空調も効率が悪いだろう。予算不足と聞いたが、それでは負担がはねかえる。
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
27 decembre 2023, mercredi
ようやく奈良の渡辺信明・渡辺智子ご夫妻の住居兼アトリエを訪問。
絵描き夫婦らしく、出された食事も美しい彩り。
生活空間の中心にあるネスターマーチンの薪ストーブ。渡辺先生じきじきにおいしいピザを焼いて下さる。
薪は家を取り囲むようにふんだんに用意されている。
何より感銘を受けたのが、コナベ古墳の池に接しているという環境。残した桜の木越しに、灰緑色の池と古墳の山が見える。
まるで絵の中に住んでいるよう。
広いデッキが庭と住居、アトリエの空間をゆったりとつなぐ。
設計は、渡辺先生の大阪市大時代の教え子の建築家らしい。
暮らしの風景と制作空間、そして絵画空間が地続きになっているように感じる。
絵を描くことと生きることの自然なつながりが実現されているのがうらやましい。
]]>
12月17日(日)18:30 水戸から東京に戻り、森美術館「私たちのエコロジー:地球という惑星を生きるために」展へ。
テーマは興味深いが、知らない作家が大半。
今回だけでなく続けてくれ。
美術館の大型展覧会には膨大な資材が投じられる。以前、東京都美術館で展覧会をしたとき(*)、終わった企画展(新聞社主催)の廃材をもらおうとした。ほとんど棄却済みでほんの少ししかもらえなかった。
だが、展覧会場も資源循環の場になるべきだ。
冒頭にHans Haackeの1960〜70年代の作品。87歳でまだ存命。
ハーケ以外、海外の若手アーティストはほとんど知らないが、何人か気になる骨太もいる。
*ケミカル・タンカー→飯野海運のサイトなど参照。
夜なのでよくわからない。音も聞こえなかった。
precarious 不安定な。この単語、不覚にも知らず。
日本人のベテランも出ていた。
この人は知らなかった。なまの土を使うつちのいえはここまで行かなかった。
村岡先生の彫刻が一つ出品されていた。傑作といえる。
||||||||||||||||||||||||||||||||||||
18 decembre 2023, lundi
ビルで半分以上隠れているとはいえ、東京で富士山が見えるホテルに泊まったのは初めて(ホテルルポール麹町)。
ホテル近くの赤坂プリンスクラシックの壁面の意匠。
渋谷駅の開発現場をちょっと見物。
工事は令和12年度末まで。
「大巻伸嗣 Interface of Being 真空のゆらぎ」(国立新美術館)
大巻伸嗣の作品を見たのも初めて。いい作家だと思う。
入場無料というのもよかった。こうでもしないと、一般の日本人は現代美術を見に来ないのが現状だろう。
麻生台ヒルズへ。
オラファー・エリアソン展(麻生台ヒルズギャラリー)。
空間を充填できる多面体をつなげたという。これは双対照11面体(7+4)。→【多面体一覧表】
素材はリサイクルされた亜鉛化合物とか。
和三盆や箸置きのかたちで売っていた。箸置きは高いので、和三盆を買う。
京都から麻生台ヒルズに進出した大垣書店にも立ち寄った。
その後、六本木にもどって、21_21の「もじ イメージ Graphic」展を見る。
タイポグラフィを軸にしたグラフィックデザインは、1980年代後半、自分も熱心に取り組んでいた。
DTPが普及し始める前だった。
『タイポグラフィ年鑑』の古いものが並んでいて、ぼくがデザインした冊子も載っている。これはDTP以前、まだ版下と写植でつくった。「そら」と書いた子供の文字を使った。
ネットが普及した現在、固定的な紙面をデザインするグラフィックデザイナーはどういう位置にあるか。
デザイン雑誌も読まなくなって久しいので、参考になる。
ちょっと応援したくなったデザイナー。
遠征するとたくさん一挙に見てしまう。消化するまで時間がかかる。
]]>
今村源さんから招待状をもらったので、20数年ぶり?に水戸芸術館へ。
快晴。東京へ向かう途中、富士山がよく見えた。
到着したとき、ちょうど水戸の年末の風物詩という「第九」300人合唱が始まったところだった。
水戸芸術館は、美術だけでなく、音楽や舞台芸術もやっていて、参加型のイベントも多い。市民との結びつきもうまくいっているのかもしれない。
「今村源|遅れるものの行方」展の第一室には、すべり台があって、作品鑑賞の前に心と体をほぐすことを促す。
今村さんとは、2007年以来、何度もいっしょに展覧会やワークショップをしているが、このオリジナルのすべり台一つで彼の芸術への姿勢に共感する。
見下ろす、見上げる、歩き回る
のぞく。針金彫刻の不定形や廃材の質感に対して、正多面体や正五角形など、幾何学的なかたちを巧みに挿入。
自分のからだを取り込むことで、制作のモチベーションもあがる。客体的な側面と主観的側面の配合が絶妙。底力を感じる。
今村さんはちょうどキノコのかたちをつくるワークショップの最中で、久しぶりに会って少し話ができた。
水戸芸術館のシンボルタワーに初めて上る。
タワーは、一辺9.6mの正四面体を28個積み重ねた形で、稜線が自動的にねじれたものとなっている(「正三角形57枚」という言い方より「正四面体28個」という言い方の方がいい)。稜線の部分は直径500mm、厚さ21〜60mmの鉄のパイプ材で、それらが1つの点に6本集まって一体化されている。構造計算も施工もたいへんだっただろうが、技術系の人間にはやる気の出る創作だったにちがいない。
タワーの上から水戸芸術館と水戸市街を眺める。
チタンの材質感と幾何学的形態で水戸タワーはランドマークになっている。
今年夏、すぐ横に水戸市民会館がオープンした。
水戸芸術館は磯崎新の設計だったが、市民会館は伊東豊雄。
ホールは、木製の柱と梁を組んだ天井の下に広がる。やぐら広場というそうだ。
スロープと読書・自習コーナーを本棚で分ける。
こどもの本のコーナー。本棚とそのスペースのデザインに力が入っている。
木を多用しているが、建物は基本的には鉄筋コンクリート。
水戸に来るときは芸術館のみで市内観光をしたことがないので、少しまちなかを歩いた。
水戸城跡にきれいな大手門があった。
大手門の瓦塀のコーナー。瓦の方向を互い違いにしている。
水戸城の堀跡だろうか。JR水郡線(すいぐんせん)の線路が絶壁の下を走る。
延命地蔵。黒いタイル柱がいい。
このあと東京へ。
]]>
滋賀県立大学でレクチャー。9月から生活デザイン科に講師として赴任した京芸PD出身の星野祥子さんの招きによる。
南彦根にJRで向かったのだが、電気系統に事故があったらしく、一駅手前の河瀬で停車、復旧のめどがたたないというので、星野さんに車で迎えに来てもらう。
当初、去年のジュネーヴのHEAD向けの内容を日本語にすればいいと考えていたが、新しい内容がないとやる気が出ない。それで、人間のアイデンティティについての今の考えを、フォッサマグナの断層線で自撮りした自分を題材にして示し、導入にした。要するに、人間にも場所にも文化にも固定的で統一的なアイデンティティなど存在しないということ。すべては流動的な複合体だということ。
これは自分としても新鮮な自己分析だった。アイデンティティが希薄で、正体不明の自分を情けなく思っていたので、この相対化で少し気が楽になった。レクチャーの準備が徹夜になったが、このフィードバックは小さくない。
参加者は生活デザイン科と環境建築学科を中心に50人ほど。「自分は一つにまとまっていると思うか」と尋ねたら、大半がそうではないと答えた。それで話の内容も、絵画からインスタレーションに及ぶまとまりのない自分の仕事から始まって、土を使う技術やアイデアの具体的な細部、デュシャンのレディメイド論、伝統技術の実験性、「穴」の可能性、さらに素材と形についての哲学的考察まで、まとまりのないものになった。途中、線をつなぐ3分間ワークショップも挿入。
これは関心というより目標と言った方がいい。数年前、台湾の先住民を交えた国際マイノリティ会議で、右の絵を見せて話をしたら、あとで台湾の大学教授から、「あなたの考え方は先住民に近い」と言われたことがある。
途中の抽象的な話の部分を4コマ漫画にして後日配布する。
滋賀県立大学は1995年創設で比較的新しい。琵琶湖畔の敷地に広々と広がる(*)。
設計は内井昭蔵をマスターアーキテクトに、長谷川逸子(工学部等)、浦辺設計(人間文化学部、交流センター)、坂倉設計(センターゾーン)など複数の建築チームが関わる(*)。
センターゾーンを囲む円形水路をまたぐ橋。坂倉の設計なのか、やたら豪勢。
アーチはどの建物でも多用されており、内井昭蔵のリードと思われる。それがどこか西洋古典的なイメージをキャンパス全体に与えている。
生活デザイン科の工房の天井。浦辺設計によると思われる。木を使っているのがよい。のびのびしている。
京芸の新キャンパスは、資金不足からか、素材の使い方が堅苦しくてよくない。
]]>
12月11日(月)13:00〜
京都市美術館学芸員の中山摩衣子さんに頼まれ、伊根から来られた福嶋敬恭先生のインタビューに同席する。ひろいのぶこ先生も同席。
インタビューは編集して美術館ニュースに載せるそうで、そのため、外注した編集とデザインの担当者も同席。
驚いたのは、その編集担当がかつてKAVCで広報の仕事をしていた大泉愛子さん。
2016年のぼくとhyslomの「新シク開イタ地」のときにお世話になった人だ。今はKiitoにいるそうで、フリーで編集の仕事もしているとか。世間は狭い。
だが昔は、美術館ニュースの執筆も編集もデザインもぼくは一人でやっていた。展覧会のポスターもたいてい自分でやった。図録の編集やデザインも一人でやることが多かった。
それが今や学芸員は自分でやらないで(できない?)お金を使って外注する分業が当たり前らしい。
美術に関わる人間は、作家であれ研究者であれ、最低限、デザインはできないといけないと考える自分は、分業以前の古い未分化な造形家タイプなのか。またも現し世を向こう岸に感じる。
それより、福嶋先生に古い『彫刻科年報』を見せてもらって、1970年の大学改革案の背景の半分がわかった。
中に「彫刻科の独立」という語がある。今熊野キャンパスの中心から離れた山の上にプレハブの工房を建てて彫刻専攻が移ったことを意味するという。ただでさえ、堀内正和と辻晉堂の二人によって他の美大の彫刻科とはまったく異なる彫刻教育(人体からではなく立体構成から始めるやり方)が展開されていた彫刻科が、さらに浮世から離れて自由に芸術探求を行う梁山泊的コミュニティになったということだ。だが福嶋先生によれば、完全に孤立していたわけではなく、下に降りたら他専攻の先生とも交流できたという。その半ば「独立」した「彫刻科」で行われた「学年制」を廃止するやり方が、大学改革案の下地になったのである。学年とか単位、さらに専攻別というのは、きわめて学校制度的なシステムだ。それを排する脱学校的な研究教育が梁山泊的なコミュニティでなされていたことが、専攻を廃止する改革案につながるのだ。
『彫刻科年報』は主に彫刻専攻の教員・学生だけに配布された少部数のもので、ほとんど知られていない。
沓掛移転直前の1979年は最後のもので、その年表から、60年代末からのページを抜き出す。
#『彫刻科年報』1979年版より
改革案は1980年に解消されて専攻別の体制が復活するが、それもそのはず、小さな規模のコミュニティだからできたことが規模が大きくなってできるはずがない。それでも京芸は一学年135人(かつては125人)という小規模だから、総合基礎実技とテーマ演習という専攻横断型のカリキュラムがぎりぎり尾てい骨のように残ったのだ。ちょうどダンバー数に見合った規模だったことも功を奏した。創造性を育む環境と規模を考える上で、「小規模で社会から離れること、かつ流動性を保つために閉じないこと」、これはとても大事なことだと思う。もっとも優れた人間が集まらねば何にもならないのだが。
[そういえばぼく自身、博士課程委員長をしていたとき、京芸を5年制にして文科省の「大学」の枠から「抜ける」ことを模索したことがある。文科省に学年制の変更可能性について問い合わせたとき、電話に出た担当者が、「独立法人となった今は、学年制は各大学で考えることができると思うが、法律を調べてから連絡する」と応えた。そのときは一瞬離脱できるかもと期待したが、「今の学校基本法では就学年数は領域によって一律に決まっている」との回答が後日返ってきた。「独立」は無理だった。]
ぼくがなぜ京芸に親しみを感じるかというと、修行時代はどこに行っても孤立し、何人かの芸術家を師とするだけの一人梁山泊だったからだ。(その状態は解消されたわけではない。たぶん死ぬまでずっと。)
福嶋先生インタビューから京芸と自分自身への思わぬ認識を得た。
]]>
この週は、夏以来の度重なる工務店的仕事でたまった廃材を納めるための小屋づくりに精を出した。
12月5日(火)
こちらに引っ越してきて以来、20年以上、塀際に置いてあった金属棚。これに屋根を架けようと思う。この日は周りを片づけたり、いろいろ作業準備。
12月6日
沓掛京芸から持ち帰った廃材を組み合わせて柱を仕立てる。2本合わせて柱にしたものと棚をボルト・ナットで一体化。
左右の壁の幅や地面の高さが異なるので、高さを合わせるのがむずかしい。
12月7日(木)
駐車スペース保持のため、右側の壁の幅は棚の幅。
この日は、ひらいゆうさん宅で来年の二人展の打ち合わせ。
12月8日(金)
やはり沓掛京芸から持ち帰った廃材のポリカ波板を屋根に張る。
波板はなぜ幅が65cmなのか。釘を打つときの身体姿勢に対応していることがよくわかる。工業製品における「規格」の人間工学的背景。
採光のため真ん中は半透明のものに。
波板で壁もつくる。納屋はブロック塀から少し前に出しているので、金属棚と後ろのラインが合わない。少しねじれた関係になっていて、不安定なので筋交いをつける。
この日は、ラバラカでひろいのぶこ先生、むらたちひろさんとモロッコ料理でディナー。
12月9日(土)
雨樋を竹でつくる。
今回の工作で、一番の難題は雨水の処理。隣の敷地に屋根からの雨水が流れ込んではいけないので、雨樋をつけることは初めから考えていたが、出発点の金属棚が塀に寄り添っているので、普通の雨樋だと隣地にはみ出る。
思いついたのが、地球研の展示のためにつくった竹製ハンガーラックの残り材。約2mのちょうどいい長さの孟宗竹があったので、半割りにして板壁にじかにボルト・ナットで固定する。1cm近い厚みがあり、当分大丈夫と思われる。
誰にも見られなかったが、この屋根の上を這って進み、竹の雨樋を壁にビス留めした。
雨樋をとめた板壁。これも沓掛京芸の廃材で、9mm厚の構造用合板。
雨樋からの滴はブロック塀のこちら側に落ちる。
竹を割って雨樋の端につなげて、水を地面に導く。
屋根と雨樋をつくるのは、去年のTaroハウス以来だが、やはり天と地のあいだをつなぐ「水のみち」を作るのは面白い。
竹が使えたこともうれしかった。この夏にアトリエ前の屋根の軒下に雨樋をつけたが(*)、あれは既製品だった。
雨樋は、ぼくが造形的にもっとも関心を持つもののひとつだ。いつか雨樋をテーマに展覧会をしてみたい。
資材を置く床面も廃材でつくる。残った孟宗竹が大活躍。
廃材でできた「半小屋」に廃材がすっきり納まり、アトリエ前の作業スペースが回復した。
]]>
12月3日(日)に、協力していた地球研の展覧会を撤収し、8月以来続いていた仕事の嵐が一段落した。
技術指導をしていた京大地球環境学堂のブラジル人留学生August Oyama君のJICA横浜での展覧会も無事オープンしたようだ。
フライヤーにぼくの名前が載っていて、驚いた。
彼がSymbolic elementsと呼ぶ鳥居型オブジェなどをつくるための材料と道具、技術を提供したからだろう。
アウグスト君は、この企画をブラジルの仲間と進めていて、海外からも参加可能なよう、展示空間をヴァーチャル・ツアーできるようにしている。
移民街であるリベルダージと東九条には似たところがあるから、来年、Taroハウスかノランナランでプレゼンしないかと提案したら、それはぜひやりたいと返事が返ってきた。
移民に伴う人権や文化変容の問題は、京芸の建物内に移転してきた世人研の研究テーマにもつながる。鴨川の氾濫原に移転してきたTerraceとしての京芸の課題ともつながる。
もっとも年配の職員が数人いるだけの世人研に、こうした若い世代の活動に対応する企画力や機動力はなさそうに思える。
京芸自身にもこうした問題に取り組むアーティストやデザイナー、研究者が出てくればとも思うが、今すぐは無理だろう。
]]>
|||||||||||||||||||||
11月25日(土)
六条村跡のリサーチ。
柳原銀行記念資料館の山内政夫先生から、六条村の入口にあたる吾妻橋付近の西岸を六条村記念公園にする案の下絵を描いてほしいと頼まれていたが、地球研の展覧会協力のために時間がなくなった。展覧会がオープンした翌日、久しぶりに六条村跡へリサーチに行く。
