Tibet est
25 mai 2019, samedi
服部志帆さん情報で、同じピグミーのバカ族の音文化を研究している音楽人類学者の矢野原佑史さんがトークに登壇する映画『チベット ケサル大王伝 〜最後の語り部たち』を十三のシアターセブンに観に行く。
「シアターセブン」は「第七劇場」と同じ建物の中の一階下にある。後者は名前は聞いたことがあるが来たことがなかった。
両方ともいいラインナップの映画が並んでいる。
『ケサル大王伝』も初耳だが、大谷寿一監督が東チベット(四川省・青海省)で撮った渾身のドキュメンタリーで、世界最長の英雄叙事詩を伴奏もなくひたすら早口で憑かれたように謡う語り部たちを追う。
語り部たちはみな男性で、多くは若い頃、夢のなかでお告げを受け、一週間、熱にうなされたあと、突然文書も見ないで語り出すという。多くの語りは、草原をバックに撮られ、彼らが遊牧の民であることを示す。
ケサル大王伝を語ること、聞くことは、民族的アイデンティティとコミュニティ意識の醸成につながっている。
だが、映画は伝統文化の賛美に終わるのではない。
浸透するグローバル経済とそれを支える高速道路建設と土地開発、中国政府の定住化政策と民族同化政策によって、語り部たちが生まれ育つ草原とその文化は、どんどん消滅している。若者たちは中国語を話し、もはや『大王伝』の語りの言葉を理解できない者が大半だ。ときおり挿入される建設現場の映像、大掛かりでありながら白けたケサルのフェスティバルが、チベット文化を取り巻く現代中国の現状を示唆する。
中国政府はそうやって伝統を背景の自然もろとも破壊しながら、博物館をつくり、観光客向けのお祭りをでっち上げる。中国で少数民族の文化が喧伝されるとき、それはその民族文化の隅々まで中国国家の管理下におかれ、生命を奪われたことを意味する。
グローバリズムは、西洋由来のミュセオロジーと文化遺産のイデオロギーで身を飾って、空疎な「多様性」を謳う。
2012年に内モンゴルを訪れたときと変わらない光景が、東チベットにも広がっているのだ。
2012年9月、内モンゴルの高速道路は、地平線の彼方まで物資輸送のトラックで埋まり、ほとんど動いていなかった。