expérimentations dans la classe

14 decembre 2018, vendredi

 

毎年12月になると、芸大の「造形計画」の授業の最終アウトプットのかたちを定めていかないといけなくなる。

通常の座学とちがって試験やレポートはなく、授業内容と直結した造形実験や作品提出、ときにそれらをまとめた展覧会やアートプロジェクトのかたちをとる。

 

今年度の造形計画1の方はアートブックをつくって展覧会をするが、造形計画2の方は「地・図」というテーマでやってきて、風景に対して前期は「水平」、後期は「垂直」のアプローチをとっている。

「垂直」ないし「上下」の問題は、「地面を見上げる」という個人的な制作のモチベーションになっていて、芸術分野での参考はまとまったかたちではない。参考書などないなかでの手探りの授業で、履修した学生には迷惑かもしれないが、授業で実験できるのがぼくが芸大にいる唯一の理由なのだと開き直る。

 

風景でないもの(見えないもの)を風景(見えるもの)にするのが「道」で、道こそ作品の理想のモデルなのだが、風景における垂直性となれば当然、山や谷など地形が問題になる。そこを辿る道は、おのずと坂道や階段のかたちを採る。

「階段」は「きざはし」を指し、「はし」は梯子の「はし」であり「橋」である。「階段」とは「等間隔にきざまれた橋」を意味する。「梯子」も等間隔の段からなるが、「梯子」を水平に倒せば「橋」になり、斜めに固定すれば「階段」になる。「橋」がこちらとあちら、此岸と彼岸という異なる次元の世界をつなぐものであるとすれば、「階段」もまた異なるレベルにある世界をつなぐ「刻まれた橋」である。

雪舟天橋立図

そう考えていると、雪舟の『天橋立図』(国宝、京都国立博物館蔵)が再び気になってきた。

 

「橋・立」という地名もそうだが、複数の紙を貼り合わせた下地、視点も不明で、実景ではありえない不思議な風景のモンタージュ、地図と絵のあいだのように地名を書き込んだ作品だが、右上の山に描かれているのが西国三十三所の第二十八番「成相寺」と知って、「巡礼」ということを思いついた。

"pèlerinage"も"pilgrimage"もラテン語の"peregrinus”を語源としており、その基本的な意味は「通過者」とか「異邦人」だ。「巡礼」は宗教的行動だが、その根幹には俗なる日常的空間から離れて聖なる非日常的空間に赴き、また日常に還ることがある。巡礼する「通過者」、聖なる世界の「異邦人」がたどる道は、坂や谷、山や川など、起伏と断絶に富み、坂道や階段に満ちている。

そう考えると、身近な空間に「橋」や「階段」をポイントにしたもうひとつの「道」をつくることで、見知った世界を見知らぬ世界に変えることができる、と思いついた。

で、授業で、近年なじんでいる4mの足場板を学内のあちこちに運んで、「坂道」や「橋」をつくる実験を行った。

巡礼

もう一つの道。Alternative Path / autre route. 

巡礼

峡谷をわたる。Passing over the vallery / Traverser sur la gorge.

巡礼

幸い概念的日常からすぐ離脱できる感受性を持つ京芸生にはバカにされずに少しは面白がってもらえたように思う。

 

巡礼というのがわかりやすいので、芸大内にもうひとつの巡礼道を設定し、キャンパス空間を異化せよ、という課題にしたが、はたしてどうなるか。。。

観光

観音観光。音と光。聖なるものと俗なるもの。生と死。

 

・・・・・

金曜午後は、大学院のゼミ授業「造形計画特講」。

 

こちらは履修学生の志向によって毎年内容が変わるが、基本設定は、それぞれの制作に関わる関心事をもちよって、それを参加者で検証・共有するワークショップないし造形実験を行うということ。

今年は、さまざまな議論や小さな実験をくりかえすなかで、「不在」や「欠如」「不完全」のテーマが浮かび上がってきた。

これも、作品を固定的な「実体」ではなく「機能する空虚」としてとらえたい自分としてはやりやすいテーマ。

実験制作の課題は学生から出してもらいたいが、京芸生は遠慮がちなので、なかなかピリッとしたのが出てこない。それでぼくの方から「補・欠〜欠けていると思うものを補う」という課題を出した。

たまたま履修生の環境デザインの白石さんらが芸祭のときにつくったHaribarなる小屋が未完成性をはらんだ悪くないデザインで、執着があるらしい。それで、事務局から撤去を求められているが、芸大内は芸術のためなら人に迷惑をかけなければ何をしてもよい、創作実験に使うという計画書を提出せよ、とけしかけ、ようやく履修生たちが動き出した。造形計画

造形計画

うまく蓋を開ければ、本来、創造力あふれる芸大生たちだ。

木曜には、松村さんが彫刻専攻のモチーフになっている山羊を連れてきて、カフェをゲリラ的に行い、空いた空間を「補う」人を募集した。

この日は、学生たち自身がこの場で鍋会を行い、小屋の空虚を「補った」。

食器も用意していたが、その場で箸、皿、コップが「欠けている」として別の代替物で「補う」即興ワークショップを誰ともなく言い出し、楽しい時空間が開いた。

造形計画

どの「補・欠」も面白かったが、自分の陶の作品を「受け皿」として使う毛利さん(先月、高瀬川の崇仁テラスで二人展を開いた子)の提案に虚をつかれた。

作品が「器」であれば本来それは「欠如」をはらみ、何かを容れる=補うことで充たされる。

実際に器ということに限らず、作品というものの本来のあり方=この世のうつろとしての作品を示唆された。

 

課題というのはだいたい自分がやりたいことと地続きだ。「教育」のことなど考えていない。

これもぼくが芸大にいる上での一貫したスタンス。

 

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