制作で忙しいのに、たびたびアーティスト・トークやシンポジウムに呼び出される。
3/16日(土)は、今 +1 art でやっている「総合基礎課外授業」展にまつわるトーク「総基礎という現象」。
案の定、参加者は少数で京芸の内輪っぽい。せっかくなのに主役の学生は6人中2人しか参加しない。まあ一回生だし、「トークイベント」なるものにピンと来ないのだろう。そもそもアーティストがつくって展示するだけでなく、しゃべる(しゃべらされる)のが一般的になったのはいつからだろう。
3月20日(水)は、京芸陶磁器の重松歩・長谷川直人退任記念展の初日で、2人に頼まれて15時から対談しないといけない(フライヤーには「司会」とされた)。
3月22日(金)には、芸術資源研究センターで、「分散型芸術資源のノードとして総基礎アーカイブを考える」というシンポジウムがあり、総合基礎を生み出した1970年の大学改革案の背景について報告を頼まれた。
総合基礎アーカイブは、自分が非常勤講師の後期の仕事確保のために言い出したもので、大学の経費から50万円だけ人件費に出してもらっていたが、ぼくが退任したら誰も引き継がず、滅びると言われた。一人寂しくデータの修正や引継ぎマニュアルづくりをしていて退任したが、それが奇跡のように引き継がれ、復活した。
アーカイブ作業をやってくれているのは、もと総基礎非常勤でもあった若手アーティストの黒川岳と平田万葉。それに情報技術者の藤岡洋さんがバックアップ(三人合わせてSARUというチーム)。石原友明さんがアーカイブ研究で採った科研費や助成金を使うことで作業が続けられるようになった。在任中のぼくは科研に申請して助成金を取る意欲がなかった。
芸術資源アーカイブは一部に関心を持たれているようだが、立場によってみな目の付け所がちがう。芸術研究者やマニアは作家や作品の周辺情報やドキュメントを芸術資源と見なすが、アーティストであれば、匿名の事象やアイデア、さらに芸術の外側の日常や自然、科学研究まで射程に含める者もいるだろう(ぼくは後者)。
平田さんから送られてきたフライヤーは、スケジュールなど詳細が書かれていず、内容がわかりにくい。
忙しいこともあるだろうし、グラフィックデザインに不慣れなこともあるだろう。芸資研のウェブサイトにも広報が載っていない(3/18現在)。
仕方なく別のメールで来た内容でフライヤーの裏面をつくって、新たにpdfに仕立てて、何人かに送った。
分散型 distributed model アーカイブというのは、データを一つにまとめない流行りのやり方だが、手続きや結果の状態を指すにすぎず、それだけでは「クリエイティブ」とは言えない。タグやメタタグを自在に更新していける藤岡さんが開発した非固定的な仕組みが要のはず。なぜ「動的アーカイブ」と言わないのか。
総基礎アーカイブは、京都クリエイティブアッサンブラージュにも活用されているそうだが、シンポジウムはどうせきっとまたごく少人数の内輪の会で終わるだろう。まあ、日の当らないあの孤独な作業に多少光が当てられただけでもありがたい。ずっと照らされ続けることは期待しない方がいい。
]]>
久しぶりに詩を書いた。
「水たまり」展のための制作中、ふと生まれた詩だ。
ガザで1〜2歳の幼児が土に座り込んで雑草を食いちぎっていたという新聞記事(*)を読み、心が張り裂けそうになった。
ひらいゆうさんがこの詩も展示しろというが、どうしよう。。。
今年初めて舞台デビューもしたことだし、初めて詩の展示もするか。アイデンティティなき変異体らしく。。。
パレスチナの旗の色の橋をつくって渡るパフォーマンスとワークショップをすることもふと思いつく。
いやしかし、画廊の中で何をしても餓えるガザの子供たちに手を差し伸べることにならない。
スピーカ持って美術館のなかで叫ぶ(*)こともぼくの仕事ではない。。。
]]>
制作年代不明。
たぶんSilent @KCUAに出品していたころなので、2011〜2017年。
---
マロニエ市に出品していた『つちのいえ2008ー2021』が2冊とも売れてしまった。
これも破格なので利潤なし。残りの在庫は12冊のみ。
八戸ブックセンターは売れ残り1冊を引き取ってくれた。
ホームページのトップに『つちのいえ』を上げるのはもうやめよう。
]]>
3月8日は父の命日。ちょうど17年前の2007年3月9日、パリで訃報を知った。
同じ3月8日の夕刊に、鳥山明の訃報が載っていた。
亡くなったのは3月1日だったらしい。