なんと、六条村跡の南側を流れていた高瀬川の旧流路が埋め立てられている。
ここは2015年のstill movingでの"Tracing Suujin"に際し、「高瀬川を曲げ戻す」と題したパフォーマンス/ワークショップをやった場所だ。
「高瀬川を曲げ戻す」2015/4/4 旧流路に高瀬川の水を流す
2015年1月当時の高瀬川。今は六条村跡とされる地にはまだ家が建っていた。洗い場もきれいに残っている。二つの勝手橋が見える。
2023年11月25日現在の同じ場所。
今、六条村跡から住居はすべて消えて金網で囲われた空き地となり、道だけが残っている。
高瀬川にかかる吾妻橋を渡ったところ。金網の向こうが六条村跡。
山内さんが六条村記念公園の候補地と考えている場所。二つの私設の勝手橋が残っている。
ここからは京芸の建物もよく見える。ということは京芸からも六条村跡が見えるということ。
六条村を知る人は学内にはまれだろうが。
||||||||||||||||||
11月27日(月)19:30 崇仁高瀬川保勝会の会合(下京区いきいきセンター)。
七条通りから南の船鉾橋までの高瀬川改修工事について、市の河川整備課から説明を受ける。
河川整備課から配られた護岸工事計画書。
なんと吾妻橋とその向こうの土地は、河川整備課の担当ではなく、住宅室の担当で、遊歩道の計画があるとか。それで肝心の場所の大半は、工事の未定場所を示す緑の線で囲まれている。
またムダになったなと思いながら、促されたので、とりあえず六条村跡記念公園案を説明する。
「江戸時代(宝永年間)からの高瀬川沿いの村の道筋がくっきりと残る六条村跡のエリアは、京都だけでなく日本の都市史の面でも部落史の面でもきわめて珍しく貴重である。このエリアを歴史文化的遺構として保存・整備・活用することを提案する。
まずは、六条村の入口にもあたる護岸整備の進む高瀬川隣接地を、地域の歴史にふれるミニ公園として整備することを、将来の六条村歴史公園の第1段と位置づける。」
■六条村と崇仁地域の歴史メモ
1663 五条橋南の鴨川と高瀬川のあいだの六条河原に建家が許される。
*『諸式留帳』(六条村年寄嘉兵衛著、1634 〜 1740 年、京都大学蔵) による。
1707 六条村、妙法院から七条通南側・高瀬川北岸の地に替え地を命じられる。
移転料500 貫、土地の広さは倍になったが、水がつきやすいので3 尺地上げ。
1714 六条村が六条河原から天部村の畑地(柳原庄内小稲荷七条通御土居南東) の隣に移転。
非人小屋(水車小屋) も六条河原から同地に移転。
六条村に入る高瀬川の橋のたもとには角倉の会所があった。当時六条村は、高瀬川に囲まれた「水辺に浮ぶ空間」として高瀬舟が行き交う都の入口だった。
1732 六条村の人口増に対処するため、南にあった銭座跡に新村開発(銭座跡村) 。
1843 六条村の西にあった天部村の畑地に宅地開発、大西組と称される。
1873 六条村・銭座跡村・大西組の3 村が新柳原庄を形成。西光寺内に柳原小学校(のちの崇仁小学校)開校。
1870 高瀬舟、物資輸送以外に旅船としても利用される(〜 1910) 。
1877 七条停車場に初代京都駅完成、京都̶神戸間鉄道開通。
1899 明石民蔵ら、地域の経済基盤や教育を育成・支援するため、柳原銀行設立。
---------
計画案をつくってみたものの、自分でも凡庸なアイデアだなと思う。
しかし、高瀬川の横の小さな空き地ではなく、六条村跡自体を歴史公園化するのにいいアイデアが浮かんだ。
六条村跡歴史公園は、「音」を主役とする。
・残る道と道をたどる人の想像力そのものを主体とし、周りは緑地として、特定の建物や遊具、彫刻などの物体的作品はいっさい置かない。都市の中の「機能する空虚 void」として六条村跡を保存する。
・道の材質、緑地の植物に工夫する。
・踏み込んで道を歩くと聞こえる「音」、サウンドアートを配する。そのための設備を埋設する。コンテンツは定期的に変える。国内外からアーティストを招聘する。
・六条村の歴史的情報はインターネット上に配し、公園を訪れた者はスマホなどから自由にアクセスする。
「音」は水をモチーフにした音響的なものでもいいし、六条河原から六条村への集団移住をテーマにしたオーディオ・ドラマなども考えられる。六条村跡のvoid(空虚)は、多様な表現を受け入れるよき器になるだろう。
このプランは、京芸移転を機に、崇仁エリアの歴史的記憶をアートを通して公共空間化するものだ。
だが、実現可能性はきわめて乏しい気がする。
]]>
いつも思うが、徳正寺の文化人ネットワークはすごい。
美術関係は少なかったが、故・元永定正先生夫人の中辻悦子先生、BBプラザ美術館の坂上義太郎さんが来られており、秋野不矩先生が日本画を越えて具体など現代美術の世界ともつながっておられたことが偲ばれる。挨拶に立つ人々の思い出話に京芸の教授でもあった故・宇佐美圭司の名が頻出したのは、宇佐美さんの福井のアトリエを秋野等さんが大工仕事でつくったせいでもあったと知った。
徳正寺は赤瀬川原平や藤森照信ら路上観察学会の京都での拠点だったので、林丈二さんも来られていた。ほかにも後継者の住職・井上迅さんやパートナーのメリーゴーランドの鈴木潤さんの関係で、絵本や出版関係で名前を聞いたことのある人が次々と挨拶に立つ。アウンサンスーチーとも親しい人がいて、驚く。NHKによく登場する歴史学者の顔もあった。
ぼくは実際には見ていないが、徳正寺はかつて京都の文化サロンだった。世代も交代して、新しいネットワークを広げつつあるのだろう。
等さんが詩を書いた絵屏風が飾られていた。
この日は上らなかったが、矩庵の煎茶道具は秋野等さんの手づくりと見立て。
微妙にカーブのついた矩庵の窓。藤森照信さんの設計ではなく、秋野等さんの提案と実行による。ステンドグラスも等さんの手づくり。
秋野等さんは、身の回りのものを何でも手づくりされた。つちのいえを始めたとき、小清水漸先生が「井上さんに会わせたい人がいる」と言って紹介下さったのが等さんだった。
以来、何度も矩庵を訪れた(*2008年11月28日 *2011年12月23日 *2015年1月18日)。藤森照信先生の茶会に招待いただいたこともある。
帰るとき、彰子さんにご挨拶すると、「最近顔見ないから呼んだの」と言われ、恐縮してしまった。
]]>
午前中、地球研の展覧会の展示の続き。
ぼくは写真や資料の印刷が深夜までかかり、寝坊して10時半すぎに到着。地球研の担当者に紹介されたりしているうちにさらに時間をつぶし、昼休み中も保勝会のコーナーの展示にかかりきりになったが、なんとか13時からの公開にまにあった。
美術展ではないので、自分の中になめている側面があるのは否めない。美術に携わらない人は、一般に展覧会と展示会の区別がない。今回のは展覧会ではなく展示会。地球研のは研究内容や情報を伝える学会のポスター展示と変わらない。そんななかでキュレーターの役目を急にあてがわれたらしい京都芸術センターの山本麻友美さんが、田中奈津子とGrafis Huru Haraの魚拓版画や映像を展示に加えたり、カラウォの衣装の試着コーナーを設けたりして、アートの実体験的側面を加味する努力をしている。ぼくの竹製ハンガーラックが多少の物質感でそれに少しでも貢献していたらいいのだが。
カラウォ刺繍に関わるSRIREPプロジェクトのポスター展示が奥の壁に、モニターからは田中奈津子とGrafis Huru Haraの版画ワークショップの模様が流れる。以前、Gallery Parcで展示とオンライン・ディスカッションをしていて(*)、それを見たことがある。吊るされた田中奈津子の絵は既製品の布に描かれていて、裏からも見れる。
下段に魚拓、中段に海のゴミを子供たちが魚のかたちにコラージュした版の原板、上にそれを刷った版画。
子供たちの好奇心と環境問題を巻き込む魚拓の技法の展開が面白い。
座卓のような低いテーブルに赤い敷物を敷いて、持ち帰り自由な地球研の冊子を並べる。ディスカッションなどするのだろうか。
竹製ハンガーラックは、結局横のバーをとめなかった。服の重みも加わって十分がっしりしている。
うしろに試着コーナー。姿見もある。服は原価は数千円、売価は数万円とか。零細小規模金採掘(ASGM)による水銀汚染に困窮する現地の女性たちの経済支援をめざしている。
崇仁高瀬川保勝会の活動紹介のコーナー。地球研や田中奈津子らの取組みの内容に沿って、保勝会の高瀬川での活動、川の生きもの調査や子供たちのお絵描きワークショップに重心を置いた。
テーブルに置いたファイルを見たら、保勝会の活動の流れがわかるようにしたが、見る人は少ないと思う。
2019〜2020年の高瀬川地域博物館構想のパネル原稿を小さめに出力。
最初、企画書に載っていた崇仁高瀬川保勝会の説明が変だったので、チラシでは次のように改めてもらった。
2017年4月設立。崇仁地区を流れる高瀬川を生命あふれる美しい川にしようと、毎月第1土曜日に川掃除と交流会を行っています。また高瀬川の上に「崇仁テラス」を季節に応じて設置し、人と自然の交流スペースをつくるほか、子供たちの生きもの調査やさまざまな芸術活動、高瀬川周辺の歴史研究を通じて、自然と歴史とアートが交わり、ホタルが飛び交う川づくり=まちづくりをめざしています。
多岐にわたる保勝会の活動内容を伝えるホームページが結局用意できなかった。
京芸の移転が完了したので、今後、高瀬川や保勝会の活動に関心を持つ教員や学生も増えるだろうから、最小限何か用意しなくては。
だがぼくが保勝会に関わっているのは、Terraceという京芸の移転基本コンセプトをつくった人間としての地域への責任からにすぎない。当事者ではなく、あくまで他所者で協力者的立場なので、保勝会にはデザインなどの技術的側面でのみ関わるにとどめたい。まあ、技術屋というのは、自分の技術が人に喜ばれるとうれしいという単純な側面があり、頼まれたら動いてしまうのだが。
地球研主催の今回の三つの展示内容はどうやって決まったのか。なぜ崇仁高瀬川保勝会が協賛になったのか。また京都市立芸術大学A棟7階「学外連携・政策連携スペース」とは何なのか。京都市アート×SDGs共創推進チームとは何なのか。「政策」の語が示すように、すべてが怪しい。
よくわからないまま業者的に巻き込まれたが、そのせいで、ちょうど川の中から地上の人々を見上げるように、文化政策の役人や政治家、研究者の動きを観察させてもらった。ぼくは河原者である。陸の上の人々は向こう岸にいる。
だが地球研にはさまざまな人が関わっているらしく、SRIREPプロジェクトの榊原正幸先生はもとは愛媛大の地質学の教授。
淀川でゴミ拾いをするチームもあるらしい。
ちょうどこの展覧会初日(11/24日)、頼まれてデザインした世人研の案内板が届いた。破格でできた。
これで仮設でつくった案内板も用済み。
展覧会のピンクのチラシを保勝会の拠点になっている柳原銀行記念資料館に届けに行った帰り、ふと神々しい光景に出会った。
柳原銀行もだが、柳地蔵がこの地に残されて本当によかったと思う。
この光景を見た京芸の人間はどれくらいいるだろうか。彼らはどういう地域に来たのかをあらためて考えるだろうか。
なぜ「terrace」なのかがいつのまにか蒸発しているように思えてならない。
]]>
19 novembre 2023, dimanche
18時、マロニエのグループ展 "Looking for Blue 5" の搬出。
他の人は平面の作品を持ち帰るだけだが、ぼくは壁を分解して持ち帰る仕事もある。だが30分もかからない。
むしろ車を近くのTimesではなく、御池の市営駐車場に留めたので、そこから車を回す方に時間をとられた。
忙しくて会場に行けないことも理由だが、他の半分以上の出品者とほとんど交流がなかった。このタイプのグループ展は初めてだ。何か普通の美術家になってしまったような気分。企画者が作家である吉田佐和子さんと室田泉さんでなければたぶん参加していない。
||||||||||||||||||||||||||||||||
20 novembre 2023, lundi
地球研主催の展覧会への協力のため、カラウォ刺繍の衣装をかけるハンガーラックを竹でつくることになった。
久しぶりに大原野の畑さんの竹林に行くと、道に車が留めてあって、向いの大きな倉庫の扉が開いている。
たずねると、藤森工務店というところの倉庫で、片づけに来ていると。
で、向いの畑さんの竹林の竹をもらいに来たというと、うちにもじゃまな竹林があるから取っていいと言われる。
畑さんのところとちがって淡竹と真竹の竹林。展示用のハンガーラックには細くてきれいな方がいいので、ありがたく頂戴した。
巨大な倉庫は傷みも目立つが、建材や使わなくなった道具類がどっさりある。社長が亡くなり、工務店をたたむので片づけに来ていると言うが、大量のモノを残される遺族の方もたいへんだ。自分も気をつけよう。
思わぬ出会いで、いい竹が入手できた。今までもっぱら孟宗竹ばかり使っていたが、淡竹が使えるのはありがたい。だがハンガーラックを組み立てるには太めのもあった方がいいと思い、畑さんの竹林で太い孟宗竹も一本いただく。
||||||||||||||||||||||||||||||||
21 novembre 2023, mardi
竹のハンガーラックをつくってみる。
脚はふつうなら3本のトリポッドに組むだろうが、孟宗竹を利用して、2本足で行くことにする。
孟宗竹を靴状にして(長さ50cm)、淡竹を差し込むように立てる。脚と靴のあいだにすき間ができたら、竹を割ってクサビにして打ち込む。そうするとシュロ縄で仮留めするだけでもガッシリした。これだと移動や高さ・長さの調節も楽にできる。主題になっているインドネシアにこういう竹製ハンガーラックがあるかどうか知らないが。
キュレーターの山本麻友美さんに写真を送ったら、これでいいというので構造は決まり。だが、かける衣装の大きさや量がわからない。
||||||||||||||||||||||||||||||||
22 novembre 2023, mercredi
地球研の展覧会「人間と文化から地球環境問題を考える」展は、崇仁高瀬川保勝会もなぜか協賛になっている。保勝会は設立当初から何かと協力しているので、今回も保勝会の展示を頼まれた。
保勝会のコーナーは、壁を仮設することと、資料展示用のテーブルとベンチを用意してコンパクトにまとめる。テーブルは芸大から持ち帰っていた廃材を利用してつくった。
脚はデザイン科の小屋の壁に使われていた9mmの構造用合板を切って直角に組み合わせる。天板はこれもたぶんデザイン科の廃材の厚板。載せるだけなので、組立ても分解も時間がかからない。
仮設壁の大きさは現場で決めることにし、マロニエのグループ展でも使ったパネル材を多めに持っていく。
竹を含めて、車一台に収まった。
搬入は17時から。
キュレーターの山本麻友美さんは芸術センターから二人のインストーラーを連れてきていた。
ぼくは一人。いつものことだ。
全体の展示の進行を見て、保勝会のコーナーの設営場所とスケールを決める。
チラシが貼られていた図書室の窓を全面隠すようにパネルは3枚。これは先月同じこの会場で、狩野永徳の「雲龍図」を飾る床の間の材料にしたもの。毎月、同じ廃材を同じ場所で使う、というところが気に入っている。ベンチもつちのいえの廃材製。
テーブルも天板を載せただけなのにがっしりしている。
マロニエのときと同じように三角に組む。こちらのパネルは白く塗装してないが、テーブルやベンチの素材感とつながるので、このままいく。手の抜き方がわかってきた。
竹製ハンガーラックは、山本さんに言われていたサイズより大きめのものが組めるよう持っていったが、スケールはピッタリだった。
ぼくが持っていった脚立が田中奈津子の絵を吊るすのに役立った。
翌日23日は休日で会場に入れない。
自宅で保勝会の活動紹介のための資料と写真を決めてプリントする。こちらの方が頭と時間を費やす。
映像も出そうと考えていた。一つは東京都美術館での「複数形の世界のはじまりに」展のときに出した《パラ河》。あれは高瀬川のクサガメが主人公。それにこの「複数・・・」展は、崇仁テラスを上野に平行移動して空間構成を決めたからでもある。もう一つの映像は今年5月の崇仁テラスでの演奏会のもよう。
だが、地球研の展示が主役のこの展覧会にそれほど力を入れる必要はないと判断し、映像は取りやめにする。
]]>
朝9時、東九条マンモス団地跡へ。昨年に引き続いて、「東九条空の下写真展」の展示を手伝う。
横の高瀬川の護岸整備工事。両岸の石積みの後ろをコンクリートで補強し、石を積み直す。川底には防水シートを張り、上に砂の層をつくる。
護岸工事だけなら河川整備課の担当だが、須原通りの道路も直すので、建設局住宅室の担当になっているそうだ(→京都市組織図)。
もっとも実際の作業は市の職員ではなく、業者、ここでは昭和建設が行う。
護岸の構造がよくわかり、興味深い。
護岸のあぶないところに補強柱を立てている。「支えるもの」の造形はいつも面白い。「傾斜」の宝庫でもある。
仕上がったとき、ここはどう見えるようになるのか?
