élagage autour de la étang_3

16 octobre 2019, mercredi

 

@KCUA-terrace

before(本家雅衣撮影)

@KCUA-terrace

after

 

この夏前、雑木で覆われた京芸の池のまわりを一人で剪定したことがあった。

池にテラス(@KCUA Terrace)をつくろうという構想のためだった。(→

当初は夏に池の水を減らして底の状態を確認することまで考えていた。

だが8月末からのマレーシア行きや共同浴場ののれん制作、この秋のイベントや展覧会が重なって忙しく、それは延期になった。

ところが先日、ぼくの構想を聞いた学生たちに呼び止められ、いっしょに池をきれいにしてテラスをつくりたいと提案された。

だれも池に関心を持たなくなっていたので、多少とも池の水面を見えやすくした成果かな、とうれしかった。

 

彼らと話してるうち、1995年に京芸に赴任してまもなく、学生たちの要望で "Gゼミ"という自主ゼミを立ち上げたことを思い出した。

そのときのメンバーとは長くつきあいが続き、彼らが卒業後もプロジェクトや展覧会をいっしょにやっている。

当時は「なっちゃん」と呼んでいた女子学生は今、呉夏枝(OH Haji)として国内外で大活躍している。

かつて声をかけてきたのは主に3回生以上だったが、今回は学部の1〜2回生。

Gゼミをやりだしたときは、インターネット黎明期で、スマホもSNSもなかった。

今はみなスマホをもち、SNSで連絡を取り合う。この点が大きくちがう。

ぼくが、なぞめいた面白いネーミングで連絡網をつくったら、と提案したら、さっそく「イケカエタイ」という名でLINEのグループを開設してくれた。

 

この日は最初の作業日。

昼休みに3つの剪定ポイントを検討し、そのうちのひとつに放課後着手した。

午後5時になるともう薄暗くなりかけていたが、1時間たらずの作業で、池の彼岸と此岸をつなぐ視線の「穴」を枝葉のスクリーンに空けた。学生たちは楽しそうだった。

総務課の若手職員も協力してくれ、いい滑り出しになった。

Gゼミのときのように、将来活躍するアーティストが現れてくれるといいなと思う。

 

@KCUA-terrace

 

Timidité (botanique)

12 octobre 2019, samedi

 

超大型台風 Hagibis が東海〜関東地方を襲う。大きな被害が出ないよう祈るばかり。

幸い京都は暴風域がかすめるぐらいですみそうだが、つちのいえが心配だ。

そんななか、10月30日の塩見允枝子先生によるフルクサス演奏会のフライヤーを出稿。

 

shiomi

 

背景には、クアラルンプールのマレーシア国立森林研究所 FRIMで撮った"Crown Shyness"を使った。

Crown Shyness は、樹木の樹冠が互いに触れ合わないようすきまが空く現象で、

仏語の timidité 臆病 が示すように、樹木が互いに分をわきまえて他の領域を侵害しないということだ。

 

塩見先生は芸術資源研究センターの特別招聘教授だが、ぼくの授業「造形計画」がフルクサスと親近性があり、この数年、ゲストにお呼びしたり(2014年)、大学会館でワークショップ型の特別授業をしていただいたりしている(2015年2017年)。

 

この春、「井上さん、今年の授業はどんなことをするの?」と塩見先生から問い合わせがあり、

「空白やすきま、欠けの創造性をテーマにします」と答えたら、

「あいかわらず面白いわね」と返答があり、夏前にワークショップのメニューを届けていただいた。

驚くほど充実した内容だった。

音楽性が高いので、ピアノ専攻の砂原悟先生、作曲専攻の岡田加津子先生に相談し、いっしょに美術・音楽合同の公開式授業をすることになった。

お二人とも東京芸大音楽学部出身で塩見先生の後輩にあたる。

砂原先生からはミニピアノを貸し出していただく(先週の京都コンサートホールでのリサイタルに行けなかったのが残念)。

ミニピアノは鍵盤の数が少ない。まさに普通のピアノから見たら「欠け」ている。

 

塩見先生にフライヤーの校正を送ったら、

何と不思議な樹木の写真でしょう! 