新聞に載っている『DRAGON BALL』第1巻のカバーのデザインは、ぼくの持っているもの(1991/12/15第57刷)とちがう。
悟空の髪形は、『鉄腕アトム』『カムイ』『明日のジョー』など日本の戦後漫画の伝統を引く。
ドラゴンボールは1980年代後半以降、世界中の子供たちを魅了した。
モロッコのマラケシュの旧市街の家の扉に悟空が描かれていたことを思い出す。
世界中に広がるメディア空間を悟空は飛び回っていた。
22 mai 2007, dans la vielle ville de Marrakech
]]>
マロニエ市の出品物に加えようと、サハラ砂漠の砂をサイダー瓶に入れた。
ラベルが必要と思い、サハラ砂漠を上空から撮った写真を探してデザインする。
こういうとき、このブログが便利だ。探すと、2012年にブルキナファソで開かれたSIAOに参加するため、パリ経由でワガドゥグに飛んだときの記録が見つかった(2012年10月27日 SIAO_1: 亡兎観現世)。
懐かしい。いい写真がいっぱいある。
このときとちがって、今ブルキナファソはクーデターで軍事政権になっていて、イスラム過激派のテロ対応のためとの口実で、ロシアがワグネルに代わる軍隊を送り込んでいる。メディアには、ロシア国旗を振るブルキナベたちの映像が流れる。だが、実際はまたちがった現実が流れているだろう。
SIAO参加のときのブログの別の記事には、ワガドゥグの通りを車で走る映像がある(*)。この当時は平和だった。
テロリストたちの増加とは別に、サブ・サハラ地域の砂漠化は続いている。
地球環境の不安定化は、人類の心と体を不安定化し、格差を広げ、対立を煽り、社会を揺さぶる。
朝日新聞に載ったアントニオ・ネグリの追悼文(*)がよかった。彼の言葉の要約が再録されている。
「代議制も三権分立ももうだめ。主役はあなたたち。怒りなさい。行動しなさい。そして自分たちで決めなさい。そこから次の民主主義が見えてくるはずだ」。
マロニエ市の出品物は案の定増えてしまい、キャプションづくりに手間取った。アーティストであれば、既存の意味や価値を攪乱しないとだめだと思いながら、じつは価格の決め方がわからない。。。
他の出品者は大半がそれらしい古書や物品や商品、通常の素材(木材など)。ぼくのは廃物や無用物を立たせただけのものやオリジナルジャケットの音楽CDなど。
大半が百円だが、ガチャのフィギュアとJAXAからもらった日本のISSモジュール「きぼう」のバッジを組み合わせたものは500円、試作や習作を組み込んだものは1000円にした。だがいくら売れても搬出入のための駐車場代のもとが取れない。
《きぼうをくだく》
《メートル原器》と名づけたものは、蛇のフィギュアの舌を1m伸ばしたもの。ガチャのケースに入る。
無用物もとにかく立たせてみる。「立つ」ことでモノの様相が変わり、あるかなきかの意味や価値を呼び込む。
それは二足歩行の人類史の深部に根をおろす不思議な存在の次元だと思う。
マロニエのwebsiteには、キャプションも欠けた状態の写真が載ってしまった。
取り合えず現時点の様相。
他の出品者と違って、行儀の悪い展示。だが一段高くしたので、ほとんどがゴザ敷きの展覧会場に変化が生まれたのと、下にも展示スペースが広がった。
しかし、自分が面白いと思うものを人も面白いと思うことは期待しない方がいい。たぶん破格でも売れないだろう。
]]>
立つかたち
「立つ」とモノの意味や価値が変わる。なぜだろう。
やたらとモノを立たせてみる。
鉛板
捨てられてしまうようなゴミを救うには、立たせればいいと気づく。
鉄鉱石に磁石。
《貝石》
「台座の考察」の続き。
モロ廃材を立たせる。台座も廃材クリップ留め。
「二つの傾斜地で」展以来、切り残した断片を捨てないで再利用するようになった。
写真も立つ。これも昔の写真作品《Parallel》シリーズの切り落とし。
額も立つ。作品のエスキスを折って無理やり額に入れて立たせてみる。
屏風も立つかたちの一つ。
留める、もたれ合う、折る、丸める・・・立たないものを立たせるいろいろなやり方があると気づく。
こういうのは思いつきの段階が一番楽しい。よそ行きになると(=作品化を意識すると)楽しくなくなる。
作品制作において、この初発の衝動や悦楽をいかにキープするかは今後の(永遠の?)課題でもある。
]]>
Taroハウスで開催されていた展覧会「リベルダージ:ディアスポラ、祖先、共存の地」もこの日(2/25)まで。