この日はカソリック希望の家の叶信治先生によるガイドツアーがあり、なんとか追いついた。(マダンセンターの前で)
近くの京都市地域・多文化交流ネットワークサロンで、「東九条芸術祭 ―京都市立芸術大学移転歓迎―」(監修:伊藤存)というイベントが開かれていて、知っている学生が何人か参加している。これは伊藤きく代(油M2)と橘葉月(油M1)。
松田唯(日本画M1)。油画専攻だけでないのがいい。
京都駅まで狭い路地を行く。ここは高瀬川跡か?
付近では前あった民家が壊され、あちこちでビルが建設中。
その後、大阪・谷六の+1 artに年末のチャリティー展のための小品を届ける。
]]>
13時、総合基礎アーカイブ引継ぎのためのミーティングに呼ばれて、京芸の芸術資源研究センター(C地区C棟3階)へ。
情報技術者の藤岡洋先生がバックボーンについて下さり、もと総基礎非常勤だった若手作家の黒川岳、平田万葉の努力もあって、総基礎アーカイブが化けつつある。
データにタグを自由に紐付けできる「
退任前、総合基礎アーカイブの専従教員がいなくなっても存続できるマニュアルづくりと、これまでのデジタルデータの修正に一人で取り組んでいた2019〜20年は、正直、暗い未来しか思い浮かばなかった。
5階にアーカイブの広い作業ルームが設けられていて、年度毎に原資料がまとめられた箱がずらりと並んでいる。
総基礎アーカイブをクリエイティブな課題が山積する芸術資源として将来的に活用していく体制ができつつある。何かむくわれた気がする。Kyoto Creative Assemblageも、総基礎アーカイブに多いに恩恵を被っていると平田万葉さんから聞いた。
姿を現わすのはいつだろう? 来年?
アーカイブの作業ルームからは芸大図書館が見下ろせる。
・ ・ ・
15 nov 2023, mercredi
ホホホ座浄土寺店の山下さんから、また『つちのいえ2009-2021』10冊の注文が入ったので届ける。
これでホホホ座に卸すのは計40冊。残部14冊になったので、そろそろ打ち止めか。
「お客さんが待っている」と急かされたので、どんな人ですか?と聞いたら、本の通販業者さんとか。
本の流通の世界はやっぱりわからない。
自費出版の場合、ISBNをとったり、価格を記載したりしない人が多いが、価格はせめて記した方がいいとアドバイスもらう。
---
13:30 京芸A棟7階で京都芸術センター副館長の山本麻友美さんと待ち合わせ。
地球研が同スペースで行う展覧会のキュレーションを山本さんがするそうなのだが、その展覧会にいつのまにか崇仁高瀬川保勝会も協賛して参加することになっている。以前に保勝会会長の山内さんと世人研の淀野さんから、展示協力をちらと依頼されたことがあるが、詳細は聞いていなかった。とりあえず、話を聞いて協力することにした(後日に知った展覧会開催の仕組みについては別記)。
話の後、気になっているTerraceBの総基礎の教室を見に行く。
部屋を4つに区切る壁がないではないか。
ずいぶん前だが(2015年)、移転後の総基礎教室の基本構想案をつくったことがある。
それは、総基礎は天井高を二層分とし、今と同じA, B, C, Dの4教室からなり、壁をとれば一つの空間になり、教員の研究室は上に配するというものだった。
財政難で予算が削られていろいろ変更があったと聞いたが、今の構造だと、4教室にするには自立壁を立てるしかない。だが天井が高いから音は漏れ、授業がしにくいだろうと思う。
その後、長谷川直人先生に連絡して、terrace-A地区の陶磁器専攻を訪ねる。
陶磁器の作業室はワンルームの合同教室になっている。
重松あゆみ先生もいて、研究室に案内してもらった。
東向きの研究室。重松先生は今年度で退任するため、部屋はさっぱりしている。
窓の外のテラスからは東山が見える。以前の京芸の今熊野校舎はまだ一部残っていて、それがここから見えるらしい。
球技ができない運動場。ボールがJRの線路に入ったらえらいことになるためだ。
陶磁器と彫刻専攻のある建物から漆工専攻が入った建物を眺める。
ぜいたくなことに、高瀬川がキャンパス内を流れる。
南側を見ると、手前のJRと向こうの新幹線の高架のあいだに、ぼくが作った崇仁高瀬川保勝会の物置と資材置場が見える。
同じ場所にあった崇仁第二浴場がこの3月に閉鎖した。いつか銭湯が再建できたら最高なのだが。
<Terrace>の構想は、東京方面から新幹線で京都に近づくと、ふわりと京芸のキャンパスが浮いて見える、というイメージに由来する部分もある。
教員の研究室は、専攻の教室にはり付いているのではなく、分散配置されている。専攻を越えた交流をはかるためらしい。
小山田徹先生の研究室は、漆工専攻のある建物の一階西端にあり、総務課から問題視されたという小屋が前につくられていた。
鷹揚な沓掛キャンパスとちがって、都会型キャンパスはとても管理がきびしいらしい。
]]>
11月6日(月)
ギャラリー・マロニエのサイアノタイプ・グループ展 "Looking for Blue 5" のために、この週(11/5〜11)は制作に集中。
感光剤をいつでも塗布できるように、アトリエにインスタント暗室を廃材でつくる。
感光剤は、夏のワークショップで室田泉さんから提供されたクエン酸アンモニウム鉄III(水100gに対して20g)とフェリシアン化カリウム(水100gに対して10g)をまぜてつくる。
今回は文字を焼き込む実験。
文字は、20年前の椎原保さんとのコラボレーション展(『水景 Water/Scape』2002年、O Gallery Eyes)のときにつくった大正期の和訳本『芸術鑑賞論』のスキャンデータから採る。
原著は、スペイン出身のアメリカの哲学者 George Santayanaの"Reason in Art"。
サンタヤーナの芸術論に何の関心もないが、西洋的教養の普及に熱心な英文学者の和訳の生硬さと、等間隔に文字を打った活版印刷の紙面に興味を覚えて購入した大正期の古書だ。『水景』展では、全ページスキャンして正方形に組み直し、かな文字や句読点を抜いて漢字だけにしたものをプリントしてアーティスト・ブックをつくり、インスタレーションに組み込んだ。
2012年のVoice Galleryの「夾竹桃の村」展では、《Maison-Arche》の内壁に貼り巡らした。
今度で使うのは3回目。
ページの選択は直感的。文脈から抜き取られた単語は、読む人のなかで勝手に結びついて、意味を胎動させる。このページに瞥見される「世界」「混沌」や「暗黒」「最大不幸」「結局無力」「悪影響」等々は、フラフラと連鎖離散して、今の世界情勢をどこか示唆する。だが原文はそうした意味合いとは何の関係もない。むしろ芸術の困難さを論じたものだ。
文字を使うという発想は、もともと自分のサインであるA.I.を絵づくりの大きな要素にしようということから生まれた。
"AI芸術"を皮肉るという目論見もあった。だが、アイデアは面白くても、そういう目的論的な作品制作は面白くない。
で、"A.I."を前景にすることはやめた。
最初うまく焼けなかったので、感光剤の調合にミスがあったかなと思い、田中直染料店で再購入しようと電話したがつながらない。
結局また室田泉さんに分けていただいた。が、まもなく元の薬剤で問題なく現像できるようになった。
うまく焼けるようになったので、そうでないものも作品化できる。
これは塗りつぶした絵にグリッド状に感光剤を塗って露光。
サイアノタイプでもっとも興味深いのは、光は万物を差別しないということ。
光にとっては、成功も失敗も、良いも悪いも、美も醜も、人間的な価値など関係ない。
筆跡も図形も文字もレモンも草も、秋の斜めの光のなかで意味も価値も剥ぎ取られて等しく影になる。
作品タイトルも「芸術鑑賞論○○」とすることにした。
11月10日(金)
Taroハウスから、天井板の廃材を回収して「額縁」制作。
今回は紙を板にボンドで貼り付けた。前回は両面テープだけだったが、ボンドと併用することで、紙と板をしっかり密着できる。
より自由な「額縁」の作り方も開発した。
11月11日(土)
マロニエの5階はコンクリ壁で、壁の展示に制約があるので、独自に壁をつくることを考える。
世人研の開所式のためにつくった床の間風展示装置のパネルを再利用するのだ。このパネルも室田さんにもらった廃材。
室田さん・吉田佐和子さんが企画するグループ展で、会場構成も二人にまかせているので、誰がどこにどう展示するかもわからない。なので、壁を立てても移動しやすく、また壁なしでもいいように準備しておく。
三角形に組んで壁に沿わせるやり方を思いつく。これなら組み立ても5〜10分ほどでできる。脚をつけて2m近くまで高くすることを含めても20分以内で組める。運搬も一回で済む。
11月12日(日)搬入。
室田さんが壁建てで行くことを許可して下さった。
あてがわれたのは以外な場所で、電気配線等のため、壁に沿わせることができない。自立型で行くしかないが、補強材を忘れた。
画廊から角材を借りて補強。
キャプションは個別につけるとうるさいので、まとめて紙一枚にプリントしてもらう。作品には壁に直接番号を書いた。
11月14日(火)から19日(日)までの、たった一週間のグループ展。
今年はマロニエで個展1回、グループ展2回、マロニエ市に1回、計4回も展示した。
]]>
世人研の案内板のデザインや、アウグスト君の技術指導の合間をぬって、+1artでの恒例の年末チャリティ・オークション展のための小品制作。今年のテーマは「音楽」。
ボード紙の印刷物を適当に4つに切り、それを下地に絵を描いてランダムに組み合わせる。
「同一性をもった統一的実体」としての「作品」からの逃走を小さな箱のなかで企てる。
バチを手づくりして差し込む。長さは箱の対角線。傾斜の強いモチーフが入った。ほかにも差し込める箇所がある。
バチで叩くと4枚のボードはそれぞれ異なる音がする。打楽器にも使える。
最初はタイトルを『Quartet 4重奏』にしようと思ったが、思い直して"CLINAMEN"とした。
クリナメンの概念は、「存在の一切無根拠」につながる。
求められた作品コメントにはこう記した。
「世界は響きであると思う。光であれ、音であれ、すべては波であり、見えるものも聞こえるものもすべては響きという相互作用の賜物だ。一定の時空のなかに響きの要素を配することを com-position というが、それは作曲であり造形でもある。自分の今の関心は、コンポジションを一つの意図で満たさないこと、無関係な要素の偶々の邂逅と不確定な偏奇(クリナメン)にある。響きは一つではない。本作は楽器でもある。/198字」
外に出ると、傾斜現象が走っていた。
この日(11月5日)、長岡京でガラシャ・ロードレースという市民マラソン大会があった。
コースの途中にある自宅は坂に建っているので、傾斜現象は頻発する。
後日(11/8)、太鼓山通りの坂道の下で、すばらしい傾斜現象に出会った。
サイアノタイプでは、この斜光と対話することになる。
エピクロスの「クリナメン Clinamen」の概念を知ったのは、ルイ・アルチュセールの"matérialisme aléatoire(偶然の唯物論)"を通してだ。
前にもゲルハルト・リヒターの作品に関して引用したが(*)、再度引用しておく。
「世界の形成以前には、無数の数のアトムが平行して空虚のなかを落下しています。この主張の含蓄は豊かなものです。(1)世界が存在する前には、形式を与えられたものはまったく存在しない。そして同時に(2)世界のあらゆる要素は、世界が存在する以前には、永遠に孤立してすでに実在していた。…つまり、世界が形成される前には、どんな意味も実在しなかったし、原因も目的も理性も非理性も存在しなかったのです。それは、理性的、道徳的、政治的、美学的な、あらゆる目的論を否定するのです。さらに付け加えれば、この唯物論は、主体(神であれプロレタリアートであれ)の唯物論ではなくて、目的(終わり)をもたない発展を導く主体なき過程の唯物論なのです。」
「このあとで、クリナメンclinamenが出現します。クリナメン(偏倚)とは、どこでもいつでもどうにでも生じる無限に小さい偏向です。重要なことは、クリナメンが真空落下の中で原子の逸脱を引き起こし、隣の原子との出会いを引き起こすことです。そして出会いが束の間のものではなく持続するその都度に、またいたるところで、出会いが出会いを重ねることから世界が生まれるのです。」
「エピクロスが言っていることは、理性とか第一原因とかではなく、偶然の偏向こそが世界の起源になるということです。けれどもここが肝心なところですが、出会いは世界の現実性を創造するのではなくて、原子自体に現実性を与えるのです。原子は、偏向や出会いがなければ、確実さも実在性もない抽象的な元素でしかないからです。」
------------ルイ・アルチュセール『哲学について』(今村仁司訳)
モノやコトの生成が「クリナメン」という微細な偶然の傾きを通してであるなら、作品制作もクリナメンを通してでありえよう。
]]>
11/14日からのマロニエでのサイアノタイプ展が迫っている。
モチーフになるレモンと柿を入手するため、大枝へ。
柿は大藪さんのところで購入。レモンは京芸南門の脇で採取。
まだ黄色くないが、たわわに実るレモンの木。レモンの木を植えたのは日本画専攻?
