Lit de rivière

2 mars 2019, samedi

 

2月半ば、1月26日のシンポジウムでの不十分な発表をまとめ直した。

いいかげんなイメージ・スケッチはそのまま載せた。

京芸のキャンパス・デザインに地域の場所性・歴史性が造形的に組み込まれていないのは残念なので、という話。

 

創造の河原1

こういう「河原」ができたら、それこそ京都芸大は「川の上のテラス」という基本コンセプトに立ち戻ることができる。

それに北側の団地が京芸に背を向けているが、高瀬川と河原が団地の大人や子供の憩いと交流の場になる。

地元にも開かれたという学食も近くにある。京都駅に近いから観光的な魅力もあるだろう。

 

京都芸大は基本設計が終わって、4月から実施設計に入る段階だから、これらのプランが実現するのはむずかしいだろう。

それに東九条の氾濫原提案は芸大の敷地から離れている。

また万が一この案が実現されることになると、仕事が増える。高瀬川の水流不足という問題もある。

だが、気候変動で日本各地で洪水が多発するなか、川と人の新しい関係を提案することは、高瀬川を持つ京都ならではの発想ではないか。ネオ東山文化は、多文化・多生物が共生する京都駅東南の「河原」から始まる、と。

しかしそれよりも、どこまで京都と京都芸大につきあうかという個人的問題もある。そもそもぼくは他所者なのだ。

 

この日(3月2日)の午後は、崇仁高瀬川保勝会の川掃除。

川掃除

中心メンバーの3人以外に、参加者はこのところ決まっている。

市営の共同浴場を管理している都総合管理株式会社の太田さん、京都景観フォーラムの辻野隆雄さん。立命館大生の藤原君はやたら熱心。もう中心メンバーだ。

地元住民は「ご苦労さん」と声はかけても参加しない。

 

西側では団地ビルの建設が進んでいる。

右に来る京都芸大B地区にとっては、目の前に高層団地の壁が建つわけだ。

コの字型配列の中庭になる部分。

崇仁

 

川掃除のあと、ワークショップと称して、近くの白蓮寺跡から崇仁ゆかりの石灯籠を救い出してきた山内さんが説明する。

 

地図

高瀬川が開削された1614(慶長19)年まもない頃の地図にある白蓮寺(時宗)。今は山科に移っている。

金光寺は今もある。東本願寺の枳殻邸(1653年石川丈山が造園)はまだなく、塩小路村とある。七条通に材木などを運んできた船のたまり場がある。高瀬川の東側と鴨川のあいだは畑。金光寺の東には火葬場とある。

当時の日本の人口は1800万人くらい。京都のこの辺りは閑散としていただろう。

山内さんが非人小屋と付箋をつけている辺りは、今の京都駅の北あたりか。

*『慶長昭和京都地図1611-1940』(柏書房)から。

 

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