隣接するBooks & Coffee Sol.の2階のノランナランで、13時から主催者チームのアウグスト・オヤマ君と、ハルミ・ロペス・ヒガさんによるトーク。
二人とも日系だが、アウグスト君がブラジルの日系3世、ハルミさんがペルーの日系4世で、まだ日本語がうまくないらしく、英語で話す。通訳は、アウグスト君と同じ京大地球環境学堂の人間環境設計論分野修士1回生の若林君。(ハルミさんは、京都造形芸大で映像を学んでいるとか)。
リベルダージ地区は、かつて日本人街と言われたほど日系移民が多かったそうだが、今は中国や韓国からの移民も増え、東洋人街と呼ばれるそうだ。だが、日本人の移民が始まった20世紀初め以前のリベルダージ地区についてはほとんど語られることがない。
アウグスト君らのチームの試みは、リベルダージの歴史を掘り起こし、黒人奴隷の歴史とのつながりや、ジェントリフィケーションによって揉み消されようとしているこの地区の人々の複雑な歴史を提示することだ。
ブラジルは、他のアメリカ大陸の各地と同様、複数の先住民が暮していたが、1500年から1808年まで、ポルトガルの植民地になった。だからなのだろう、土地開発や所有の問題が格差の広がるブラジル社会の根本矛盾の一つになっているようだ。
アウグスト君のレクチャーから。
ブラジル史についてはまったく無知なので、土地改革がなかったとか、土地に関する法律がどう社会的差別を温存させているかについては、よくわからない。植民地主義の爪痕がかなり深くブラジル社会に残っていることはわかる。
だが一方で、人々が自分で勝手に住宅をつくり、インフォーマルな都市化が顕著ということには興味を覚えた。なぜかぼくの細胞の奥に潜む遠い記憶が呼び覚まされる。
ブラジルがポルトガルから独立するのが1822年。奴隷制が廃止されたのは1888年。このあいだにリベルダージ地区の暗黒の始まりがある。地区の中心の広場に絞首台があり、反抗する黒人奴隷が次々と処刑された。この地図は、そうした歴史を示す唯一の古地図で、彼らが掘り起こしたらしい。(展示パネルから)
「リベルダージ地区は、歴史的に辺境の地域でした。市の中心部と南部地域を結ぶ街道上に位置するこの地域は、「イブラブエラの小道」あるいは「サント・アマロへの車の小道」として広く知られています。
そして単なる通過する場所というよりも、この地域はいわゆる「呪われた」仕事場がモザイク状に混在していました。ゴミ捨て場であり、財産を持たない人々や裁判所から断罪された人々のための墓地であり、絞首台やさらし台の存在など、公開処刑や拷問の場でもありました。これらの公共施設は、奴隷制度(1550年から1888年まで300年にわたって続いた)がいかに恐怖と支配に基づいた統治であったかを示すものです。
こうした抑圧の文脈において、この地区は「リベルダージ」(英語で「自由」)が換気され、そう呼ばれるようになったのです。
最初に到着した日本人移民(1908年)の多くは、形式的な奴隷解放(1888年)後の黒人労働力の代わりとなりました。少数の黒人のルーツを持つ者だけが抵抗しましたが、他の者は再都市化のなかで葬りさられました。」(展示パネルから)
19世紀の黒人の反乱兵士の一人、チャギーナス。絞首刑のロープが3回も切れたといわれるリベルダージの黒い聖人。
リベルダージ地区の都市化は、こうした歴史の抹消と共に進む。
日本人移民は、この過去の歴史をなかったことにするのに都合がよかったようだ。
アウグスト君によれば、たくさんある日系人の県人会の男性リーダーは、自分たちの「成功」の歴史を語りたいため、こうした歴史の負の側面には蓋をする傾向にあり、アフリカ系などの移民集団との連帯にも消極的だという。
段ボールを支持体にした展示パネルのヴィジュアルとレイアウトは秀逸。
彼らの仲間にデザイナーがいるのだろう。
横浜のJICAでは、これらに加えて、ぼくが教えた日干しレンガと竹で「象徴的オブジェ」をつくって展示していた。
聞けば、リベルダージ地区を商業的に日本化している「鳥居」に、牧師が黒人と日本人の教会のアーチを加えて変形したそうだ。どうせなら、鳥居をもっとハイブリッドにブリコラージュすればよかったのに。求心的で愛国的な「鳥居」のかたちは換骨奪胎するべきだ。
終わってから気がついたが、リベルダージ展のプロジェクトチームのホームページがある。
なんとぼくも一員になっているではないか。しかも建築的展示と設置の担当(*)。笑える。
アウグスト君は京大の博士課程に合格したそうだ。