人間が去った京芸の沓掛キャンパスが無償の自然資源の場になるのは好ましいことだ。
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||
3 novembre 2023, mercredi
第31回東九条マダン2023(もと山王小学校校庭)。今年は飲食も可能になったので、来場者は去年よりずっと多い。
会場脇に東九条空の下写真展も一部お披露目されていた。
移転してきたので、京芸関係者も多く来ていた。
アウグスト君に横浜JICAでの展示物のための土と竹、道具を手渡すため、彼もマダン会場に呼び出す。
彼がつくりたい土と竹のオブジェ(彼は「象徴的要素」と呼び、リベルダージ展に展示する)のプランを送ってもらった。
*日系移民が多く住むリベルダージ地区についてはさまざまな記事がネット上にある。→*
鳥居のかたちや、アドべの配置は、それぞれ日系人とアフリカ系移民の暮らしを象徴するものだという。だが、形とスケールに必然性が感じられず、チンケだ。新幹線で材料を運ぶという制約、JICA側の要請のためもあるらしい。
だがぼくは別に彼の指導教官ではないから、内容には口出しせず、とにかく彼がそれらを自分でつくるために必要な材料と道具を渡すだけにする。しかし、渡したとしても、彼につくる技術があるのかどうかがわからない。それに、彼が属する京大の地球環境学堂人間環境設計論分野にモノをつくるための制作スペースがあるかどうかもわからない。ウェブサイトを見ても、京大の教官らは設計や調査はできても、実際に材料を扱う豊富な制作経験をお持ちとは思えない。
時間をつぶしているだけの気もしてきたので、アウグスト君にマニュアルにもなる『つちのいえ2009-2023』を進呈し、土ブロックの作り方を現場指導して、あとは放り出すことにした。
作業には崇仁高瀬川保勝会の資材置場を使う。
七条大橋をきれいにする会の廃材で作った型枠に、つちのいえの前身『峠の茶屋』に使った土、ワラを捏ねたものを入れて叩いて土ブロックをつくる。壁土にも使えるもので、乾いたらドリル等で穴を開けて竹を挿すこともできると伝える。
思えば、高速道路で壊された大枝の竹林の土が巡り巡って、サンパウロの移民地区の歴史と現在を伝える展覧会に使われるというのは奇遇かつ意味深だ。
からだの動かし方、道具の持ち方、インパクトドライバーの使い方を見ていて、アウグスト君がものづくりに慣れてないことがわかる。総基礎を通過した京芸の女子学生の方が上手だ。本当に建築専攻なのか。もう目をつむる。
彼は京大近くに住んでいるが、「材料や道具をどうやって持って帰る?」と聞くと、「タクシーで」という。
2m以上の竹もあるので、それは無理。しかたないので、彼のアパートまで車で運んでやる。
アウグスト君に貸し出したもの一覧。超サービスだ。
とはいえ、彼が仲間たちといっしょにやる横浜JICAでの展覧会は有意義で興味深い。協力せざるをえない。
日本とブラジルは縁が深いが、ぼくはこれまでノータッチだった。
日本在住外国人のうちブラジル人は約20万人で、国別では5位(*)。
アウグスト君には、横浜展のあと、東九条や神戸でもやることを勧めている。
]]>
佃七緒と熊田悠夢の二人展を見に、近鉄特急で奈良の明日香へ。
二人とももとつちのいえの参加者で、二人から案内をもらったので、行かざるをえない。
会場は地元の元議員?の大きな古民家。
明日香は起伏に富んだ地形が面白いが、この民家の窓の外すぐにも神社に通じる坂道の斜面が迫っている。
二人の作品は旧作(佃のは修了制作作品)が中心だが、民家のなかに残っていた収納用の箱や椅子などを使いながら、面白く展示している。
二人とも明日香での展示や活動経験があり、作品の配置も地域の展望台の案内板にもとづいて放射状に展示している(一見しただけではわからないが)。作品の置き方は子供たちとのワークショップをヒントにしたらしい。要するに思惑を超えた偶発性から生まれるものを大事にしていて、フィールドワークで見つけた事象と作品のあいだのつながりを手づくりの冊子にまとめている。この冊子も展覧会の単なる付録物ではない独立した観光メディアたらんとしている(2500円)。
「美術ー展覧会=0」という展覧会美術に批判的で、かつ美術を消費するだけのアートイベントに行く気もないが、かつて展覧会に出した旧作を別な場所や風景と結びつけて新しい可能性を引き出すことを、自然体で楽しくやっている彼女らの姿を見て、自分は頑なだったな、時代は変わったなと思う。作品が自己完結せず、生活や風景、歴史や自然など、他なるものと地続きになって新しい関係をつくるのがこれからの美術だ。その考えを共有できるのは、いっしょにつちのいえをやったからだろうか。もっとも彼女らはまだ少数派で、世の中は今も集客重視の地域アートイベントと仲間内の展覧会美術が支配的だ。
会場は飛鳥駅の西側で、岩屋山古墳や牽牛子塚古墳が近くにある。明日香に来たのは小学生以来かなと思いながら、話題の牽牛子塚古墳にも行って見た。
八角形なら頂点の2辺の角度が135°。八角墳を探すのに隅の角度を調査するのだという。
墳丘は保護のため、凝灰岩の切石で覆われているが、規則的に四角く切って張り合わせていて、白華現象のような白い汚れもあるのでコンクリートに見える。墳丘は初期は厚さ20cmの凝灰岩の切石で覆われていたそうだが、現在のは厚さ3cmのを2500枚とか。
古墳のかたちにさほど関心はないが、八角墳は古墳時代(3C半ば〜7C)の最終段階で近畿では5基、そのうち3つが明日香村にあるそうだ。牽牛子塚古墳の玄室は2部屋あって、二上山から運んだ大きな凝灰岩でできている。JRの東側にある有名な石舞台の天井石は南側の方が77トン。遠くから大きな岩を人々に運ばせ、職人に飾り物をつくらせて権力を誇示する天皇家や豪族どもがきらいだ。だから考古学ファンにはなれない。
高松塚やキトラ古墳など、明日香は観光名所だらけだが、時間がないので、バスで石舞台まで行き、そこから駅まで歩いて帰った。
石の使い方がずっとかわいい。
柿が異常に実っていて、関心していると、この木の向いのおばあさんからたくさん柿をもらって、荷物が重くなった。
廃れたものが好きだ。モノが人間から自由になって、美しいからだ。大きな廃墟だなと思ったら、明日香村役場の施設だった。
川原寺跡というのが気になり、行って見た。夕方5時で閉まる直前だった。相当大きな寺だったらしい。
撮影は許可されなかったが、現本堂の本尊十一面観音の両脇に重文の持国天像と多聞天像があった。
頭が小さくフォルムが少し様式化された姿形で平安初期のもの。弘法大師作とうたっているが、それはちがうだろう。仏師に彫らせたものを簡単に「作」と言わないでほしい。
夕闇迫るなか、亀石にも立ち寄る。
亀石伝説のなかに、「大和盆地が湖だった頃」という記述があり、亀は今南西を向いているが、西向きになると、奈良盆地が泥沼と化すという。
2014年に奈良の地形をテーマに奈良で展覧会をしたことがある(na ra:水と地のあいだ—井上明彦・岡田一郎・田中朝子・二瓶晃—(コラボレーション、Galerie Cinq)。
あのとき、リサーチで二つの面白いことを知った。一つは、奈良時代以前は日本語がまだ定まっていないから、地名は音が先で文字は当て字ということ。いっぱい当て字がある「ナラ」のナは地面を平らに「均す」という意味のツングース語起源とか。それで「あすか」も明日香/飛鳥。
もう一つは、大和盆地はかつて大きな湖で、日本最古の道と言われる山の辺の道は、もとは湖の東岸をたどる道だったということ。
人間同様、土地にも風景にも固定的なアイデンティティなどない。すべては複合的で流動的なのだ。
]]>
10月28日(土)昼すぎ、神戸BBプラザ美術館、師匠・堀尾貞治の1000点絵画展。
喜多ギャラリーの喜多洋子さんから、堀尾さんに提供した大量の廃棄パネルは、ある会社から払い下げられた展示会用のものと聞いた。
人はみなできた作品の方にばかり目を向けるが、ぼくには制作を可能にする諸々の物理的条件や方法論の方が興味深い。
堀尾さんは一見ランダムに制作しているように見えるが、「なぞること」と「制作年とサインを書くこと」が今回の作品の主導エンジンになっている。
なぞることで画面をつくり、サインの文字で引き締める。この一貫した方法が控えているから、最初に塗る色や線は考えなしで直感的に描ける。堀尾師匠の「一分打法」もこの方法が凝縮した側面がある。
昔、アートスペース虹の熊谷さんから頼まれて、堀尾師匠の作品集『80年代の記録』(1998年、光琳社出版)の編集に協力したことがある。もう絶版だが、先日、熊谷さんから同書の電子版の再発行の話があると聞いた。その序文でぼくは、堀尾さんの制作手法の典型は「なぞること」にあると書いている。
「堀尾は「塗る」ことによって表面に表面を重ね、縁どることによって輪郭に輪郭を重ねる。色に色を重ね、文字に文字を重ね、刃物に刃物を重ね、他人の筆致に自分の筆致をかぶせること、それは実物の道具や窓に描いた道具や窓を重ね、乾電池に巨大な乾電池の絵を重ねて電気を灯すこと、あるいは水たまりの輪郭をなぞった板をプールに浮かべ、緑に塗った石を緑の山に投げ込むことにつながっている。・・・」(「希望の原理」井上明彦 『堀尾貞治80年代の記録』p.4-5)
なぞる対象となる「所与の事実」は、モノの状況でも自分が描いたものでもよい。制作されたものもそうでないものも等価なのだ。今回も紙が剥がされたパネルの表面のあり方が多くの作品の出発点になっている。ぼくはこのことに大きな影響を受けている。それは「内的イメージ」を「表出」する「作者」を相対化し、「いわゆる美術」からの自由にもつながる。
まったく異なるが、赤瀬川原平の「トマソン」にもそういう側面がある。
阪神岩屋駅のプラットフォームの前に、トマソン的な欄干らしきものが宙吊りになっているをたまたま見つけた。
「トマソン」は時間的にずれのある事象の断片の残存と併置から生まれる。用の必然=つじつまを合わせることが、つじつまの合わないもの=無用の偶然を生み残すのだ。「作者」が君臨する「芸術」を相対化するこの視線は、しかし「芸術」の徹底化の中から生まれた。
岩屋駅の正面に残る大きな掘り込みは何に由来するのか。駅ができる前のこの地の地形や風景のなんらかの名残だろうか。
元町まで足をのばして、花森書店での堀尾さんの展示を見る。13時に店が開くと、店主が手際よく売り物を外の「領地」に並べる。はみ出し方が面白い。
展示されていたのは堀尾さんの写真を使った小品群だが、ぼくにはBBプラザよりこちらの方が面白かった。古本屋の一角という場所の雑多さも悪くない。
・ ・ ・
午後2時から阪大の中之島センター(阪神福島駅から徒歩数分)で具体/戦後美術の研究発表会に参加。
加藤瑞穂さんと尾崎信一郎さんによる田中敦子と戦後美術に関する研究書の発刊にちなんだ報告会で、加藤さんの科研費によるものらしい。加藤さんの博論にもとづく本『田中敦子と具体美術協会』はいただいたが、尾崎さんのは持っていない。会場に元具体の今井祝雄さんが来られていて、久しぶりにじかにお話する。トークの司会は塚村真美さんで、彼女と会ったのも久しぶりだった。
・ ・ ・
夕方、急いで北加賀屋へ。
秋らしく、各地でアートイベントが花盛りだ。それに呼応するのは、イベントの企画者と世代的に近いアーティストたち。
人間は集団行動するので、アートの流行り廃りも世代的な傾向を帯びる。日本の美術業界は狭く、アートは少数派なので人や場所つながりで小さなコミュニティを形成してやっていく傾向になる。かつては自分もそういう中にいたなという気分で、駆け足で千鳥文化やMASKの展示を見る。途中、これまた久しぶりに木ノ下智恵子さんと会った。
河野愛《I》ichibangai @千鳥文化ホール
持田敦子《Steps》@MASK
美術作品もいいが、北加賀屋でもっとも興味を引かれるのが、dot architectsが手がけた千鳥文化A棟のアトリウムと2階の居室群だ。
千鳥文化住宅という築60年の木造アパートで、改修に取りかかった2017年のときはすでに廃墟化していたらしい。船大工らしき人が改修を重ねたブリコラージュ的な建物で、構造的には脆弱だったので、部分ごとに補強したという。2階の居室群は、手づくりで空間を仕切ることを繰り返したのだろう。それらを撤去すると元の状態がわからなくなるので、できるだけ残しながら補強と改修を行ったそうだ。
千鳥文化のことは知らなかったが、過去の状態を残しながらの改修に、ぼくがやったTaroハウスに通じるものがあり、異質な時空や部材が入れ子状に同居するあり方に共感した。ノランナランも同じような過去の痕跡の残し方をしている。我知らず、同時代的な感覚といえるのか。
とはいえ、dot architectsは一級建築士集団なので、はるかに大規模でレベルも高い。ぼくは高校生のときは建築志望だったので、そのまま進んでいたら、今頃はdotのような仕事をしていたかもしれない。こういう仕事を数人で協働しながらやれてうらやましいなと思う反面、制作より人との交渉が美術よりはるかに多い建築分野は、自分には向かなかっただろうと思い直す。
]]>
イスラエルのガザ攻撃に心が張り裂けそうだ。
「ホロコースト」という言葉を使いながら、ガザの子供たちを暴力的に虐殺するユダヤのシオニストたち。
深夜、久しぶりに絵筆をとり、何枚かpetit dessin。「ふたしかな屋根」を終生探求すること。
# toit incertain
# toit incertain
# toit incertain
# 4 pairs(4つのペア)
# 3 pairs(3つのペア)
]]>
10月24日(火)
世人研の案内板の見積が2社から来る。
同じ既成のスタンド看板(alomode258)を下地にしながら、価格が大きくちがう。
以前、上下水道局はぼくがデザインした琵琶湖疏水案内板群を京都プロセス工芸社に施工させていた。それでそこにも見積をお願いしたら、リーズナブルな価格なので、京プロに頼むことにする。サイズは400x1500mmにした。
その前に京芸の施設課の許可を得ないといけないという。幸いよく知っている人が施設課にいるので、直接データを送ったらすんなり許可がおりた。
デザイン面で、以前使っていたiMacが壊れたので、近年は使える日本語フォントが乏しい。だが今後デザイン活動をメインにするとは思えないので、フォントはスタンダードなものを使い、デザインの力点は色やレイアウトに置くことにする。
・ ・ ・
夕方から東九条きぼうの家こども園で、佐藤由輝さんとできた看板基盤のお披露目と今後の展開の打ち合わせ。
夏休みに子供たちに書いてもらった文字。
今回の制作は佐藤由輝さんにリードしてもらっているので、ぼくは指定された文字をトレースしてただ掘るだけ。担当は16文字中、6文字と楽させてもらっている。
杉やクスノキ、ナツミカン、センダンなど、木によって質が異なるので、彫り方も統一せず多様にする。
このあたりが普通のデザインとは異なる面白いところ。
ぼくの担当分。子供たちにこの上に自由に絵を描いたり色塗りしてもらい、もう一度文字を彫り起こして塗装して仕上げていく。
試しに子供たちに色を塗ってもらったものも見せてもらい、佐藤さんが彫った文字基盤と合わせて一同を並べて見た。
この状態は今しか見れない貴重な記録。
10/26日(木)
京大の日系ブラジル人留学生アウグスト・オヤマ君のために、彼の横浜での展示の備品づくりのアドバイスを9月から続けている。
サンパウロの移民街リベルダージの歴史と現状を訴える彼の展示のタイトルは、4カ国語で「リベルダージ: ディアスポラ、祖先、共存の地/Liberdade: place of diasporas, ancestries and coexistence/Liberdade: lugar de diásporas, ancestralidades e convivência/ Liberdade: lugar de diásporas, ancestralidades y convivencia」という。
助成金申請時のもとのタイトルはもっと長いもので、" Participatory exhibition on the Liberdade neighborhood, São Paulo, Brazil, in the light of the right to the city and the yellow and black diasporas(ブラジル・サンパウロのリベルダージに住む日本人と黒人の生き様を市民権に照らして提示する参加型展覧会)"というそうだ。
