flaque dans la nuit

16 mars 2024, samed

 

久しぶりに詩を書いた。

 

夜の水たまり

 

 

「水たまり」展のための制作中、ふと生まれた詩だ。

ガザで1〜2歳の幼児が土に座り込んで雑草を食いちぎっていたという新聞記事()を読み、心が張り裂けそうになった。

 

ひらいゆうさんがこの詩も展示しろというが、どうしよう。。。

今年初めて舞台デビューもしたことだし、初めて詩の展示もするか。アイデンティティなき変異体らしく。。。

 

パレスチナの旗の色の橋をつくって渡るパフォーマンスとワークショップをすることもふと思いつく。

いやしかし、画廊の中で何をしても餓えるガザの子供たちに手を差し伸べることにならない。

スピーカ持って美術館のなかで叫ぶ()こともぼくの仕事ではない。。。

 

petit dessin-collage

13 mars 2024, mercredi

 

petit dessin

 

petit dessin

制作年代不明。

たぶんSilent @KCUAに出品していたころなので、2011〜2017年。

 

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マロニエ市に出品していた『つちのいえ2008ー2021』が2冊とも売れてしまった。

これも破格なので利潤なし。残りの在庫は12冊のみ。

八戸ブックセンターは売れ残り1冊を引き取ってくれた。

ホームページのトップに『つちのいえ』を上げるのはもうやめよう。

 

forme debout

28 février 2024, jeudi

 

立つかたち

 

立つかたち

「立つ」とモノの意味や価値が変わる。なぜだろう。

やたらとモノを立たせてみる。

鉛板 

捨てられてしまうようなゴミを救うには、立たせればいいと気づく。

鉄鉱石に磁石。

《貝石》

「台座の考察」の続き。

立つかたち

モロ廃材を立たせる。台座も廃材クリップ留め。

たつ

「二つの傾斜地で」展以来、切り残した断片を捨てないで再利用するようになった。

写真も立つ。これも昔の写真作品《Parallel》シリーズの切り落とし。

立つかたち

額も立つ。作品のエスキスを折って無理やり額に入れて立たせてみる。

立つかたち

屏風も立つかたちの一つ。

留める、もたれ合う、折る、丸める・・・立たないものを立たせるいろいろなやり方があると気づく。

 

こういうのは思いつきの段階が一番楽しい。よそ行きになると(=作品化を意識すると)楽しくなくなる。

作品制作において、この初発の衝動や悦楽をいかにキープするかは今後の(永遠の?)課題でもある。

 

flaque

23 février 2024, jeudi

 

3月に大阪の+1 artで二つの展覧会に関わることになった。

一つは、課外授業「2023年度総合基礎実技 第2課題『身体』」3/6(水)〜3/23(土)。

これには3/16(土)に「トーク:総基礎という現象」というのがある。

 

続けて、ひらいゆうさんとぼくの二人展「水たまり」3/27(水)〜4/13。

野口さん・カワラギさんから、どういう展覧会になるのかわかりにくいので、DMをデザインしてほしいと頼まれた。

それでいつもの+1artのDMのフォーマットで作業して、2/17に完成データを渡した。

 

水たまり

表面。A4変形三折。ブルーの線で山折りする。

 

水たまり

中面。谷折二つ。

タイトルロゴは手書き文字からデザインした。「水」という字が、縦線とその左右の水の流れを表わすカーブ2本からできていることを改めて意識した。ひらいゆうさんには気に入ってもらえた。

 

自分としては奇を衒うことなく、比較的ストレートな絵画とドローイングの展覧会をするつもりなのだが、ひらいゆうさんはともかく、ぼくがいつも何をやるかが判然としないので、展覧会イメージがつかめないのだろう。それですでに画廊に送った作品画像を使ってデザインした。できたDMを見たカワラギさんらからは「ゴシック・ホラーに見えるかもしれない」と言われる。

 

前回の個展(2022年)の際はDMを野口さんにデザインしてもらったのだが、同じように「展示のイメージがつかめない」と途中で相談された。

さらにコラボレーション「発酵をよむ」展(2019年)のときも、全体のインスタレーションを担当するぼくの動きが一番おそく、画廊のお二人を戸惑わせた。

 

