Le bâtiment d'il y a 2000 ans
10 mai 2019, vendredi
5月10日(金)〜11日(土)、総合基礎実技の研修旅行。
・1日目:太陽の塔〜みんぱく〜弥生文化博物館〜信太山青少年センター泊
・2日目:舞洲工場〜付近で「狩猟採集」行動
「縄文的精神で歓待の場(器)をつくる」という課題とたまたまつながって、岡本太郎の縄文から弥生へ、70年万博から2025年万博へ、生命の木からゴミの海へ、という研修内容になった。
総合基礎の研修旅行につきあうのは20年ぶりだが、副委員長(来年は委員長)なのでしかたない。
予約の行き違いでいったん拒否された舞洲工場とも交渉して何とか見学できるように努力した。
この日、iPhoneのカメラが働かず、デジカメも故障して、写真記録がじゅうぶんできなかった。
単車からはじまって、最近、身辺の機器に故障が多い・・・
弥生文化博物館は下見で訪れたので、ぼくは先生や学生たちから一人離れ、近くの池上曽根遺跡へ。
弥生中期の大規模環濠集落の跡地だ。
高床式の巨大掘立建造物が復元されている。集落の中心にあった神殿兼集会所なのだろう。
復元された建物は床高4m、全高11m、東西17m、南北7m。
残った柱の伐採年代は紀元前52年という。
逆台形に左右に張り出した屋根のかたちが面白い。
大棟を支える東西の独立棟柱は高さ9m。大棟の先端には鳥の形が彫られている。破風板は土器などに見られる文様で装飾されている。弥生期の復元建築では全国最大級という。
根拠となった絵が刻まれた土器片の写真が資料館に掲示してあった。
土器の表面が縄文・弥生の記録ノートだ。
何にでもかたちを変え、線刻をとどめる土は、古代のコンピュータみたいなものだと思う。
逆に言うと、コンピュータメディアは粘土なのだ。つまり人類には記号やイメージを受け止める表面が必要ということだ。
真正面に巨大な井戸跡があり、直径2m・樹齢700年のクスノキを刳り貫いてつくっていたらしい。
本殿の東側に2本の掘立柱が南北線上に並んで立ち、冬至のときは南の柱の影が北の柱に届き、夏至のときは南の柱の影が井戸に指したという。
豊饒と繁栄を祈る祭祀の広場だったのだろう。
昨年9月の台風で、メインの建築は階段などが壊れ、中には入れない。
井戸を覆っていた覆い屋も倒壊したまま、ほったらかしだ。
一人でスケッチしていると、学芸員の人が資料館から出てきて、話しかけてきた。
池上曽根遺跡は、20年前に国指定の史跡になったときは話題を呼び、羽振りも良かったそうだが、やがて人々の関心も薄れ、和泉市と泉大津市の共同管理になってからは維持費も十分でなく、すぐに修復できないらしい。
この広場にも墓などの史跡が復元されていたが、いたずらされるので、撤去してしまったという。
そのため現在は中途半端にだだっ広い空間が残され、説明パネル類も砂に埋もれていた。
史跡公園そのものが遺跡化しているのだ。現代人のすさんだ行動のせいといえる。
だが、それ以上にこの遺跡で感じたのは、農耕と鉄器製造技術で栄えた弥生文化の反縄文性だ。
高殿の中心にした祭祀空間のまわりには鉄器製造の工房が広がり、一般の住居は集落の外縁に集中していたという。
サヌカイトの破片の捨て場も残されていた。
農耕と鉄器は、それまでの長閑な縄文文化との断絶をつくりだし、生産合理主義を軸にした階級社会を発展させていった。
その延長に今の文明がある。復元された高殿を見ていると、「こいつらめ」という反感がふつふつと湧いてくる。
がんばって復元したらしい2棟の建物がぽつんと建っている。
柱は残念ながらコンクリートで、これも人が荒らすため、中には入れないようになっている。
来春、みんぱくの「先住民の宝」展で、マレーシアの先住民オランアスリの森の集会所の復元制作を依頼されている。
そのため造作に目がいく。
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11 mai 2019, samedi
翌日は舞洲工場。昼食はバーベキュー。
海岸沿いの花畑で休んでいると、ソルさんのカフェ2階の改装作業をしている連中から連絡が入り、電気配線を切断してしまったという。
そういえば丸鋸を貸していた。
絶縁テープを巻いておくようメールで指示。
18時過ぎにバスで芸大に戻ってから、単車で現場に向かう。
やれやれ。。。