環境デザイン専攻なので、移民たちの写真やインタビューだけでなく、彼らのルーツの風土で使われていた建物の材料と形態をいっしょに示したいらしく、鳥居や教会を示唆するもので展示を補完したいという。(→*リベルダージについて)
で、いろいろ図面を送ってくるが、ものづくり経験が少ないらしく、イメージが先行して実現するための具体性に乏しい。
最大の問題は材料を新幹線で運んで、向こうで組み立てるという点だ。なので、建築モデルのような展示物はつくれない。といって写真や映像だけでは物足りないらしい。
土塊と竹だけなら、練り土積みの土塊は型枠なしで作れる前近代のやり方だから、こういうのを何点か作ってインスタレーションすれば?と提案する。東九条に真竹の小さな林があることも伝える。
だが、彼個人が気に入っても、ブラジルにいる仲間と展示計画を進めているらしく、一辺15cm立方体の日干しレンガをつくりたいらしい。
それで「七条大橋をきれいにする会」の廃材で型枠をつくって試作してやることにし、つちのいえに残っている土を取りに行く。
閉鎖された京芸に行くと、つちのいえの丘のジャングルが成長を続けていて、鉄柵からあふれ出てきている。
人間が退くと自然が出てくる。昨今の熊騒ぎでも同様だが、それ以上に廃墟となった京芸キャンパスで増殖する自然の状勢はとても面白い。どこにもない場所、文字通りの"非場所 U-topia"が柵の向こうに広がりつつあるのだ。
こういうワクワクする状況を今も生み出すつちのいえは、やはり面白いことをやっていたものだと思う。
残っていた『峠の茶屋』の土塊を持ち帰る。
15年前、型枠なしで直方体にした最初期の日干しレンガで、壊された竹林の赤土を使っている。
壊された沓掛の竹林の赤土が巡り巡って、サンパウロの移民の暮らしを伝える展示のために再資源化されるとは、なんと不思議な縁。
東九条の真竹を突っ込んだ練り土積みの土塊も、もとは大枝の大藪家の土塀から救い出したもので、江戸時代起源だ。
時代を超え、地域を越えて、無限に再資源化できる土。
10月27日(金)
幅14cmの廃材でつくった型枠。アウグスト君が指定する15cm立方ではなく、断面のみ正方形の14x14x16.5cm。
砕いてフルイにかける。
日干しレンガならフルイにかける必要はないが、壁土を再生する感覚で藁もまぜて型枠に入れる。
乾燥にどれくらいかかるか試す。
わからないのは、アウグスト君がいう「京大のラボ」で型枠から日干しレンガまでを自分の手でつくれるか、だ。
彼が属する地球環境学堂の人間環境設計論ゼミは、吉田キャンパス総合研究3号館4階にあるらしいが、行ったことがない。
主任の小林広英教授は、東南アジアや西アフリカのヴァナキュラーな建築の調査研究や現地での実作も行っているようだが、吉田の研究棟内に実作業できる空間があるのか。あれば材料とマニュアルを渡すだけで済むのだが。
]]>
10月22日(日)
13時から東九条で「街を耕す計画 ただいも」の芋掘りに初めて参加する。
場所は北河原町住宅の丸花壇。
9月から何かと展示の技術的相談に乗っている京大地球環境学堂の日系ブラジル人留学生のAugusto Oyama君にも声をかけたらやってきた。
けっこう採れる。車椅子の下林さんもやってきた。
芋掘り作業をしていると、通りすがりの住民が関心を持ってくれて、コミュニケーションが生まれる。
その住民から連絡を受けた近所のおばあさんが、食用になるからと大量の芋ヅルを採りに来た。
なかなかアジアンな風景。
韓国の人たちは、芋ヅルをキンピラにして食べるのが好きだという。
芋掘りから出た芋ヅルが処分されずに食卓に上がる。この小さな地産地消の循環が生まれたのは、屋外の人の目に触れる場所で作業していたからだ。あらためて公共の屋外空間の可能性を感じる。
開かれた場で作業の時空を共有することが物質循環や知恵の交換を促すのだ。
・ ・ ・
10月23日(月)
崇仁高瀬川保勝会がテラスの資材と掃除用具置場として、2020年度から京都市に提供してもらっている崇仁第2浴場奥に、七条大橋をきれいにする会から頼まれてつくったライトアップ用資材置場がある。
もとは自転車置場のようで壁がないのでブルーシートで覆い隠していた。それがボロボロになって、京都市の職員に見つかると何か言われかねないので、きれいにする会に連絡を取って、ブルーシートを取替えるか、資材を処分するか、検討してもらっていた。
資材置場はもとは元崇仁小学校西側の屋根の下にあった(2017年秋〜)。そこは、地域にない資材置場であると同時に、地域の人が使える工作スペースとして使っていた。
2019年7月22日 崇仁小学校体育館脇でライトアップ用資材を手づくりする七条大橋をきれいにする会のおじさんたち。
手前の井上茂樹さんは奥さんが京大美学の吉岡洋さんの妹で、崇仁テラスの制作も手伝ってくれた。
とにかく「つくる人とつくる場所」を増やしていきたい自分としては、好感を持っていたので、イベント終了後に彼らのための資材置場も同じ場所につくってさしあげた。
だが翌2020年に京都市から芸大の工事が始まるとしてここを追い出された。
2020年6月15日
代わって見つけたこの場所を崇仁高瀬川保勝会の資材・用具置場に使わせてもらえるよう交渉した。だが、保勝会の人で創作能力のある人が他にいなかったので、倉庫の移設から足場板置場まで一人でつくらねばならなかった。
自転車置場には、作業用テーブルやベンチを収納した。
七条大橋をきれいにする会の資材を納めてブルーシートで覆った。右が崇仁テラスの部材置場と掃除具倉庫。
まもなく空いたスペースに京都市すまいまちづくり課が、団地が解体される崇仁自治連合会の資料倉庫を設けた。これで当分この場所は市民活動のための場所として安泰と思われた。
そもそもこの場所(屋形町)は、戦後まもない時期からあばら屋が密集し、新幹線架橋工事のときに多くの住民が立退きさせられた場所だ(*)。住民はのちすぐ南の東九条の北河原町市営住宅に移住した。そこは今大きな空き地(「マンモス団地跡」)になっている。
七条大橋をきれいにする会の小林明音さんによれば、この事業を率いていた井上茂樹さんが引退し、もうライトアップの資材を使うことはないとのこと。で、この日(10月23日)に廃棄処分することになり、午後3時に業者に引き取りに来てもらうことになった。ただ業者は軽トラで来るので、大きいものはできるだけ小さくしたいから、道具を貸してほしいと小林さんから頼まれた。塗装してあるが、あまり使っていない木材なので、もったいないと思い、彫刻専攻の安藤由佳子先生や、たまたま沓掛芸大の廃材を使いたいと連絡してきた大学院生に連絡すると、引き取りに来てくれた。
材料は合板と思っていたら一枚板だった。
七条大橋をきれいにする会が盛り上がっていたころのメンバーのエネルギーが感じられたが、それも過去のものとなった。
安藤先生と一緒に来た学生は、ぼくの最後の総合基礎の受講生のキヨタ君。大学院生の伊藤きくよも岡留君も回収にやってきて、たちまち部材は廃棄から新たな循環に移行。小林明音さんに、京芸がこの地域の物質循環のエンジンなるはずと伝えると、喜んでくれた。
一部残ったが、アウグスト君に展示用部材として進呈できる。崇仁テラス資材置場で使っていた作業テーブルや部材と再会。
上に雨よけにかぶせたものも、KUNST ARZTでの「フクシマ美術」展(2016)の出品作の残り部材。東北地方で放射能汚染土壌の防水シートに使われるものだ。
美術において、作品を一方的につくって展示するのは簡単だ。展覧会やイベントのあと、作品や作品を形成した素材を、別の新たな循環の回路に接続すること、つまり人間中心の次元ではなく、ポストヒューマンな物質的次元から美術を捉え直すことは簡単ではない。だがこれからの美術はそこを避けて通れないと思う。
]]>
10月20日(金) 庭のヤマザクラが狂い咲きした。
ネットで調べたら、
夏に台風や虫害などで葉のほとんどを失ってしまうと、休眠をうながす植物ホルモンが供給されなくなることがあります。休眠できないまま、たまたま秋に暖かい気温が続くと季節外れに開花してしまうのです。「春と勘違いして咲いた」と言われることがあります。
とのことだった。
桜の花芽は夏には始まるが、秋になって日照時間が短くなると、花芽の成長を抑える植物ホルモンが分泌され始め、花芽は休眠状態に入る。広葉樹は冬が葉が落ちるので、光合成ができない。それで冬を休眠状態で過ごす。真冬の寒さに一定期間さらされると、花芽の成長を促す植物ホルモンが分泌されて、休眠状態が打破され(「休眠打破」)、春の開花を迎える。
だが、庭のヤマザクラは毎年、夏の終わりに蛾の幼虫が大量発生する。今年はひどかったので、9月に枝葉ごとごっそり切り落とした。
葉がなくなりすぎて、休眠を促す植物ホルモンが分泌されず、それで休眠できずに開花したと思われる。
春に無事再開花することを祈る。
・ ・ ・
開所式終了後、世界人権問題研究センターの淀野事務局長から、エレベーターホールの案内板のデザインを頼まれた。
現状。
世人研の事務局の人たちはロゴの認識もなく、業者に丸投げして、ホームページや封筒をつくらせる。
WordとExcelで仕事する市役所全体がそうだが、そのため経費もかかっていると想像する。
ロゴは一からデザインし直すかと思ったが、そういう自覚なく頼んできたと判断し、既存のホームページのタイトルに使われているフォントに準じて整理するだけにした。
案内板の大きさと設置イメージを提示したら、これで進めてほしいというので、いくつか見積をとることにした。
金属板をL字に曲げて自立するものをつくりたいのだが、高くなるだろうと思う。
京芸といっしょになったのだから、デザイン科がデザインして、彫刻が仕上げてやってくれたらいいのに・・・。
仮案内板を廃材パネルでつくる。自宅でプリントできるのはA3ノビまでなので、限界がある。
仮案内板を設置。11月22日の週には本番が届く予定。
]]>
10月16日昼頃、Taroハウスにベンチの補強と追加のために行くと、人が泊まっていた気配がある。
15日にあったと聞くココペリ121のイベントの跡かなと思ったら、ヤンソルさんの知人で東九条の在日コミュニティを調べている武蔵大学の林玲美(リム・ヨンミ)さんという社会学者が数日間、寝泊まりされていたらしい。
春に個展をした吉浦嘉玲君がぼくの260cmの長ベンチを足場板でコピーしたが、たわんで座りにくい。イベント時にしっかり座れた方がいいので、天板の下に35mmの角材をあてがい、3~4人座ってもたわまないようにした。
もう一つは、つちのいえから持ち帰ったベンチの天板を、Taroハウスに保管していた古材の床板と置き換えること。北久世の100年前の農家の解体のときにいただいた床板で、使わなかったのを10枚ほど押入れの上で保管している。今の製材とちがって切断面がまっすぐではない(*)。そのゆらぎが面白く、ラバラカの額縁にも再利用した。座面にするので、サンダーがけしたらきれいな木目が現れた。裏で作業するのは1年ぶりだった。
こんな板はホームセンターでは手に入らない。変わった板だなと気づく人は何人いるだろう。
Taroハウスは水道管を壊したために、水はホースで隣の家から引いている。そのため窓は開けたままだ。
リム・ヨンミさんが窓の隙間に新聞紙を詰めていることに気づいたので、聞くと、ホースのために窓が閉まらないから、風が吹き込み、蚊も入ると。宿泊者の貴重な意見に応じて、裏に残してある廃材ベニヤを加工して窓をふさぐことにした。
いずれ直さないといけないなと思っていたが、この機会に応急処置ができた。窓は開け閉めできるが、網戸は嵌め殺し。
外の水道栓の分配器から水漏れしている。この日は直せず。
リム・ヨンミさんによれば、Taroハウス2の方は畳があるので、そちらの方が寝泊まりにはよさそうに見えたが、逆にノミやシラミなどがいそうで、こちらの方が清潔感があり、押入れが段になっているので、そこを寝床にしたそうだ。「私はサバイバル系だから、一般人の感覚とはちがうと思う」と。
Taroハウス1であとやることは、
1)玄関灯を利用したサインの設置
2)本棚の製作と設置
今後の使用度をあげるには、
1)外のトイレの改善(女性が使いにくい)
2)水道管の修繕(ソルさんはする気があるのだろうか。床をまくらないといけないので、手間と費用がかかる)
その後、つちのいえを見たいという末永やよいさんと京都駅近くで待ち合わせ、閉校になった京都芸大へ。
やよいさんは東北芸工大で日本画を教える末永敏明さんのパートナーで、二人がデュッセルドルフに住んでいたとき、よくお世話になった旧知の友人だ。まもなく今度は尾道から、今尾道市美で大展覧会中のマレーシア人アーティスト Shooshie Sulaiman シュシ・スライマンと家族のファティマとシドラが、尾道市大の小野環さんの車に乗ってやってきた。そこからの様子は、つちのいえのブログに載せた。
つちのいえのブログは15年近くexblogを使っているのだが、無料コースなので広告がたくさん入る。スマホだと、広告のすきまで記事を読むようでたいへん見づらい。
その後はみんなで再びTaroハウスへ。
Taroハウスのリノベーションは、小野さんやシュシが尾道でやっていることに通じるものがある。
床板を開けて下の地面の土などを見せたりしているうちに、リン・ヨンミさんも帰ってきて、面白い取り合わせで会話がはずむ。
特にシュシは、Taroハウスのちぐはぐさや、裏の様子、駐車場の情景にただならぬ時空のずれを感じたようで、興奮ぎみに「Aki, これは面白い、これはぜったい残すべきだ」と。
とにかく今ぼくらアーティストは、格差と対立、戦争、気候変動が進む果ての生活とアートを模索しなければならない。
シュシはそのためにアーティストは展覧会をするだけでなく、生活の中に入っていって、クリエイティブな仕掛けを通してマイクロ・コミュニティをあちこちに発生させるべきだと言う。そのとき私はただのおばちゃんでいい、と言うので、ぼくはただの大工だ、と。
来年、インドネシアに行こうと強く誘われた。
記録したことのない夜のTaroハウスの情景。
小野さんらはその後、姫路に発つ。活動量が半端でない。
]]>
世人研開所式の翌日(10月12日)、ひらいゆうさんの友人で、フランス人とハイチ人のカップルと京都駅近くで会う。
Josette Bruffaerts-ThomasとJean-Claude Bruffaerts は、ハイチの未来 HAÏTI FUTURというNPOでハイチの社会復興や人道支援、特に子供たちの教育支援や文化振興、雇用支援などに取り組んでいる。「ハイチの未来」は1994年に設立され、ジョゼットはその代表だ(*)。
当日まで世人研開所式のための展示用床の間の設営撤収で忙しく、会うまでにハイチや彼らの活動についてまったく予習できなかった。
ハイチは、今も世界中で深い傷跡を残すヨーロッパ植民地主義の最初期の犠牲地だ。
1492年、コロンブスは1回目の航海でイスパニョーラ島(La Española)にヨーロッパ人初の入植地をつくった。それをきっかけになだれ込むスペイン・フランスの入植者たちによって先住民のタイノ人は絶滅させられ、代わってアフリカから連れ来られた黒人奴隷たちが、現在90%に及ぶアフリカ系ハイチ人の祖先だ。17世紀末にイスパニョーラ島の西側3分の1はフランスの植民地になり、それで現在、公用語はフランス語とクレオール語になっている。
度重なる地震と政情不安・経済不況で、現在はギャングが横行する世界最貧国の一つだ。
ジャン・クロードは、なぜ日本に来たのかというぼくの質問に、「久しぶりの休暇をとっての観光という面もあるが、成功した国・日本の現状を、失敗した国・ハイチの救済に取り組む立場から見ることが目的」と語ってくれた。京都の次は広島に行くそうだ。
安全に生きることすらむずかしい国(パレスチナやアフガニスタンもそうだが)の話を聞くと、自分の無力感ばかり感じて落ち込む。
二人から本をいただいた。
ヤニック・ラアンスの小説『月浴』と、フランスがハイチの独立を認める代わりに膨大な負債を背負わせた1825年の契約にまつわる歴史書。勉強になりそうだが、当分読む時間はなさそうだ。次、パリに行くまでに目を通しておかないと。
ぼくの方は自分がデザインした水平社関連の展覧会のチラシを渡しただけ。