情報共有と身体的交流を促す視覚デザインや空間デザイン、さらに自由でラジカルなアート制作は、監理と分断、抑圧と排除の進む社会に対する「抵抗の手段」になりうることを研究実践してほしいと思う。
]]>
3月に大阪の+1 artで二つの展覧会に関わることになった。
一つは、課外授業「2023年度総合基礎実技 第2課題『身体』」3/6(水)〜3/23(土)。
これには3/16(土)に「トーク:総基礎という現象」というのがある。
続けて、ひらいゆうさんとぼくの二人展「水たまり」3/27(水)〜4/13。
野口さん・カワラギさんから、どういう展覧会になるのかわかりにくいので、DMをデザインしてほしいと頼まれた。
それでいつもの+1artのDMのフォーマットで作業して、2/17に完成データを渡した。
表面。A4変形三折。ブルーの線で山折りする。
中面。谷折二つ。
タイトルロゴは手書き文字からデザインした。「水」という字が、縦線とその左右の水の流れを表わすカーブ2本からできていることを改めて意識した。ひらいゆうさんには気に入ってもらえた。
自分としては奇を衒うことなく、比較的ストレートな絵画とドローイングの展覧会をするつもりなのだが、ひらいゆうさんはともかく、ぼくがいつも何をやるかが判然としないので、展覧会イメージがつかめないのだろう。それですでに画廊に送った作品画像を使ってデザインした。できたDMを見たカワラギさんらからは「ゴシック・ホラーに見えるかもしれない」と言われる。
前回の個展(2022年)の際はDMを野口さんにデザインしてもらったのだが、同じように「展示のイメージがつかめない」と途中で相談された。
さらにコラボレーション「発酵をよむ」展(2019年)のときも、全体のインスタレーションを担当するぼくの動きが一番おそく、画廊のお二人を戸惑わせた。
技法やスタイルが一定している作家であれば、わかりやすいのだろうが、ぼくはそうではない。ほとんどそのつどゼロからやり直す。
自分としては関心事は一貫しているし、作法としては根底にドローイング(平面/空間)があるのだが、それが人に伝わっていないのだ。コツコツ個展を積み重ねてきた作家とちがって、注文や依頼で展覧会やプロジェクトをやることが多かったことにも起因するだろう。
困ったことにデザインや建築的なこともできてしまうので、アーティストとしては異端視されている気がする。だが、自分は複合プレートでできていると自己分析してすっきりしたので、単一プレート中心の人間観・芸術観に付き合うことはやめた。
今、心に去来するのは、「研ぎ澄まされた幼稚さ」。「水たまり」はそれをめざす道程標にする。
水たまりはどこにでもある。ガザにも。それは子供を楽しませ、大人を困らせる。
ガザの水たまり(* Yahoo Newsより)
地上に偏在する「水たまり」は、根源的なはかなさでもって生成消滅する。
人の足元にある「水たまり」は、つねに空に表面を向け、それに見向きもしない人の姿を映して消える。たまに子供がそれに手をのばす。水たまりは、非人間的自然・前人間的世界へのもっとも身近な入口である。
]]>
ギャラリーマロニエでの版画のグループ展「Printmaking II :刷りとその解体」の搬出。
言葉を真に受ける単純な人間なので、ぼく自身は「解体 déconstruction」という語を意識したが、全体を見渡せたば、この語は強すぎて空回りしていたように思う。「版画家と版画家でない作家が版画技法を用いた作品制作を行う」程度の内容。去年に続いてぼくは2回目の参加だが、このシリーズは9回目らしい。
マロニエの再活性化をめざす版画家の吉田佐和子さんらの企画。一昨年夏のサイアノタイプのワークショップに軽い気持ちで参加して以来、吉田さんらの情熱に反応して、いつのまにか巻き込まれて協力している。京芸時代なら時間がなくて無理だっただろう。
今回の制作の振り返り:
1_能登の大地震の光景に影響を受け、垂直の安定した壁を前提にしないことと、吉田佐和子さんから、壁を使う人が多いので、床を使ってくれないかと言われたことをふまえ、床に自立型の作品構成を考える。
2_アトリエに一部残っていた「傾斜」をテーマにした+1 artでの個展の作品を再考。作品/作品以外のもの/作品素材を等価に扱うこと。展覧会用の「作品展示」ではなく、作業場/アトリエの状態をめざすこと。
3_特定のコンセプトもできあがりのイメージもなしに、一定の造形原理のなかで制作を進める。手探りでイメージを導く。災害の中でのとりあえずの復興に向けての作業とパラレルに。