まさに<時間と空間に分け入る>というタイトルにぴったりです。

どうしてこうもシンクロするのでしょう・・・。」と。

 

本当に不思議な縁を感じる。

 

Au revoir l'Ecole primaire Suujin

21 août 2019, mercredi

 

柳原銀行記念資料館から頼まれた秋の特別展「さよなら崇仁小学校」のチラシとポスター2種のデザイン、東北から帰宅後に取り掛かる。

 

デザインは、今回の展覧会のメイン出品物である音声レコードの盤面の五線譜の5本線を発展させて、構成した。

競技トラック、レコード盤の動き・・・

苦労したのは、昭和7年の運動会の記録映像から子供たちの運動する姿を抽出し、切り出すこと。

ほかにもいっぱい切り出したが、使ったのはとりあえずこれだけ。

 

それにしても1932(昭和7)年、この年の前後、崇仁小学校に何かが起こっていた。

伊東茂光校長の働きによるのか。差別を跳ね返すべく、とても高い教育レベルだったらしい。

資料館スタッフの奥山典子さんに教えてもらった当時の動きをもとに、チラシのウラ面にエピソード欄を勝手に作った。

人見絹枝が死の前年にコーチに来ていたとは。

 

土壇場でのタイトルの大きな変更(「崇仁小学校」→「崇仁校」)が入りかけたが、拒否できてよかった。

 

 

 

 

伊東茂光校長時代のエピソードを書いておこう。

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1930(昭和5)年 崇仁小学校が,大阪毎日新聞運動部に所属していた人見絹枝からコーチを受ける。

1931(昭和6)年 崇仁校本館落成式。記念に大公孫樹を植え,校歌「我等の歌」をつくる。

1932(昭和7)年 「静室」を作り,静座して伊東校長の講話を聴いた。10月,全日本女子オリンピック大会学童の部400mリレーで優勝。差別に負けないために始めた陸上競技の最初の到達点。

以後,この大会が終わる1934(昭和9)年まで毎年日本一を達成。地元の熱心な応援もあり,崇仁小学校大運動会も開催される。

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崇仁高瀬川保勝会の川掃除チラシも同時進行でデザイン。深夜に出稿。

 

崇仁高瀬川保勝会チラシ

 

崇仁高瀬川保勝会チラシ

 

藤尾まさよさんが原稿を書いてくれたので、取材などいかなくて済んだ。

 

Poser un plancher

18 mai 2019, samedi

 

車で事故。

忙しすぎるためか、めげる。

 

それでも時間がないので、2時間後、単車で東九条まで赴き、ソルカフェの2階の床材をつくる。

加工場所の崇仁小学校からカフェソルまで切った床材を数往復して手で運ぶ。車がないからだ。

ソルカフェ床

床板は12mm構造用合板(税抜1080円)。コーナンプロ吉祥院に調達に行き、借りた軽トラで8枚運ぶ。

ほかに照明具なども。

夜9時すぎには床板を6枚仮置きする。

喜ぶ女子たち。

Le bâtiment d'il y a 2000 ans

10 mai 2019, vendredi

 

5月10日(金)〜11日(土)、総合基礎実技の研修旅行

・1日目:太陽の塔〜みんぱく〜弥生文化博物館〜信太山青少年センター泊

・2日目:舞洲工場〜付近で「狩猟採集」行動

 

「縄文的精神で歓待の場(器)をつくる」という課題とたまたまつながって、岡本太郎の縄文から弥生へ、70年万博から2025年万博へ、生命の木からゴミの海へ、という研修内容になった。

総合基礎の研修旅行につきあうのは20年ぶりだが、副委員長(来年は委員長)なのでしかたない。

予約の行き違いでいったん拒否された舞洲工場とも交渉して何とか見学できるように努力した。

 