日本の部落差別や植民地支配の歴史、河原者の歴史と芸術の関係について、うまくフランス語で説明できなかった。
水平社宣言については各国語訳が公開されている。
昔は中南米に行きたかったが、モロッコや西アフリカとつながり、最近はマレーシアにも縁ができた。今回の出会いはぼくを中南米に引き戻すのか。そういえば、このところ京大の日系ブラジル人留学生に展示備品の材料を世話している。彼もまた移民の問題に取り組んでいる。
13 Octobre, vendredi
すっかり秋になり、日が傾いて洗濯物に日光が当りにくくなってきたので、クスノキを自分で剪定する。
業者に頼むと20000円する。
いつのまにかキンモクセイの香りが強く漂う季節になった。
庭のキンモクセイは、今年はやたら花が多い。
ハイチは長年に渡る乱伐で山は禿山だらけとなっていて、そのためハリケーンが来ると洪水がしょっちゅう起きるという(*)。
]]>
10月10日(火)午前中、インスタント床の間の壁の補彩と床の処理。
垂れ壁も5mm厚の廃材ベニヤを継ぎ足し。表面にはジェッソLLを塗って質感を強調。
床の間の床は廃材を張っていたので、障子紙でも貼って隠すかと思っていたが、元崇仁小学校での展示写真をよく見ると、床の間に畳の上敷きが敷かれている。それで3畳のい草の上敷き(4159円@コーナン)を敷いてみた。これだと掛軸を受けるのも自然だ。
写真を撮ったとき、面白いことに気づいた。
撮影場所はGoogleMapにヒモづいているが、まだ更新されていないので、前の地名「崇仁市営団地51棟」と出る。
このまま更新されず、京芸のなかで撮影すると撮影場所が「崇仁市営団地・・・」になるのも悪くない。
午後3時、学校歴史博物館から雲龍図が届く。運送と展示はヤマト運輸の美術品担当者。
3点吊りで、フックの位置の調節が必要になった。
床を10cm上げた分、壁面高が250cmになり、画面はかなり下に降りた。影がかからないので、まあいいとする。昔は静座して見ていたというから視線も低い。
佐々木萌水の作品も合わせて展示する。箱書きは蓋のみを脇に置き、タイトルが読めるようにする。
佐々木萌水の『高瀬川香炉文透扁壺』は、高瀬川で拾った陶器片を使い、その文様や形状を読み解いて金継の手法を応用して独自の加飾部分をアッサンブラージュしたもの。雲龍図の前に置くと、陶器片に描かれた壺から立ち上る煙の文様が、後ろの龍のヒゲにつながり、また龍が壺をつかんで高瀬川の水を飲もうするように見える。日本美術の伝統であるこうした見立ての手法は、作品の内外を豊かにつなげていく。ここではさらに、江戸時代の狩野派と京芸出身の現代の若手作家が共存し、世人研が芸大と同じ敷地に来たことの意味を象徴する。
とはいえ、開所式に招待される政界の要人たちがこうした美意識を持っているとは思えない。
開所式は一般公開ではなく、市や府の要人・地元組織の幹部中心の儀礼的なもの。
10月11日(水)世人研開所式当日
床の間の真ん前に千玄室が書いた扁額が除幕式用に置かれる。
床の間の真上の照明は、作品鑑賞には強すぎたのでここだけはずしたが、気づく人はいないだろう。
天井のデザインも屋根の形状に沿って起伏している。だが天井板は外して設備をむき出しにした方がいい。
最初にこの凡庸な公民館的集会室の写真を見せられたとき、やる気が一気に失せた。
世人研の空間はどこも事務屋的発想でできていて殺伐としている。
除幕式。西脇京都府知事・門川京都市長・世人研理事長坂元茂樹氏と副理事長。
西脇知事のすらすらとした祝辞。政治家というのは弁説のプロなんだなと改めて思う。
柳原銀行記念資料館事務局長の山内政夫さんには、雲龍図と佐々木萌水の作品の取り合わせの意味についても語ってほしくて、事前に見立てのことも伝えていたのだが、佐々木の名前も言わず、作品タイトルについた「高瀬川」も言わず、雲龍図の謂ればかり。
鷲田清一前学長は信奉者が多くて、小山田徹学部長や芸資研の佐藤和久さんも講演を聞きに来る。
ぼくはどうも苦手だ。講演も、真正面からなく脇に動いて雲龍図を見せながらしゃべられることを期待したが、無理だった。
開所式が終わっても、雲龍図も佐々木萌水の作品も、ちゃんと見る人はほとんどいない。
人権問題に関わる研究者や活動家の大半は芸術に関心を持っていないと経験から思う。
逆に芸術に関わる人たちは人権にも敏感だ。
実際、世人研の移転のことは学内で公示されていないのに、開所式終了後に京芸生たちが何人かやってきた。
(にぎわいを向こう岸に見るこの柱の後ろがぼくの立ち位置)
*開所式の模様は13日にNHKニュースでも放映されたが、雲龍図への言及なし。
10月12日(木)撤収日
朝9時半にヤマト運輸さんが作品の撤収に来る。
今回、用意を忘れていたのがこの軸受け。これはヤマト運輸さんが貸してくれたもの。
佐々木萌水と佐藤由輝が解体を手伝いに来てくれる。1時間ほどで分解完了。
エレベーターに突っ込んでみた。柱材だと270cm以上は無理。細い角材なら290cmは可能。今後、こんなことをすることはないと思うが。
材木は一部は崇仁テラス資材置場へ、残りは持ち帰る。工務店仕事はいったん終了。
次は世人研の案内板のデザインだ。
車を留めていたB棟西側の高倉跨線橋(1954年架換)手前斜面に「用助橋」の遺構が残っている。
見ただけでは何だかわからない石材だが、昔C地区を流れていた高瀬川にかかっていた石橋で、鉄道が通った1879年(明治12年)に廃されたとき、その石材が記念のため線路をまたぐ坂の石積みに嵌め込まれた。京芸の前身・京都府画学校の創設(1880年)の1年前。だからこの石橋の遺構はこの辺りで一番古い。
#崇仁高瀬川保証会ニュース2021年3月号より
橋の名前は、若山用助に由来する。西隣の東塩小路村の庄屋で、柳原町長の桜田儀兵衛や町民ともつきあった人だったそうだ。
高瀬川の欄干や流路を何らかの形でC地区に残せと市の建設局に言ってきたが、これが唯一残った。
何らかの表示が必要と思われる。
]]>
9月27日から京芸のB地区に残った柳原銀行記念資料館で、「第35回特別展 崇仁芸術の源流・雲龍図〜 芸大・世人研移転に寄せて 〜」が始まった。同じ京芸C地区のA棟7階に世界人権問題研究センターが移転し、京芸の崇仁キャンパスが人権と芸術が交差する場になる。地球研も世界人権問題研究センターと連携するそうなので、崇仁が芸術と人権/環境という今もっともホットなテーマに直結するエリアになる。
こう書くときれいごとに聞こえるが、実際の現場は、京芸と世人研の組織と空間がうまくつながらず、財政難と人手不足もあって、当分はギクシャクかつ細々とした動きでしかないだろう。世人研はたくさんの研究者が名を連ねる立派な組織に見えるが、事務局の方は年配の事務系職員が数人で動かしているにすぎない。京芸の方も引越して来てまもないし、業務に比して職員数が足りないので、学外連携に対応する余裕はない。
この断絶状態を、10月4日に世人研の下見に行って痛感した。
8月に世人研事務局長の淀野実さんと柳原銀行記念資料館の山内政夫さんから、10月11日の開所式で披露する伝狩野永楽「雲龍図」の展示方法について相談を受けた。芸大には芸術資料館があるから、そちらに相談すればいいものを、学芸員が忙しくて取り合ってくれないと。
「雲龍図」は昔、崇仁小学校の静室と呼ばれる和室の床の間にあったが、今は学校歴史博物館に保管されている。崇仁地区は全国でも最大規模の被差別部落の地だが、元崇仁小学校では、差別をはね返すために精神性や身体性を重視するレベルの高い教育が行われていた。そのことを京芸移転を機にあらためてアピールするため、山内さんは秋の特別展で「雲龍図」を主題に据えたのだ。
だが、資料館はガラスケースを改築で取り去ってしまったので、実物の「雲龍図」を展示できず、特別展はコピーや写真展示でしのいでいる。それで、せめて世人研の開所式にだけ「雲龍図」の現物を展示することになったのだ。10月28日にシンポジウムがあるので、そのときにも展示したかったそうだが、芸術資料館が預かることを拒んだので、開所式が済んだらすぐに歴史博物館に返却する。だから床の間をつくっても人目にふれるのは11日の午後の3〜4時間だけ。舞台美術みたいなものだ。
雲竜図はけっこう大きい。これまでは資料館や博物館の展示ケースのなかに吊るして展示された。
美術を知らない淀野さん・山内さんは、平台に寝かせて広げて見せたらどうかと無茶をいう。スケールもつかめないのだろう。
# 崇仁小学校の静室に「雲龍図」があったときの状態(柳原銀行記念資料館特別展図録から)
崇仁小学校で飾られていたときの写真を見せてもらい、床の間風の展示スペースをつくることを提案した。歴史博物館にもそれならOKと認められた。
構成が決まったので、沓掛京芸に廃材を集めにいく。
京芸の中はまったく片づいていない。廃材を見ると、どういう価値観で教育しているかがよくわかる。(写真は9/1日)
世人研の天井高(2880mm)と絵の軸装の天地から割り出して、床の間風展示室は正面がほぼ260cm四方の正方形、奥行92cmにする。
新規購入したのは、90mm角の柱4本と2x4材2本、床の間用の幅90mmの杉の貫材のみ。あとはすべて京芸の廃材や室田泉さんからいただいたパネルを再利用する。
世人研の会場で長く作業はできないから、アトリエで加工・仮組みして現場で組み立てることにするが、アトリエが狭い。
取り合えずの仮組(9月26日)。
昔、東九条にあったVoice Galleryの4.5mの天井ぎりぎりに《Maison-Arche》をつくるためにアトリエで仮組したことがある(*)。あのときは床が180cm四方だった。今回は幅が258cm。左右の壁まで30cmぐらいと、ギリギリだ。
廃材を利用するといえ、博物館の美術品を飾るし、京都府知事や京都市長はじめ、お歴々が列席する式典なので、表面をきれいにしないといけない。で、次々と廃材をサンダーがけ。廃材利用は電気代と時間もかかる。
床の間の床は廃材の9mmの3x6構造用合板を継ぎ足す。廃材らしい退色をどう隠すか。
室田泉さんからもらったパネルを丸鋸で縦切り。製品なので構造もしっかりしている。幸か不幸か、サイズ合わせのために切る位置は桟の中心線。
パネルを再塗装。使ったのはネオカラーの残り滓。
しかしこの手づくりの巨大デッキがあるおかげで、アトリエが狭くても大きな作業ができる。
20年前の竹林を壊す宅地開発とそれへの抵抗のおかげだ。デッキの下は半地下倉庫で、地名も河陽が丘から条下裏に変わる。
人生は偶然と不思議のチグハグな積み重なりだと思う。
床の間なので、落とし掛けに垂れ壁をつける。背板はパネルをピッタリ組み合わせる。いずれも継ぎ足し。
床が一番時間がかかった。45mm角の廃材で垂木をつくったが、柱が床より10mm前に出るように床板と貫を合わせるのに時間がかかった。大工なら難なく済ませるところ。情けない。これに対して落とし掛けの材木は柱のホゾにぴったりはめ込み、クギやビスを使わない。
アトリエで組み上がった状態(10月3日)。これをいったん分解する。
10月6日(金)、崇仁に運ぶ。
軽トラを借りないといけないかなと思っていたが、なんとか全部車に入った。小型車なのに収容能力の大きいこのホンダのスパイクにもずっと助けられている。
もう一つ予想された困難は、世人研のあるA棟のエレベーターが小さく、2.6mの部材が乗るかだった。
なんとか対角線状に積み込む。
会場では、東九条でいっしょに活動している漆工出身の若手作家の矢野洋輔、佐々木萌水、佐藤由輝が手伝ってくれたので、昼前に基本構造は組めた。じつはいつものように一人でやるつもりで準備していた。人手があるというのはありがたい。
昼休みは久しぶりに前の中光園で。昼食後、共有工房と漆工棟の工房を案内してもらう。校舎の感想はいろいろあるが別の機会に。
午後は佐々木萌水が続けて手伝ってくれて、15時すぎには組み上がった。
淀野さんに前を広く取りたいので後ろの壁に寄せるよう言われたので従う。
壁どうしがつながったように見える。
床の間の床は、崇仁小学校のときのように畳敷き風に見せるため、イグサのゴザを敷く。
10日午後に「雲竜図」の搬入がある。どんな風に見えるか。
床に佐々木萌水の作品「高瀬川香炉文透扁壺」を飾ることを提案して、賛同を得る。彼女は高瀬川で拾った陶器片を継ぎ合わせた作品をつくっている。江戸初期の狩野派と、京芸出身の若手現代作家のコラボレーション。高瀬川は雲竜ともつながる。
「芸術・人権・環境」という世人研のモットーがこのインスタント床の間で視覚化されるわけだ。
資材搬入前、崇仁高瀬川保勝会の資材置場から運んできた台車に泥水がたまっていた。
京芸の新しい地面はきれいすぎて窮屈に感じるので、泥水を流す(撮影:佐藤由輝)。
だいたいこういう悪さを思いつくのはぼくだ。
雲竜図ドロ(泥)ーイング。(撮影:井上明彦)
]]>
京芸の崇仁移転オープニングセレモニー(堀場信吉記念ホール)。
なんと司会は大崎緑。版画の大学院の修了審査の副査をした彼女、宝塚出身だから姿勢も声もよく、舞台なれした堂々とした司会ぶり。
赤松学長も鷲田前学長も、「テラス」がこれからの京芸の理念であることを挨拶で述べ、2015年に発案した「テラス」という移転基本コンセプトがかき消されることなく残ったことは嬉しかった。だが反面、なぜ「テラス」なのかというとき、「浮いて・開く」というあり方が芸術大学にふさわしいという側面だけが強調され、崇仁の土地の歴史に由来することは語られず、大事な側面が蒸発して明るいイメージだけになっているように感じられて、さみしかった。
移転先の崇仁地区は、もともと鴨川の氾濫原で土地ならざる土地だった。だから高瀬川が開削されて人が住めるようになると、河原に非人小屋を建てていた被差別民は六条村に強制移住させられた。江戸時代、御土居の外にあった崇仁地区は京都人のゴミ捨て場だった。だが、河原は人間世界が自然と交わる場所であり、そこでのマイノリティたちの生きる術は、芸術や芸能が生まれる母体である。さらに言えば、人間の文明はすべて川のほとりで生まれた。
10数年前の法人化のとき、京芸をだじゃれで"@KCUA(水)"とし、「生命を養う水のように芸術が人々の暮らしに浸透し、創造力豊かな社会に貢献すること」を京芸の基本理念とすることを提案した(*)。だからそもそも、京芸には水のイメージも濃く漂っていた。これはぼくだけかもしれない。そして、テラス terrace, terrasse がラテン語の terraに由来することもふまえて、京芸は移転後、人間が奪い合う「土地」ではなく、人間以前の「大地」に返って「芸術」とその教育を原点からやり直すという、無理な願いを「テラス」には込めていた。
移転が完了したから、もう出してもいいだろう。
2015年6月末、当時理事だった高橋悟さんから、建築コンペのために移転基本コンセプトを、ぼくと小山田徹さんでわかりやすくコンパクトにまとめることを頼まれた。2晩徹夜してでもと言われたが、彫刻専攻のミーティングルームで、まずキーワードを出そうとして、比較的すぐに「terrace」の語が出た。そのすぐあとにクロッキー帳に描いたスケッチがこれだ。
なぜ頼まれたのか不明だが、その年の3〜5月、最初の移転プレ事業の"still moving"に二人とも参加し、地域や場所性から着想した作品を展開したからかと想像する。「terrace」には建築のイメージに直結する具体性があった。
同じ紙の裏にはすでにロゴのイメージの下書きも描いていた。
スケッチ下の落書きをあらためて読み取ると、こんなことを書いている。
今もそうだが、ぼくの発想は、意味のある言葉ではなく、音で意味が横滑りすることが根幹にあり、だからしゃれが頻発する。
テラスを「照らす」として、「テラス音頭」というふざけたものを提案書に入れた。これはその後、もみ消される。
2015年当時は、元崇仁小学校のあったエリアに京芸の一部が「先行移転」することになっていた。
そこを”Terrace #0”としようというのは高橋悟さんの発案だった。"0"を東九条の「ゼロ番地」、また「穴」とみなすというアイデアは気に入った。作家どうしのアイデアの相乗効果だった。
8月の拡大理事会までに移転案をまとめなければならず、7月は、高橋悟さんとぼく、またstill moving展のアートディレクターだった建築家の長坂常さんの事務所に模型をつくってもらうなど、バタバタと作業した。