4_今できる版画の技法〜サイアノタイプ、ドライポイント、モノタイプを組み合わせる。
5_過去の試作や作品の一部も取り入れ、作品から時間的統一性を排除する。素材とイメージの複合性と循環性を重視する。
こうみると、ぼくはずっとマチスの造形原理とブランクーシのアトリエの影響下にある。
搬入は2/4なのに、取りかかったのはおそく、1月下旬になってから。
ブラインドの加工、webdesignの自習、PowerBookProの故障、歯医者、健康診断・・・、いろいろあった。
1/27 倒れ合い、支え合う異質な面。
1/28 去年の作品で使った枝ともたれ合う面の構成を組み合わせることを考える。
版画の複数性の原点である版木と版画。この対(twin)の原理で制作することを決める。
自分の自発的なドローイングを模写した昔の試作も本のかたちに仕立てて、背中に版木と版画を貼る。
去年のサイアノタイプの試作も「対」でやっていた。ここからかたちを抽出し、空間構成の要素にする。
もたれ合う2枚の板は両面使う。楕円が二つ交わるかたちの版木を上にのせる。その版木でモノタイプを刷る。
2/1、支え合う2枚の板の背中(オモテ面)に、逃げるような2本脚のドローイング。いい線が描けて、今後の展望が開けた気分。
二つの曲ったような曖昧なかたちは、サイアノタイプ試作から抽出。曲げた脚の線と重ねる。
2枚の楕円の板に貼るドライポイントの構想。曲線と直線、二つの丸いかたちと四角いかたち。これらは背中合わせになり、同時に見られない。制作は2/1と2/2。
刷れたドライポイントを仮留めしていると、アトリエに差し込んだ日が当る。手をかざす。
「対」の原理が反響し合ってできているので、タイトルもしゃれで《Be twin》。
作品の出来は65点。しかし次につながる収穫はあったので、よしとする。
]]>
2月17日(土)
よく展示をさせていただく大阪の現代美術ギャラリー +1 artで京芸の総合基礎実技の「授業」をすることになった。
去年個展した京芸教員の安藤由佳子さんに、野口さん・河原木さんが、画廊で何か新しい取組みができないかと相談したことがきっかけだそうだ。
安藤さんは京都精華大学時代に松井紫朗さんに師事、その後デュッセルドルフ・アカデミーを修了してドイツで長く作家活動、さらにアメリカでも活動し、2021年に京芸の彫刻専攻に赴任したばかり。発想が日本人離れしておおらかで、京芸の将来を託したいと思っている人の一人。で、2022年1月のぼくの個展に来た安藤さんを画廊のお二人に紹介した。それを機に去年3月に +1 artで日本デビューとも言える個展、野口さん・河原木さんが主宰する高知・大月町のアートプロジェクトでも若手作家らを引き連れて活動、そして今回の企画につながった。
学生が画廊で発表することは珍しくないが、身体をキーワードに(画廊がある空堀という)地域を探り、その成果をかたちにするという「授業課題」をその画廊で発表するのはまれではないか。授業と創作、リサーチと作品、画廊と大学、さらに学生と教員の区別も揺らぐことは悪いことではない。それに、フィールドワークの体験を造形的に変換して出力するという訓練は、ドイツなどでは普通だが、造形を「変換」ではなく「表現」と考える日本の美術教育ではあまりやっていない。学生時代にそういう制作経験を積んでおけば、用意された画廊空間だけでなく、社会の中で場と作品を展開する美術家も増えるだろう。なので、協力を頼まれて即引き受けた。そもそもコロナ禍が始まった2020年度に総合基礎委員長をしていたし、総合基礎アーカイブには今もタッチしている(総合基礎アーカイブは今年度中に姿を現わすか?)。
何よりも、2年前のぼくの個展「二つの傾斜地で 空堀と竜ケ迫」がほぼ同じ内容で、「傾斜」という視点から画廊のなかと空堀のまち空間、そして高知の竜ヶ迫を地続きにする造形実験だった。
呼びかけに応じて参加するのは1回生6名。小さい画廊なので、ちょうどいい人数。17日は、各自の現時点での考えを共有するチュートリアルを+2でさせていただいた。ぼくが伝えたかったのは、空堀は時間も素材も異質な要素のブリコラージュでできていて、つじつまの合わない事象が魅力的だということ。
久しぶりに学生たちと話して思ったが、自分が大学1年生のときにこんな豊かな体験ができる授業はなかったし、ぼく自身ももっと幼い感じだった。人類は進化しているのか?、美術と美術教育は進化しているのか?