技法やスタイルが一定している作家であれば、わかりやすいのだろうが、ぼくはそうではない。ほとんどそのつどゼロからやり直す。

自分としては関心事は一貫しているし、作法としては根底にドローイング(平面/空間)があるのだが、それが人に伝わっていないのだ。コツコツ個展を積み重ねてきた作家とちがって、注文や依頼で展覧会やプロジェクトをやることが多かったことにも起因するだろう。

困ったことにデザインや建築的なこともできてしまうので、アーティストとしては異端視されている気がする。だが、自分は複合プレートでできていると自己分析してすっきりしたので、単一プレート中心の人間観・芸術観に付き合うことはやめた。

 

今、心に去来するのは、「研ぎ澄まされた幼稚さ」。「水たまり」はそれをめざす道程標にする。

 

水たまりはどこにでもある。ガザにも。それは子供を楽しませ、大人を困らせる。

ガザの水たまり

ガザの水たまり

ガザの水たまり(Yahoo Newsより)

 

地上に偏在する「水たまり」は、根源的なはかなさでもって生成消滅する。

人の足元にある「水たまり」は、つねに空に表面を向け、それに見向きもしない人の姿を映して消える。たまに子供がそれに手をのばす。水たまりは、非人間的自然・前人間的世界へのもっとも身近な入口である。

 

 

"Be twin"

18 février 2024, dimanche

 

ギャラリーマロニエでの版画のグループ展「Printmaking II :刷りとその解体」の搬出。

 

言葉を真に受ける単純な人間なので、ぼく自身は「解体 déconstruction」という語を意識したが、全体を見渡せたば、この語は強すぎて空回りしていたように思う。「版画家と版画家でない作家が版画技法を用いた作品制作を行う」程度の内容。去年に続いてぼくは2回目の参加だが、このシリーズは9回目らしい。

マロニエの再活性化をめざす版画家の吉田佐和子さんらの企画。一昨年夏のサイアノタイプのワークショップに軽い気持ちで参加して以来、吉田さんらの情熱に反応して、いつのまにか巻き込まれて協力している。京芸時代なら時間がなくて無理だっただろう。

 

今回の制作の振り返り:

1_能登の大地震の光景に影響を受け、垂直の安定した壁を前提にしないことと、吉田佐和子さんから、壁を使う人が多いので、床を使ってくれないかと言われたことをふまえ、床に自立型の作品構成を考える。

2_アトリエに一部残っていた「傾斜」をテーマにした+1 artでの個展の作品を再考。作品/作品以外のもの/作品素材を等価に扱うこと。展覧会用の「作品展示」ではなく、作業場/アトリエの状態をめざすこと。

3_特定のコンセプトもできあがりのイメージもなしに、一定の造形原理のなかで制作を進める。手探りでイメージを導く。災害の中でのとりあえずの復興に向けての作業とパラレルに。

4_今できる版画の技法〜サイアノタイプ、ドライポイント、モノタイプを組み合わせる。

5_過去の試作や作品の一部も取り入れ、作品から時間的統一性を排除する。素材とイメージの複合性と循環性を重視する。

 

こうみると、ぼくはずっとマチスの造形原理とブランクーシのアトリエの影響下にある。

 

搬入は2/4なのに、取りかかったのはおそく、1月下旬になってから。

ブラインドの加工、webdesignの自習、PowerBookProの故障、歯医者、健康診断・・・、いろいろあった。

 

be twin

1/27 倒れ合い、支え合う異質な面。

be twin

1/28 去年の作品で使った枝ともたれ合う面の構成を組み合わせることを考える。

be twin

be twin

版画の複数性の原点である版木と版画。この対(twin)の原理で制作することを決める。

自分の自発的なドローイングを模写した昔の試作も本のかたちに仕立てて、背中に版木と版画を貼る。

be twin

去年のサイアノタイプの試作も「対」でやっていた。ここからかたちを抽出し、空間構成の要素にする。

 

be twin

もたれ合う2枚の板は両面使う。楕円が二つ交わるかたちの版木を上にのせる。その版木でモノタイプを刷る。

 

be twin

be twin

2/1、支え合う2枚の板の背中(オモテ面)に、逃げるような2本脚のドローイング。いい線が描けて、今後の展望が開けた気分。

二つの曲ったような曖昧なかたちは、サイアノタイプ試作から抽出。曲げた脚の線と重ねる。

 

be twin

2枚の楕円の板に貼るドライポイントの構想。曲線と直線、二つの丸いかたちと四角いかたち。これらは背中合わせになり、同時に見られない。制作は2/1と2/2。

be twin

刷れたドライポイントを仮留めしていると、アトリエに差し込んだ日が当る。手をかざす。

be twin

be twin

be twin

「対」の原理が反響し合ってできているので、タイトルもしゃれで《Be twin》。

 