「材料や工法面では未来を先取りする」と書いたのは、新しい木造が念頭にあったのだが、残念ながら実現したのは鉄筋コンクリートだった。コストや工期のためだが、これはそのうちもっと残念に思うようになるだろう。
前年2014年秋に「先行移転」は音楽学部の「音楽ホール」からという、京都市からの提示があり、音楽教育の一体性が損なわれると、音楽学部が猛反対した。学部のブレーンだった津崎実教授が市長への要望書案をまとめ、それをぼくが年末に大幅に手直しして、2015年1月末に京都市に出した。幸いそれは認められたが、先行移転の考えは2015年中は維持された。
一括移転の構想となったのは、2016年1月。京芸は京都市の施設だから、どうしても市にふりまわされる。先行移転はなくなったが、terraceの構想はそのまま維持した。そして、あれこれとした注文に対応しつつ、2016年10月に現在公開されている「移転基本コンセプト」をまとめ直した。それをもとに2017年5月に公募が始まり、槙文彦や隈研吾など大御所も名前を連ねる25組の応募者のなかから、乾久美子さんを中心とした横浜国大系のチームが選ばれた。
乾さんの基本計画は「まちのように育まれる水平につながっていくキャンパス」といい、「テラス」という言葉は出てこない。川や崇仁という地域性ではなく、京都の都市構成との対応を念頭に置いている。できあがった建物は、テラスの構想どおりだが、理念としての「テラス」をもみ消す姿勢が気に入らない。それは建築ではなく、運用の問題と言いたいのだろうが。
オープニングセレモニーでは、音楽学部の演奏以外に、1階通路で崇仁の子どもたちのお囃子演奏があった。伝音に竹内有一先生がいて下さるおかげで、地域とのつながりが加味され、ほっとする。7階に世界人権問題研究センターが入ることを教員の多くは知らないという。引越しにせいいっぱいで、外へは目が行き届かない状態だったらしい。
セレモニーの日は日曜で、世人研のある7階フロアには行けなかった。だが、高さ2.6mの大きな床の間風展示空間をつくれるか心配で、一人で天井の高さを測定器で測ったり、総務課職員に資材搬入経路をたずねたり、エレベーターに3メートルの柱材は入るかと尋ねたりした。まるで業者だ。10月6日に資材搬入して、現場施工する予定なのだ。
総務課や教務課など、事務局員は芸大を支える大事な人たちなので、彼らの働くスペースは人もうらやむ優れたデザインであることが望ましい。
事務局スペース。使い勝手や居住性はどうだろう。
赤松学長が学長室を見せてくれる。ちょうど川田知志君もいた。ちょっと学長室はかわいそうだ。天井は低く、眺めも悪い。
芸大の学長室らしく、ユニークな空間に変貌するか。窓の外を畑にすればいい。
鷲田前学長が壁画を描かせて学長室をサロン的なものに変えたのは、すばらしいアイデアだったと思う。
]]>
9月22日(金)夜9時すぎ、尾道着。
駅舎の二階にあるm3ホステルか、商店街のあなごのねどこに泊まりたかったが、前者は2年前に閉鎖、後者は満室だった。みはらし亭も満室。あなごのねどこもみはらし亭も、尾道空き家再生プロジェクトによる。
しかたなく別の安宿を探して、Singai Cabinというのを見つけた。ドミトリーの4人部屋の一つが空いていた。
だが駅から遠い。
夜の商店街。Shoosie Sulaimanの展覧会の大広告がぶらさがる。今回尾道に来た目的が、シュシの展覧会を見るため。
満室だったあなごのねどこ。奥に「紙片」という本屋が同居していて、数年前に台湾の少数民族ブヌン族とチェリストデヴィッド・ダーリングのCDを買ったことがある(その後、CDプレイヤーが壊れて聞いていない)。
空き家再生において、ゲストハウスやギャラリー、カフェと並んでよくある業種が古本屋だ。尾道にはリノベから生まれた魅力的な古本屋が多い。
Singai Cabinの近くに深夜23時から開店する弐拾dbという古本屋が空き家再生PJから生まれたと聞いたので、出かけた。
元泌尿器科の医院だったという部屋割りがそのまま本屋の空間になっていると思われた。
ゲストハウス Singai Cabinの4人部屋。上段がベッド、下段が書斎風スペース。部屋もホテルの入口も自分で暗証番号を使って出入りする。洗面所・シャワー・トイレは共用だが、比較的新しいゲストハウスで、清潔感がある。
9月23日(土)
市立美術館でのトークは午後2時からなので、尾道市内を散策。
宿がある久保という地区は昔は遊廓だったらしい。京都風の名前の八坂神社にあるかんざし灯籠。
尾道は戦災にあっていない。よって古い建物がそこかしこに残り、補修や改築が繰り返され、町全体がブリコラージュ的だ。
しかも坂が多く、道が細く入り込んでいるので、車が入り込みにくい。それが理由で経済的な再開発を免れる一方、空き家になった家もそのまま放置され、「ふたしかな屋根」があちこちにある。
尾道市美でのシュシの展示は、彼女がAIR Onomichiに参加した2013年以降の10年間の尾道での仕事を中心としたものだ。
彼女は尾道の風景に見せられ、3ヶ月の滞在が、毎年尾道に来るようになった。彼女の目を引いたのが、一つ一つ表情がちがう瓦が織りなす屋根がつながってできる風景らしい。展示室を突き抜ける巨大な瓦屋根のインスタレーションは、無数の波が広がる海原のようにも見える。
入口でチケットを買っていると、外からシュシ一行が入ってきて、ぼくを見つけると、"Aki, 久しぶりじゃない !"と抱きついてくる。
彼女は、2019年にマレーシアの先住民オラン・アスリの建築技術を現地で学ぶワークショップに誘ってくれた。いずれ別にまとめないといけないが、ぼくはそれに大きな影響を受けた。いっしょにワークショップに参加した尾道市立大学教授でアーティストの小野環さんはAIR Onomichiの主宰者でもあり、今回のシュシの展覧会の外部キュレーターの役割を果たしている。小野さんとは、2018年に東京都美術館で「複数形の世界のはじまりに」展を一緒に行っており、マレーシア行きは、そもそもシュシが「複数・・・」展を見に来たことがきっかけになっている。
9月23日は14時から、空き家の再生をテーマにしたトークがあり、シュシ、小野環さんに加え、尾道空き家再生プロジェクト理事の豊田雅子さんが登壇。そのロビー空間には、シュシの仕事を手伝う若手作家の杉井隼人が廃材を組み合わせて制作した椅子が並べられている。大工技術を持つ杉井君とはマレーシアでもあったが、シュシは自分の個展に杉井君の特別室をしつらえ、彼を紹介している。
シュシの制作コンセプトである"Organizing Abandon"は、廃屋をシドラハウスとして再生するのと平行して、廃屋を構成するすべての物体を捨てずにキープし、分類保存するアーカイブ的なインスタレーションだったが、今回の展示を見て、その考えがさらに深化し、見捨てられ・忘れられたもの(abandon)の過去や文脈を掘り起こし、そこからつながる関係性を根こそぎ可視化しようとするものになっている。
美術館での個展というと、作家が「自分を見て!見て!」と言う感じのものが多いが、シュシのは、彼女が尾道で出会った風景や事象、人物を「見せる」ものになっている。
マレーシアでも、シュシは個人活動以外に若手作家とチームを組んで支援したり、強制移住によって失われていく先住民の技術を保護しようと活動していた。彼女を見ていると、欧米的な個人主義とは異なる次の時代のアーティスト像はかくやと思われる。
シュシの展示は美術館内だけでなく、尾道の斜面地のあちこちに広がっている。作品の展示というより、進行中のプロジェクトを紹介するもの。これは小野環さんとシュシがいっしょにやっている瓦顔料づくり。なんとなくぼくと発想が似ている。
シュシの活動拠点であるシドラハウス。ここはかつて屋根瓦を敷くのを手伝ったことがある。
シドラハウスの本棚には、ぼくの『つちのいえ』も並んでいた。
トークの中でシュシがいいことを言っていた。展示は地域の廃屋から集めた廃材などを使ったが、展覧会終了後はそれらを捨てず、アーティストと地域の人たちがそれらを共有・活用する「パブリック・クリエイティブ」を立ち上げると。
これも東九条で伐採から救い出した樹木の活用を考えるぼくらの活動に似ている。
いや、そもそもつちのいえも、京都近美で現場制作した《アクアカフェ》の土素材を循環的に使うことから生まれた。
展覧会のための作品づくりという一方通行的な美術制作のあり方を脱する点でも、シュシの仕事に共感できる。
]]>
ラバラカのタペスリーの額にはめ込むアクリル板は9月11日(月)に届いた。正確にいえば、西濃運輸京都南支店まで引き取りに行った。
その後、アクリル板をはめ込んで額を取り付け、吊るための針金を背面につける。
ラバラカはビルの地階にあり、現場の壁はコンクリートで、設営は容易でない。
それで高さの調節を容易にするため、高さ1mの台をつくることを思いつく。
アクリル板をはめ込んで完成した状態。吊るす高さは現場でないと決めにくい。大きくて重たい作品を設営するのにこの台は役に立つはず。
コンクリート壁にビスを打つには、下穴を開ける必要がある。それには振動ドリルが必要だ。
だが振動ドリルは30年前の自由工場以来使っていない(あのときはビルの壁にたくさん水道栓を埋め込んだ)。
案の定、動かない。分解して接触不良箇所を探して、いじっているうちになんとか動いた。
念のため、インパクトドライバーでも使える6mmビットも用意。
9月19日(火)定休日の火曜日に額入りタペスリーを運びこむ。
壁に直径6mmの下穴を2つ開ける。ドリルを直しておいてよかった。
予想外に高く吊ってほしいと。高さ1mの台では足りなかった。だが台を持ってきたおかげで作業がはかどる。
(作業中の写真はすべてラバラカのサリマさん撮影)
縁が波打つエンジ色の額に、白い丸がゆらゆら並ぶ。
Mattise, Café marocain, tempera on canvas, 176x210cm, Musée de l'Ermitage, St.Petersbourg
参考にしたのは、マチスの《Café marocain》の「描かれた額縁」。
マロニエでのぼくの個展を見たラバラカのご夫妻から、「モロッコの風物をモチーフにしたタペスリーをもらったのでその額縁をつくってほしい」と頼まれたときに、すぐに思い浮かんだのがマチスのモロッコ体験。《茄子のある静物》をはじめ、絵の内と外を媒介するマチスのCadre peint(画面内に描かれた額縁)は、ずっと気になっていた。なので、この機会にタペスリーの内側と店内をつなぐ独自の額縁を造形しようと思ったのだ。色は店内の色彩環境から抽出したエンジ色(カーマインにセピアを混ぜて色味を抑える)。白い丸は塗り残しで。一番こだわったのは、丸の大きさや密度。
向い側の壁にモロッコの化粧鏡を掛けたいというので、こちらの壁にも下穴を開ける。
このときは振動ドリルがまた動かなくなったので、インパクトドライバーで。いろいろ試せてありがたい。
鏡を吊るす。扉がついていて、半開きにしておく。
タペスリーに描かれたモロッコ特有の風物をムーちゃんが説明してくれる。
「美術作品」ではないが、今回の額縁づくりは愉しかった。展覧会だと会期終了後は人の目から遠ざかる。だが、この額はラバラカが開いているときはいつも見える。
《崇仁テラス》も同じく「美術作品」ではないが、春の光と風のなかに3ヶ月は高瀬川の上に浮かんでいる。
やはり美術は展覧会からも自由になった方がいい。そうすると、身の回りのものすべてが「美術」になりうる。これはかつてモンドリアンが理想としたことだった。音楽家のサティもコンサート会場向けではなく、日常生活とつながった「家具のような音楽」をめざした。このアートのオルタナティブは引き継いでいきたい。
作業終了後、サリマさんが焼き肉をごちそうしてくれた。韓国の人らしく、すごく肉が好きで、焼き肉について詳しく教えてもらう。
]]>
9月16日から始まる三島喜美代展(岐阜県現代陶芸美術館)の内覧会で、初めて多治見に行く。
美術館は駅から遠く、バスも少ないので、レンタサイクルすることにし、駅前の虎渓用水広場で腹ごしらえ。
虎溪用水広場。悪くない。
大先輩作家・三島さんとは30年以上から懇意で、図録もデザインしたりしている(*)。この7月にも十三のアトリエを訪ねるつもりだったが、直前に体調を崩され、会えなかった。今度の内覧会では会えるかなと思って出かけたが、マネージャーをされている義理の息子さんから、前日に転倒したので来場を控えさせたと聞いた。三島さんは制作することで命を保っておられるので、制作ができなくなるのが心配だ。
会場は初期の油彩から新作まで予想を越えて充実している。もともと絵画のセンスも抜群だが、カンヴァスの表面にコラージュしていた新聞や雑誌の紙面を陶の表面に移して立体的に展開するようになった70年代前半以降は、湧き出すように制作を続けてきたことがわかる。見なれた作品群だが、通してみると、アイデアのひらめきとつくる喜びが創作の原動力になっていることがビリビリとわかる。
ところどころに差し込まれた版画やレリーフ、アトリエの状況の写真での再現を見ると、三島さんの関心のありかも察せられる。
廃棄された段ボールがさまざまな角度で積み重なった状態。意図的でないモノの配置や集積に対する三島さんの視線を感じる。
アトリエの壁に無造作に吊られていたものが「作品」として展示されている。傾斜の角度が重要だ。
何でも作品になるという知覚の地平。ゴミや廃棄物の中から世界を見ること。
新作。解体現場で見つけて分けてもらったのだろう、土岐のアトリエの屋外に長く放置されていた建物の鉄筋の屑。シルクスクリーンのシールで文字情報を貼り込んで、現代の情報ネットワークのカオス化した物質的痕跡として提示している。これが90歳を越えた人の仕事。自分は三島さんのように最晩年まで制作を続けられるか。
多治見市内の移動は、駅前からレンタサイクルにした。陶芸美術館(駅から4.1km)のあるセラミックパークからモザイクタイルミュージアム(駅から5.6km)に行こうと県道66号線を走り出したら、チェーンがはずれた。初めからブレーキの調子も悪く、整備不良と思われた。
坂が多いので、自転車なしでは移動がきつい。電話で多治見レンタサイクルに電話して、代替え車を持ってきてもらうことにした。
炎天下のなか、20分ほど待つ。
届いた自転車で移動を始めてまもなく、今度は電動機がエラーメッセージ。再度電話したら、車でモザイクタイルミュージアムまで送ってくれることになった。これが不幸中の幸いで、道中、運転手が多治見市のタイル産業の歴史をいろいろと話してくれ、無料のガイド・ツアーになった。
藤森照信設計のモザイクタイルミュージアム(2017年)。地面を凹ませている。建物のイメージが土採り場の土の山状のかたちになったときに、平行して地面を凹ませるアイデアが出てきたそうだ。
建物のかたちをなぞる入口の屋根。壁にはタイル以外に茶碗や皿を割ったものも埋め込んでいる。
玄関ホールの壁の白い線は漆喰。
土の洞窟のような、登り窯の内部のような大階段室がまっすぐ4階まで通じる。順路としても、まず一番上まで行ってから下へ、と勧められる。
階段の始まりの部分の壁に常設された伊藤慶二の《そく》(2016)
最上階の4階のタイル室。屋根に穴をあけて、タイルを吊るしている。
タイルが水に濡れてもいいことを利用して、屋根にぽっかり穴をあけ、たくさんの種類のタイルをワイヤーで吊るす。タイルの固定方法はワイヤーを挟むこと。
多治見駅への帰り道、レンタサイクルが役に立った。旧笠原鉄道の線路跡を自転車道にしているのだ。
川(名前不明)を縫うように走る。気持ちいい。
一時壊れてどうなるかと思ったが、結果的に自転車をレンタルしたのは正解だった。
]]>
8月下旬からもらった案内状に応じて展覧会を見に行くことが続いている。
堺に行った翌日の10日は、中国道を一路岡山へ。
正午すぎ、真庭市の蒜山ミュージアム(隈研吾設計)の原田要展へ。
CLT(Cross Laminated Timber、直交集成板)によるパビリオン(部分)。材木は真庭産だそうで、各板は160cm×350cm、厚さ21cm。パビリオンは2021年に東京の晴海からこの蒜山高原に移築された。
サイクリングセンターは、逆さ茅葺き。茅を屋根の上部ではなく、下部の仕上げ材として用いている。上部は金属板で葺いて茅の耐久性を高めたそうだ。施工は岡山の梶岡建設だそうだが、逆さ茅葺きはだれがやったのか?
