Cheval de Tarr Béla ou les êtres à l'abandon

25 decembre 2019, mercredi

 

ようやく冬休みに入った。

忙しくて映画も見に行けない日々が続いたので、年末、タル・ベーラ監督の話題の7時間映画『サタンタンゴ』(1994)をシネ・ヌーヴォに見に行くことを考えるが、やはり時間的な余裕がないので、やめた。

代わりに彼の最後の作品『ニーチェの馬』(2011)をDVDで購入、クリスマスの夜に観た。

 

舞台は強風吹きすさぶどこかわからない荒野。

物語的な要素を極限までそぎ落として、丘の地平線に囲まれた荒れ地に石と木で家と厩をつくり込み、父と娘、馬の3体を閉じこめる。

モノクロームの美しさが引き立つ暗い室内、狭い縦長窓、窓の向こうに一本の木が立つ丘の寂漠たる風景。

母屋から10数メートル離れて石造りの井戸があり、別の方角に同じく石と木でできた厩がある。

母屋の窓と扉に対応する厩の扉は、荷車を引き出す大きなものと、馬を引き出すものの2つあり、後者は右側が上下に分かれる。

その開け閉めそのものが映画の大きな要素になる。

厩は家側の壁の上部がくずれ、薄暗い室内に光が差し込む。

日々の飲食は、水、パーリンカ(焼酎)、夕食のためのゆでたじゃがいも一個のみ。

ぎりぎりに絞り込まれたセッティングは絵に描けそうなくらいだ。

 

スクリーンは父と娘の人生の終末の6日間を寡黙に映し出す。

4日目には井戸水がなくなり、5日目には火が消える。

 

カメラは物語に追われることなく、事態そのものを見つめることを要求する。その手法が長回しだ。

水がなくなって逃げ出そうとする父娘と馬は、丘の地平線の向こうにいったん消え、また戻ってくる。

カメラは据えっぱなしで、馬の耳が地平線に隠れ、かなり長い時間がたって、また馬の耳が地平線から出てくる。

 

荷車に荷物をのせること、また荷車から荷物を下ろすこと、

普通なら話の筋優先で端折られるであろう一つ一つの身振りを、長回しのカメラがずっととらえる。

運搬作業が人の希望や絶望から切り離され、フィジカルにそれ自体として際立つ。

荷物の重さ、抱えにくさ、それに立ち会う人の身体が。

 

この世界は、人間の思いや行動以外に、それらを支え、取り巻く人間以外の事物や事象からなっている。

両者は固く結びついているように見えるが、そうではない。

じつはすべては「無縁」なのだ。

それがわかるのは人生が終わるときだ。

そのとき、人と結びついていた物たちが人間的意味や記憶から解放され、あちこちに散らばって自由にフィジカルに存在する。

エントロピーは忌み嫌われるので、長くは続かないが、短時間にせよ、希望も絶望もなき事物のニルヴァーナが到来する。

そんな当たり前のことまで思い出させてくれる。

 

これは昔、ぼくが企画展『静物ーことばなき物たちの祭典』(1990)や個展「時間のレッスン」(1993)で示そうとした世界観に近い。

「終わり」を見つめること。世界の根源的な無縁性(à l'abandon)を感受すること。

 

映画通ではないので、『ニーチェの馬』は日本でも2012年に公開され、ずいぶん話題になったことを知らなかった。

仕事に追われ続け、世間から取り残されつつある気分だ。

どうせ無縁だからそれもいいかもしれない。

人も物も「終わり方」はさまざまだ。

 

 

コメント
コメントする