Mes premiers travaux récompensés

29 janvier 2020, mercredi

 

黒肉舎

 

前からネット空間というのは、アーカイブに適していると思っていた。

それは、時間的な順序やカテゴリーに沿って事象が配列される図書館や博物館の空間ではなく、整理係がいなくなって混乱した文書館のように、異質な事象どうしが時間的順序もカテゴリーからも離脱してアナーキーに出会う可能性の空間だ。

自分からは失われてしまった過去の記録がどこか別の場所に残っていて、それとふいに出会って面食らうということがある。

 

吉田寮で暮らしていた学生時代(2回生まで吉田西寮、3回生から東寮=現吉田寮)、ぼくは当時の『京大新聞』の編集者から頼まれて、一面の下段広告欄に『立入禁止』というイラストのコーナーをつくっていた。

それはぼくの初めての報償(2000円!)付きの絵の仕事だった。

 

二十歳そこそこのぼくは、赤瀬川原平に大きな影響を受けていた。特に『朝日ジャーナル』に連載されていた『桜画報』にしびれていた。『朝日ジャーナル』の紙面の一部のくせに、『朝日ジャーナル』を『桜画報』の包み紙と位置づける大胆不敵な発想にぞっこんだった。

漠然と表現活動で食って生きたいという、若者らしい願望にも取り憑かれていた。

絵を描いたりバンド活動をしていたが、まだ本格的な「芸術」に出会っていなかった。

そんな学生時代の絵やイラストなどもう手元に残っていない。転居の繰り返しと記録保存への関心の薄さもあって、記憶も空白だらけだ。

 

そんなとき、『京大のタテカン・吉田寮廃寮問題を通じて大学自治を考えるサイト』で、なんと学生時代のぼくの『立入禁止』のコーナーに出会った。

訴訟という法的手段まで使って吉田寮を廃寮に追い込む強権的管理主義者・川添信介理事ら当局に対抗する動きに協力するなかで、このサイトを知って、1月半ばに登録したのだった。

毎日投稿されるFacebookの熱い告知や記録資料をつらつら目にするうち、40年以上前の自分のイラストに出くわして面食らった。

ワープロ普及以前。文字も手書きのレタリングだ。

 

当時は匿名性にも凝っていて、ぼくは自分の名前でなく「黒肉舎」と名乗っていた。

画風だけでなく、この辺も赤瀬川原平の影響から来ていると思う。

模倣はあえて露骨にやった側面もある。

『朝日ジャーナル』を『京大新聞』に、その中の『桜画報』を『黒肉舎』に(つまり桜を黒に)なぞらえ、勘違いを引きおこそうともたくらんでいたのだ。

実際、ぼくにイラストを依頼してきた『京大新聞』の編集者H氏は、卒業して朝日新聞に入社した。

 

吉田寮は、学生運動の火がいつまでも消えないでいた場所でもあったから、「帝国主義との闘い」という思想性をうたう連中もいた。だが、ぼくは思想性よりも「自主管理」という現場主義的な姿勢に共感していた。寮闘争を寮の自治と大学の自治をつなげるなかで考え、思考と実践の空間を自主管理することを寮と大学双方でめざして、例えば寮食堂で働く人の人権を守ることも、権力と戦う京大教員を守ることも自主管理闘争の重要な一部ととらえていた。いわば「生活派」だが、これは「思想派」からすれば視野が狭く生ぬるいとされただろう。逆にぼくは「思想派」の言葉中心でユーモアもない貧相な表現を嫌い、『立入禁止』をさらに過激にすることに傾倒した。

 

たしかもっと露骨で挑発的な猥褻図画を描いた記憶もあるのだが、投稿を差し控えられたのもかもしれない。

もし今ぼくが京大の吉田寮生なら、きっと山極総長とゴリラをモチーフに、ニセのエログロ図書広告をつくるのでないか。

 

ぼくは主流派の文化・文化人を嫌う根っからのアナーキーな単独行動主義者だ。それは今も変わっていない。

赤瀬川原平の影響とは無縁に、自分自身の姿勢を『立入禁止』第3号の欄外に記していたことに気がついた。

 

「ぜ、ぜ、ぜ、全学の学友諸君、そして紅顔流麗の新入生諸君!あなたも黒肉舎に入って毒気のある排泄物をまき散らそう!只今黒肉舎はシンコクな人材不足に悩んでおり、ユーノーな手と眼と耳と口唇およびチンポとオメコを強力に募集しております。応募資格はいとカンタン。あなたが世間の、そして銀河系の余計者であることを認めさえすれば必要十分。さすればその瞬間より即あなたは黒肉舎員。さああなたも余計者としてつまはじきの人生劇場へ。」(『立入禁止』第3号欄外囲み、1978年4月1日)

 

ぼくは城を築いて安住することができず、ずっと余計者として野良を走りまわって終わるのだろう。

 

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