作品の出来は65点。しかし次につながる収穫はあったので、よしとする。

 

Karahori, Ebisu-hon-machi et Nakazaki-cho

17 février 2024, dimanche

 

2月17日(土)

よく展示をさせていただく大阪の現代美術ギャラリー +1 artで京芸の総合基礎実技の「授業」をすることになった。

 

去年個展した京芸教員の安藤由佳子さんに、野口さん・河原木さんが、画廊で何か新しい取組みができないかと相談したことがきっかけだそうだ。

安藤さんは京都精華大学時代に松井紫朗さんに師事、その後デュッセルドルフ・アカデミーを修了してドイツで長く作家活動、さらにアメリカでも活動し、2021年に京芸の彫刻専攻に赴任したばかり。発想が日本人離れしておおらかで、京芸の将来を託したいと思っている人の一人。で、2022年1月のぼくの個展に来た安藤さんを画廊のお二人に紹介した。それを機に去年3月に +1 artで日本デビューとも言える個展、野口さん・河原木さんが主宰する高知・大月町のアートプロジェクトでも若手作家らを引き連れて活動、そして今回の企画につながった。

学生が画廊で発表することは珍しくないが、身体をキーワードに(画廊がある空堀という)地域を探り、その成果をかたちにするという「授業課題」をその画廊で発表するのはまれではないか。授業と創作、リサーチと作品、画廊と大学、さらに学生と教員の区別も揺らぐことは悪いことではない。それに、フィールドワークの体験を造形的に変換して出力するという訓練は、ドイツなどでは普通だが、造形を「変換」ではなく「表現」と考える日本の美術教育ではあまりやっていない。学生時代にそういう制作経験を積んでおけば、用意された画廊空間だけでなく、社会の中で場と作品を展開する美術家も増えるだろう。なので、協力を頼まれて即引き受けた。そもそもコロナ禍が始まった2020年度に総合基礎委員長をしていたし、総合基礎アーカイブには今もタッチしている(総合基礎アーカイブは今年度中に姿を現わすか?)。

何よりも、2年前のぼくの個展「二つの傾斜地で 空堀と竜ケ迫」がほぼ同じ内容で、「傾斜」という視点から画廊のなかと空堀のまち空間、そして高知の竜ヶ迫を地続きにする造形実験だった。

呼びかけに応じて参加するのは1回生6名。小さい画廊なので、ちょうどいい人数。17日は、各自の現時点での考えを共有するチュートリアルを+2でさせていただいた。ぼくが伝えたかったのは、空堀は時間も素材も異質な要素のブリコラージュでできていて、つじつまの合わない事象が魅力的だということ。

久しぶりに学生たちと話して思ったが、自分が大学1年生のときにこんな豊かな体験ができる授業はなかったし、ぼく自身ももっと幼い感じだった。人類は進化しているのか?、美術と美術教育は進化しているのか?

 

その後、ノランナランをいっしょにリノベした玉井静穂の個展「いさんだ」(四三館、動物園前)と山本紗由里の個展「潤み窓に彷徨」(Gallery Yolcha、中崎町)へ。

四三館

四三館は、2年前に吉浦嘉玲君らが「廻覧会」というユニークな展覧会をやっていたのと同じ場所。建物の名前が変わっていて迷ったが、中身は同じまま。ユニークきわまる戦前の広告装置や看板のコレクションで埋め尽くされ、南海本線高架下という魅力的な立地のビル。ちょうど噂に聞くシンバルの演奏会があった。

四三館

コレクションの一つの下駄箱。

四三館

ビルの屋上は線路のすぐ下にあって、屋上の(屋上からの)眺めもすばらしい。

 

動物園前駅の周囲がいろいろ変わってきているなと思ったが、長く行ってない中崎町の様変わりぶりもなかなかだった。

ヨルチャ

「ヨルチャ」は韓国語で「汽車」という意味らしい。リノベの仕方もユニークだった。

梅田のキタにある中崎町は、ミナミよりもさらに南にある平野や住吉といったぼくが育った環境とは大違いの「都会」で、ここ20年くらいの変化もまったく目撃していない。だが、新旧が混在するブリコラージュ感あふれる町並みは面白く、一度ゆっくり回遊してみたい。