板材の集積面を見せる手法で屋根をつくっている。
建物と同じく木を素材とした原田要の作品展示は、空間の分節を活かしつつ、建築とは異なる美術固有の手法と彩色と有機的なフォルムによって、目覚ましい成功を納めている。関西の普通の美術館ではこうはいかなかっただろう。
午後は奈義町現代美術館(設計:磯崎新)の「絵画:想起のかたち 佐川晃司×安喜万佐子展」へ。
前回NagiMOCAに来たのは、2020年初春の総合基礎研修旅行の下見のとき。コロナ禍で研修旅行は中止になったので、3年ぶりだ。
案内をもらった二人のトークは2時半からで、なんとか間に合った。
NagiMOCAは、磯崎新がかつて「第3世代の美術館」と呼んだように、所蔵品展や企画展を行わず、建築と一体化した三人(宮脇愛子/岡崎和郎/荒川修作+マドリン・ギンズ)のサイト・スペシフィックな常設作品のみからなる。よってギャラリーは貧弱だ。
しかし、二人の絵画の巧みな配置によって、これもなかなか見ることのできない充実した絵画展になっていた。
トークを通じてあらためて佐川さんと安喜さんの師弟関係と、二人の絵画への取組みの起点を知った。
佐川さんを「絵画の原理主義者」と呼ぶ人がいるというのも興味深い。
安喜さんが送ってくれた展覧会パンフレットのはがみちこさんのエッセイもいい。
岸本和明館長は、自由工場時代からの知人。いったん退任になったが、また再任になったという。
NagiMOCAができたのは1994年。ちょうど自由工場をやっていたときで、ぼくもサイト・スペシフィックな作品に取り組み始めた時期だ。
3人の常設作品は何度か見たが、あらためて素材の面から見てみた。
宮脇愛子のステンレスの線型彫刻「うつろい」は、建物の内と外、主空間と副空間、光と闇を編み込みながら、優雅な線のリズムを刻む。
きれいな水の維持に手間がかかるだろうなと思う。
岡崎和郎の「ひさし」が取付けられた壁は、レンガ大のコンクリブロックを積んだものだったのか。継ぎ目の線が意外と壁の単調さを補っている。
月の部屋の地面にクレーター状の凹みができていた。
荒川修作の筒状の龍安寺の庭はあいかわらず樹脂臭かった。
彼らの「傾き」への考えを知りたいが、言葉使いに共感できないので、彼らの本を読むことはないだろう。
帰路、吉川温泉よかたんに立ち寄る。
]]>
7月に続いて(*)、2回目の堺訪問。
画家の中島麦から届いたこの秋の展覧会案内に、空襲で焼け残った堺の江戸時代後期の古民家で展示するというのがあり、てっきり堺は空襲で丸焼けになったと思っていた自分の無知を恥じながら、阪堺線の神明町駅を降りた。子供のころに母から聞いた空襲と戦後の工業地帯のイメージでぼくの堺観は固まってしまっている。
電車の出口で着物姿の上田假奈代さんとばったり会った。同じ電車に乗っていたらしい。ココルームは長く行けてないが、活発な活動のことは間接的に聞いている。
上田さんは3年前から堺アーツカウンシルのディレクターをしているという。堺に現代アートはないと思っていたので、これも意外だった。
チンチン電車通りに面した旧武石商店(Karinoma)。神明町や綾野町のあたりは古い街並みが残る貴重な地域だそうだ。
増改築が繰り返されたツギハギの時空に色と多様なタイムラインを持つ絵画作品を配したと語る中島麦のインスタレーション。
外から入り込む光と植物、それを受け止める多様な物質感に満ちた空間。連続と非連続が織りなす複合的なシーンの連鎖。
もうでき上がっている。
刃物関係の職人が住む工房兼住居だったらしく、3家族が同時に暮らしていたこともあるという。
2階に円窓のある部屋の跡があり、羽振りのいいときは人をもてなすこともあったのかと思う。
建物と内部空間自体があの「超加工物」。
運営するのは、堺出身で、堺に残る町家や古民家をリノベーションして宿泊施設にするほか、堺のまちの文化的活性化に取り組むSakainomaの間宮菜々子さん。
Karimonaをどのように改修し、維持していくかを検討中だそうで、企画展は2回目と聞いた。
思えば、完全に縁が切れていた堺の町に住む母の義妹さんから突然連絡があったのが今年4月。
亡き母が堺に導いているのか。
帰り道、南海本線の堺駅まで歩く。
自分の中で凝り固まった堺のイメージが溶けていくのを感じた。
]]>
先月から請負仕事が複数発生している。
・モロッコ料理店ラバラカのタペスリーの額装
・カトリック希望の家こども園の看板づくり
・伝狩野永徳『雲龍図』展示空間の設計施工(10/11 世界人権問題研究センター移転・開所式 京芸@崇仁 terraceC 7F)
人には「工務店状態」と言っている。旋盤工のせがれなので、もともと受注体質で、自分の技術が人に役立つだけでうれしい、というところがある。
根本的に優先するのは美術作品制作(特に絵画とドローイング)だが、これはセザンヌの言う"petites sensations"をもとに、自分が自分から請け負うもの。
"petites sensations"を脇に置けば、つちのいえ以来、すべての制作技術に優劣をつけず、絵画も彫刻も工作も建築もほとんど無差別に「造形 art plastique」とみなして等しく取り組むようになった。そしてどれも"circulation des ressources"というのがキーワードになっている。
・ ・ ・
ラバラカは、つちのいえにも遊びに来た親しいモロッコ人夫妻が営む四条河原町近くのレストランだが、人からもらったモロッコのタペスリーを飾りたいといい、額装を頼まれた。普通の額装だと高くつくが、マロニエでのぼくの個展を見て、四角四面でない自由な額でいいから、というので引き受けた。
タペスリーは縦60cm、幅150cmもある。額縁にはTaroハウスのリノベのときに使わなかった久世の古民家の床板を使うことにした。
百年近く前の製材なので、縁が直線ではない。それを活かして波打つ額縁にする。装飾はマチスの《Café marocain》のcadre peintを参照。
色はレストランの椅子やムスタファがよく身にまとっているえんじ色。
幸いというか、固まりかけているアクリル絵具のカーマインを絞り出す。
塗るのは愉しい。
ちょっと派手で、店内の雰囲気が大きく変わる。気になってラバラカの二人に途中経過を報告したら、満足とのこと。
これにアクリル板をはめ込むのだが、この工夫が一番やっかいだった。
3mmだと重くなるので、2mm厚に。
サブロクに近い大きさなので、個人宅輸送だと追加送料が4000円もかかる。支店留めにすると送料は2000円前後ですむ。物品も切断費も送料も一番安いのがアクリルストア(埼玉の益基樹脂が運営)だった。
アクリル板は来週届き、額を完成させるが、壁への取付けが心配だ。コンクリ壁だったらコンクリドリルを使う必要がある。
・ ・ ・
希望の家こども園の看板づくりは、若手漆工作家の佐藤由輝さんにリードしてもらい、ぼくはもっぱら作業員。
今年冬に伐採から救い出して、南岩本公園に仮置きしながら乾かしている樹木を輪切りにして使う。
東九条に住む作曲家の朴実さんから頼まれた書いたエッセイ。
大きいのは直径30cm以上ある。チェンソーを使えば早いのだが、公園の近所に住む人から苦情が出ることを心配して、ノコギリで切る。
漆工作家だけあって、佐藤由輝さんはノコ使いがうまい。
自宅でも切る。まっすぐ切るのはむずかしい。15〜20分前後かかる。厚みは佐藤さんの指示で約3cm。
文字は子供たちに書いてもらうことにした。紙いっぱいに書く経験がないので、練習したそうだ。
大きさもかたちもまちまちな多種多様な木。それに多様な文字を一文字ずつ配する。文字通り多様性がテーマだ。
京芸の引っ越し作業もあり、佐藤さんのペースで、今後文字を彫り付けたり、子供たちにも色塗りに参加してもらったりする。
完成は11月か。
・ ・ ・
世人研の淀野事務局長に依頼されたのは、もと崇仁小学校の「静室」という和室飾ってあった伝狩野永徳『雲龍図』の展示方法。
当時の写真にもとづき、床の間風の空間をしつらえる案を提示する。
昔の状態の写真(柳原銀行記念資料館の2013年度特別展図録から)
現在は学校歴史博物館の所蔵となっている。
学芸員の人に尋ねると、内寸1382x1660、外寸2769x1884mmと大きい。縦に延ばすと高さ3mの壁が必要になる。
もとは屏風仕立てで、軸装されたのは昭和になってかららしい。
8月31日に歴史博物館で現物を広げて見せてもらった。表具は比較的新しいので、吊り下げることは可能。
柱は杉90mm角を使う。高さ270cm、壁は横240cm。
設営場所は京芸新キャンパスのテラスC 7階の世人研の多目的ホール。天井高は3mらしい。どんな場所かわからない。
現場で組み立てるので、アトリエで加工・仮組する必要がある。この作業は以前、Maison-Archeのとき(2011年)にやった。
ラバラカの額装が片づいたら取り組もう。
あ〜、もっと広いアトリエがほしい。
]]>
年縞博物館に初めて行く。
三方湖の畔、湖に注ぐ「はす川」に平行した立地。2000年につくられた若狭三方縄文博物館の向いにある。
設計は内藤廣。本人も言うように(『年縞博物館解説書』p.22)、ピロティのコンクリートの打ち放しは、とても丁寧で美しい。
施工を請け負った地元の建設会社の職人魂が発揮されている。
7万年ギャラリー。奥に向かって7万年を遡る。ということは、湖底に向かって垂直に降りる視線を水平化したかたち。
水月湖から採った3列の年縞は長さ45mになる。7万年の縞を織りなす年縞は、さまざまな偶然が積み重なり、年代決定の精工なモノサシとして世界標準に採用された。中川毅ら国内外の考古学者らの努力の結晶でもある年縞そのものを、シンプルかつ安全に展示するという目的に沿って建物が設計されている。
川や湖が近く、豪雪もある土地なので、すべて木造ではなく、鉄筋コンクリートと福井産の木造の組み合わせ。
展示は美しく精確だ。
「測る」という行為は、精確な単位を必要とする。その単位は、太陽のまわりを規則正しく公転する地球の運動とそこでの気候の変化・生命活動からもたらされる。一年という単位に対応する層の厚さは0.6〜0.7mm。
無酸素状態で生きものがいない深さ34mの水月湖の湖底は、100mの泥層が静かにたまる精確無比な「時の器」だ。
ボーリングで円筒形に掘り出された泥塊は、光を通すよう、厚さ50μmまで薄く研ぎ上げられたという。100枚の飴色の年縞プレパラートが3段にわたって50m近く並ぶ姿は圧巻。年代が正確にわかるので、その年の環境の情報にQRコードでアクセスできる。
鬼界カルデラができた7300年前の大噴火は、南九州に住む縄文人を絶滅させたそうだが、種子島近くから若狭の三方五湖まで火山灰が飛んできたとは。
7万年ギャラリーの裏は、年表や資料。
年縞を採取した苦労も展示されている。
向いの縄文博物館は、盛り上げた丘に埋め込まれたかたち。2階から入って地下に降りる。
丸木舟の遺跡がたくさん出たらしい。
石斧を復元。よくこんな道具で木を掘ったなと思う。分業はあったのだろうか。
服がやたらおしゃれだ。
広場にモニュメントがあったが、近づけないよう、ロープが張られている。
だれの作品かと職員に尋ねると、八木マリヨさんだと。
「名前は知っている、せめて作品タイトルや作者名を明示するなど、もう少し大事に扱ってあげてくれないか」と言った。
そうしたら、あとで駐車場まで縄文博物館の館長さんが追いかけてきて、話しかけられた。
永江館長によると、傷んできているので、修復を考えているところだと。
年縞博物館(2018年開館)が話題になって来場者が増えたそうだ。
年縞博物館は建築も展示内容も情報サービスも本当にすばらしい。関連資料もダウンロードできるのだ。
ダウンロードした三方湖(手前)と水月湖(奥)の境(瀬戸)。水の色が変わる。
境目に行ってみた。
レインボーラインに上がると、三方五湖を見下せる。手前が水月湖。奥が三方湖。
三方湖(みかたこ、淡水)・水月湖(みなつきこ、汽水)・管湖(すがこ、汽水)・久々子湖(くぐすこ、汽水)・日向湖(ひるがこ、海水)
山崩れの後?
その後、おおい町のうみんぴあ大飯に足をのばしたが、肝心のSee Saw Parkは閉館で入れなかった。
原発誘致による振興費に起因するのか、うみんぴあ大飯はムダにお金を使った巨大施設が多い。See Saw Parkはましな方(*)。
「こども家族館」というのは安倍政権の意向に沿った施設に思える。
]]>
昨日に続き、具体に関わる仕事。
大和郡山の喜多ギャラリーで、朝10時からアトリエ浮田の作品展示を行う。
正確には、故・浮田要三先生が携わっていた児童詩誌『きりん』で活躍した天才少女詩人・山口雅代さんの詩集『ありとリボン』の復刻新刊の出版と、雅代さんの亡き息子・昌弘さんの絵と雅代さんの詩を合わせた詩画集『心がゆれた日』の出版を記念した展覧会。浮田要三先生の絵とアトリエ浮田に通われていた人たちの絵も合わせて展示した。
展示は全面的にまかされていた。
予想以上に集まった作品数が多く、全部並ぶか懸念されたが、なんとか展覧会オープンに間に合った。
アトリエ浮田に集った人たちはみな何らかの障害を持つが、作品はそれぞれ個性的で、結果的には変化に富んだ展示になったと思う。
車イスの山口雅代さん。今は81歳だが、『きりん』で注目されたのは小学生のとき(『ありとリボン』の初版は1956年)。
『きりん』と浮田要三研究に取り組む一般社団法人ぷれジョブの宮尾彰さんも信州から駆けつけてこられた。
「はじめに」だけを載せておく。
本と亡き昌弘君の絵が主役とわかったので、できるだけファイルから絵を引っぱり出して展示した。
横に故・浮田要三先生の作品3点。
出版の機縁になったのは、昨年、長野の小梅町高原美術館で開かれた『浮田要三と「きりん」の世界』展。
この展覧会は、『きりん』と浮田先生に対する宮尾彰さんの情熱から始まった。個人の情熱がいったん過ぎ去ったと思われていた過去の営みとそれに関わる人たちを再活性化してつなげ直す。浮田要三先生も喜んでおられるだろう。
思えば昔、浮田要三先生からアトリエ浮田を引き継いでくれないかと言われたことがあった。そのころは京芸に勤めていたし、場所も大阪の今里で遠かったから辞退した。ただ、浮田先生のことは美術活動を通じて何からのかたちで引き継いでいきたいと思った。
先生が2013年7月21日に逝去されたあとすぐ、アトリエ浮田の展示をまかされて取り組んだことがある。ちょうど10年前の夏だった(*)。
喜多ギャラリーは、バラックとも言えたアトリエ浮田よりはるかに頑丈だった。
]]>