その後、ノランナランをいっしょにリノベした玉井静穂の個展「いさんだ」(四三館、動物園前)と山本紗由里の個展「潤み窓に彷徨」(Gallery Yolcha、中崎町)へ。
四三館は、2年前に吉浦嘉玲君らが「廻覧会」というユニークな展覧会をやっていたのと同じ場所。建物の名前が変わっていて迷ったが、中身は同じまま。ユニークきわまる戦前の広告装置や看板のコレクションで埋め尽くされ、南海本線高架下という魅力的な立地のビル。ちょうど噂に聞くシンバルの演奏会があった。
コレクションの一つの下駄箱。
ビルの屋上は線路のすぐ下にあって、屋上の(屋上からの)眺めもすばらしい。
動物園前駅の周囲がいろいろ変わってきているなと思ったが、長く行ってない中崎町の様変わりぶりもなかなかだった。
「ヨルチャ」は韓国語で「汽車」という意味らしい。リノベの仕方もユニークだった。
梅田のキタにある中崎町は、ミナミよりもさらに南にある平野や住吉といったぼくが育った環境とは大違いの「都会」で、ここ20年くらいの変化もまったく目撃していない。だが、新旧が混在するブリコラージュ感あふれる町並みは面白く、一度ゆっくり回遊してみたい。
]]>
ひらいゆうさんとの二人展「水たまり」のDMのデザインを+1artの野口さん・カワラギさんから頼まれて、ほぼできたとき(夕方)に、吉田寮勝訴の吉報が入った。
ほぼ敗けるかなと思っていたので、意外でうれしく、ちょっと小躍りした。
元吉田寮生だったぼくは、「21世紀に吉田寮を活かす元寮生の会」にも入って、当局と戦う後輩たちを間接的に支援してきた。
一昨年(2022年)の夏から秋にかけて、寮生の依頼により、壊れた土壁や崩れた炊事場の外壁の補修を行った(*)。当局の立ち退き要求の口実が建物の老朽化にあり、寮生自身が自ら建物を補修し、維持管理を行っていることを裁判に関わる視察者らに示すためでもあった。
ちょうどTaroハウスのリノベーションと同時期で、10月末からの東九条アンサンブルの開催に向けて、半月間ほとんど一人工務店の状態だった。好奇心旺盛な留学生とはちがって、手を動かさない日本人の寮生に苛立ちながら。
デザイン作業があったので、18:30から京大であった裁判報告集会には行けなかったが、吉田寮自治会から詳しい報告集会議事録が届いた。
集会後に短時間でここまで議事録をまとめて関係者や支援者に知らせる寮生たちはたいしたものだ(急いだのだろう、誤字が目立つが)。
京大当局の寮生への立ち退き要求の理由は、建物の老朽化ではなく、寮の自治を葬り去るためだ。
今回の判決の画期的な点は、京大と吉田寮自治会との間の確約(自治会が入寮選考権を持ち、入寮者を決め、大学が追認する仕組みを双方が認め合う)は法的有効性があると認められたことだ。
退去を訴えられた40人のうち、23人はすでに卒業、残る17人のうち14人への退去請求は棄却、当局が入寮を禁止した(確約破棄?)2019年以降に入寮した3名のみに請求が認められた。これは全面勝訴にすると裁判所への突き上げがあることへの配慮かも、と法学部の高山教授。
京大当局が控訴することは断じて許せないが、やるかもしれない。
報告集会で、東北大学の日就寮生が言っていたことが、今の日本の大学をめぐる現実だろうと思う。
曰く、「本当に廃寮問題は深刻で、今年は東京農工大や静岡大でも自治寮が廃止される状態。昨日まで熊野寮で行われていた学寮交流会に参加していて、学寮の立場が苦しいという重い雰囲気であったところで、今日の判決があった。今後も連携を拡大し、全国の学生自治の空間を拡大していきたい。大学自治をめぐって、卓越大学制度や法人法が追加されて、大学の自治は将来どうなってしまうのかという暗澹たる思いがあった。大学の、社会全体の新自由主義化があって、その中で個々人が分断されて社会を変えられない状況。」
一方で、吉田寮のような学生自治の空間の重要性をあらためて認識する声には安堵した。
「吉田寮とかが粘り強い運動で人を集め、集会を開催したり、鍋をつつきながら、色んな人と語り合える生活空間と接続された交流空間があるからこそこのような運動があったのだと思う。大学の自治を守っていくためには学生自治の空間が絶対に必要。」(これも同じ東北大の日就寮生。寮生が激減しているそうだ。)
実際、吉田寮とその補修作業があったから、ぼくは環境デザインの留学生たちとつながり、それが現在、Taroハウスで行われている「リベルダージ:ディアスポラ、祖先、共存の地」の実現に至っている。
時代は、個々人を分断して管理しやすい方向に行っている。それを求める人も増えている。
アートにできることは、こうした新自由主義に徹底して抵抗し、感性のコミューンとそのための場をあちこちに立ち上げることだ。
それは物理的・身体的(フィジカル)であってもなくてもよいが、ぼくはフィジカルにやりたいと思う。
]]>
2月12日 梅の花芽が膨らんできた。
この日は、久しぶりに亀岡のみずのき美術館に立ち寄ったあと、スプリング日吉へ。1500m泳ぐ。
2月13日 歯医者。
2月14日 世人研(京芸A棟7階)の会議室で、山内政夫さんが呼びかけた「六条村跡(アート)プロジェクト会議 第1回」。