この日、iPhoneのカメラが働かず、デジカメも故障して、写真記録がじゅうぶんできなかった。

単車からはじまって、最近、身辺の機器に故障が多い・・・

 

池上曽根遺跡

弥生文化博物館は下見で訪れたので、ぼくは先生や学生たちから一人離れ、近くの池上曽根遺跡へ。

弥生中期の大規模環濠集落の跡地だ。

高床式の巨大掘立建造物が復元されている。集落の中心にあった神殿兼集会所なのだろう。

復元された建物は床高4m、全高11m、東西17m、南北7m。

残った柱の伐採年代は紀元前52年という。

池上曽根遺跡

逆台形に左右に張り出した屋根のかたちが面白い。

大棟を支える東西の独立棟柱は高さ9m。大棟の先端には鳥の形が彫られている。破風板は土器などに見られる文様で装飾されている。弥生期の復元建築では全国最大級という。

根拠となった絵が刻まれた土器片の写真が資料館に掲示してあった。

池上曽根遺跡

土器の表面が縄文・弥生の記録ノートだ。

何にでもかたちを変え、線刻をとどめる土は、古代のコンピュータみたいなものだと思う。

逆に言うと、コンピュータメディアは粘土なのだ。つまり人類には記号やイメージを受け止める表面が必要ということだ。

 

真正面に巨大な井戸跡があり、直径2m・樹齢700年のクスノキを刳り貫いてつくっていたらしい。

本殿の東側に2本の掘立柱が南北線上に並んで立ち、冬至のときは南の柱の影が北の柱に届き、夏至のときは南の柱の影が井戸に指したという。

豊饒と繁栄を祈る祭祀の広場だったのだろう。

池上曽根遺跡

池上曽根遺跡

昨年9月の台風で、メインの建築は階段などが壊れ、中には入れない。

井戸を覆っていた覆い屋も倒壊したまま、ほったらかしだ。

 

一人でスケッチしていると、学芸員の人が資料館から出てきて、話しかけてきた。

池上曽根遺跡は、20年前に国指定の史跡になったときは話題を呼び、羽振りも良かったそうだが、やがて人々の関心も薄れ、和泉市と泉大津市の共同管理になってからは維持費も十分でなく、すぐに修復できないらしい。

この広場にも墓などの史跡が復元されていたが、いたずらされるので、撤去してしまったという。

そのため現在は中途半端にだだっ広い空間が残され、説明パネル類も砂に埋もれていた。

史跡公園そのものが遺跡化しているのだ。現代人のすさんだ行動のせいといえる。

 

だが、それ以上にこの遺跡で感じたのは、農耕と鉄器製造技術で栄えた弥生文化の反縄文性だ。

高殿の中心にした祭祀空間のまわりには鉄器製造の工房が広がり、一般の住居は集落の外縁に集中していたという。

サヌカイトの破片の捨て場も残されていた。

農耕と鉄器は、それまでの長閑な縄文文化との断絶をつくりだし、生産合理主義を軸にした階級社会を発展させていった。

その延長に今の文明がある。復元された高殿を見ていると、「こいつらめ」という反感がふつふつと湧いてくる。

 

池上曽根遺跡

池上曽根遺跡

がんばって復元したらしい2棟の建物がぽつんと建っている。

柱は残念ながらコンクリートで、これも人が荒らすため、中には入れないようになっている。

 

来春、みんぱくの「先住民の宝」展で、マレーシアの先住民オランアスリの森の集会所の復元制作を依頼されている。

そのため造作に目がいく。

 

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11 mai 2019, samedi

 

翌日は舞洲工場。昼食はバーベキュー。

海岸沿いの花畑で休んでいると、ソルさんのカフェ2階の改装作業をしている連中から連絡が入り、電気配線を切断してしまったという。

そういえば丸鋸を貸していた。

絶縁テープを巻いておくようメールで指示。

18時過ぎにバスで芸大に戻ってから、単車で現場に向かう。

やれやれ。。。