ぼくは頼まれた「六条村跡保存活用の提案」。去年11月末の河川整備課相手の提案に、《テラス》としての京芸と崇仁地域との関係を肉付けして発表した。
ぼくの前に発表された京都市埋蔵文化財研究所の南孝雄さんの「埋蔵文化財発掘からみた崇仁の歴史」がたいそうよかった。研究者の実証にもとづく知見はやはり得がたい。高倉通の東西で地質が変わり、東側は砂が多く、人が住んだ痕跡が古い時代は少ないと。崇仁地域が古代〜中世は鴨川の氾濫原だったことと関連する。川の氾濫は室町期ごろには収まったようだというのも興味深い。南さんの話は、京芸の移転コンセプトをなぜ《terrace》としたのかで始めたぼくの提案と偶然うまくつながった。
高瀬川横のミニ公園には、御土居や材木町、高瀬舟など、地域の歴史的資料のオブジェを集約するが、西側の「六条村跡歴史公園」にはモニュメントやオブジェを一切置かず、音響のインスタレーションだけを配置し、あくまで「空虚void」としてキープするという案に、意外と反発はなかった。
京芸のテラス越しに六条村跡がよく見える。被差別部落の歴史は抹消されるのか? 京芸が芸術的手段を通して保存活用するのか?京都駅横の便利な場所に来たと浮かれるだけに終わるのか?
乾久美子さんら設計チームのコンセプトは、京都の街と京芸との連続性を強調していたが(*)、ぼくの《テラス》構想はむしろ逆に京都の街との新しいかたちの断絶を図るものだった。氾濫原に立つか、安定した土地の上に立つかは決定的にちがう。
やはり穴派のぼくは、建築系に進んでいたとしてもきっと孤立無援だっただろう。
]]>
新・京芸の作品展に行く前に、ACG Villa 京都の「太陽・酸素 − 野村 仁」展(2/4〜2/13)へ。
地球上のストロマトライトの時間と宇宙の時間を、ストロマトライトと天体写真の併置で表わす。
野村 仁《ストロマトライト:1年はかつて435日だった》1992|写真
「35億年前までの地球の大気に酸素は存在しなかったのですが、その酸素を最初にもたらしたのは藍藻という微生物だそうです。それは今もオーストラリアの海岸でコロニーを作っています。日中、太陽の光を浴びて酸素を生み、夜、粘液を分泌して石灰質の皮膜を作り、徐々にストロマトライトと呼ばれる石になるのです。 1992年2月、機会があって現地に行きましたが、石は1年間に0.5ミリずつ成長して、年輪のような縞模様を作ります。それで、ストロマトライトの化石を詳しく読むと、8億5千万年前、地球の1年は435日で、1日が20.1時間であった、と・・・。この「地球自転の永年減速」という現象は、日数、月との距離、ストロマトライトの成長に変化を及ぼすのです。(野村 仁)」
野村先生は2022年10月3日に同じACG Villa 京都の個展の最中に倒れられた。それが岩城見一先生来訪中だったことを知った。
野村先生は昏睡状態のまま、ちょうど一年後の2023年10月3日に逝去された。
今年の1月26日に偲ぶ会が開催されたが、その日は満月で、野村先生の誕生日でもあったらしい。
彫刻専攻ではなかったので、野村先生とは教え子たちほど懇意ではなかったが、AASを数年間いっしょにやっていた。
野村先生としゃべったのは、数年前の大阪のACGでの個展会場が最後だったが、そのときの先生の言葉は、わが意を得たりというものだった。
曰く、「美術を続けていると、人間がつくったものはすべてつくり替えることができるという、根拠なき自信が湧いてくる」と。
静謐な作品展示で、そのおかげか、初めて藤井厚二(1888〜1938)が設計した建物の細部も意識的に見た。
登録有形文化財でもある建物の正式名称は小川家北白川別邸。木造平屋建で竣工は1934年、数寄屋大工の北村傳兵衛(1894〜1985)による施工、庭は小川治兵衛。
床の間横の大きな円窓が強烈。
茶室。
スリガラスのため白壁のように見えるが、真ん中は上から下までガラス。
電灯なしでこの北側廊下を明るくする。庭に面した二間の部屋の南側にサンルームのような広縁を配したのと対照的。
段差のある天井に扉がついていて、屋根裏の熱を逃がす換気口となっている。
戸棚の扉の把手の位置。扉は四角い枠で囲まれているように見えるが、じつは上側は左から右まで一枚板。割れが入っているため、別の材に見える。茶室の凝った仕上げと共に北村傳兵衛の技。
藤井厚二設計で、北村傳兵衛施工の茶室として、ほかに長岡京の中野邸奥の茶室もそうだという。
以前、天井の段差のあるデザインが気になったことを思い出す。
聴竹居をもう一度見に行きたい。
]]>
Taroハウスでのアウグスト・オヤマ君の「リベルダージ:ディアスポラ、祖先、共存の地」展をwebsiteにアップした。
(リベルダージの綴りをまちがえていた。Liverdadeではなく、Liberdade。)
日系ブラジル人のアウグスト君は、同じ京大の地球環境学堂人間環境設計論研究室を修了したインドネシア人のイ・マデ君とも親しいらしく、頻繁に連絡を取り合っているようだ。
海外のZ世代は国籍もジャンルも関係なく、SNSなどでつながっている。社会意識も高い。日本はどうか?
リベルダージ展は、サンパウロの移民街を軸に、ブラジルでの非西洋人系移民、特に先祖が奴隷だった黒人や、20世紀にたくさん移住し日本人の暮らしや社会意識を扱うが、ベースにあるのは、今世界中で危機に瀕している「人権 droits humains」の問題だ。
それで世人研事務局長の淀野さんや、京芸の一部教員にも伝えた。
京芸はもっか作品展期間中で、終わって片づいたら、関心を持つ教員や学生も見にくるかもしれない。
崇仁・東九条というマイノリティの歴史が刻まれた地域全体が、壊れていく世界のなかで、生きのびる術を共にたぐり寄せる無国籍・多分野・多世代の創造的交流の場になること、それが「テラス Terrasse」という京芸の移転基本コンセプトに込めた思いなのだが。
それとも関連して、崇仁高瀬川保勝会のホームページをモバイルファーストになるようコツコツ手づくりしているが、google fontの利用を思いついて、検索してみたら、面白いことに気がついた。
書体見本の文章が世界人権宣言(Universal Declaration of Human Rights)の一節になっているのだ。
" Whereas disregard and contempt for human rights have resulted "
このあとには、"...in barbarous acts which have outraged the conscience of mankind, and the advent of a world in which human beings shall enjoy freedom of speech and belief and freedom from fear and want has been proclaimed as the highest aspiration of the common people, "(人権の無視と軽蔑は、人類の良心を踏みにじる野蛮行為をもたらした、それに対して人々が言論と信仰の自由を享受し、 恐怖と欠乏から解き放たれる世界の到来が、人々の最高の願いとして宣言された・・・)と続く。
イスラエルによるパレスチナ人の大量虐殺がSNSで世界に同時中継される時代だ。ホロコーストを被ったユダヤ人たちは、今度はパレスチナ人を同じ人権を持つ人間と見なさない。恐怖の連鎖はさらなる暴力の過激な連鎖を導く。
]]>
ギャラリーマロニエでの版画のグループ展「Printmaking 刷りとその解体 II」が始まった。去年の同時期のが第1回展で、今回は2回目。
今回は、吉田佐和子さんとKunstarztの岡本光博さんが共同で人選。(と思っていたら、岡本さんは人選にはノータッチでKunstArztの作家たちも吉田さんが選んだそうだ。)
ちょうど今、京都国立近代美術館で「小林正和とその時代」をやっていて、小林正和さんのギャラリーマロニエでの展示シーンが再現展示されている。マロニエがかつてのように現代美術のシーンとのつながりを回復すればと願って参加したが、はたして貢献できたかどうか。
岡本光博さんといっしょに展示するのは、2016年の「フクシマ美術」以来だ。
あのときはChim↑Pomと同室で、床全面と壁を使った。今回は吉田さんから床を使うよう指示を受けたので、同じように床を使った。版画をどう見せるかが問題だったが、ガザでも能登でも版画を展示できるような垂直な壁はなく、傾斜が支配する世界であることをふまえる。ちょうど横に随行奏子さんの木彫による版木と版画を下に敷いたものがあったので、それとパラレルになるよう、版画を床に敷き、傾いた版木を宙に浮かせた。
売上げの作家収納分は、毎月会員である国境なき医師団「緊急チーム」募金に全額寄付する。まあ売れないだろうが。
今回の制作の収穫は、ドローイングのスイッチが入ったこと。
やはり描きまくる中からしか方向は出てこない。だが、造形原理の追求を伴わなければ盲目となる。それはぼくにとってやはり「2と5」の原理なのだ。コンセプト優先ではなく、探求的な制作活動優先。いい作品になることをめざさねばならないが、結果的な出来不出来は二次的。すべては道程と観念すること。
]]>