Le concept "terrasse", c'est pourquoi ?
1 octobre 2023, dimanche
京芸の崇仁移転オープニングセレモニー(堀場信吉記念ホール)。
なんと司会は大崎緑。版画の大学院の修了審査の副査をした彼女、宝塚出身だから姿勢も声もよく、舞台なれした堂々とした司会ぶり。
赤松学長も鷲田前学長も、「テラス」がこれからの京芸の理念であることを挨拶で述べ、2015年に発案した「テラス」という移転基本コンセプトがかき消されることなく残ったことは嬉しかった。だが反面、なぜ「テラス」なのかというとき、「浮いて・開く」というあり方が芸術大学にふさわしいという側面だけが強調され、崇仁の土地の歴史に由来することは語られず、大事な側面が蒸発して明るいイメージだけになっているように感じられて、さみしかった。
移転先の崇仁地区は、もともと鴨川の氾濫原で土地ならざる土地だった。だから高瀬川が開削されて人が住めるようになると、河原に非人小屋を建てていた被差別民は六条村に強制移住させられた。江戸時代、御土居の外にあった崇仁地区は京都人のゴミ捨て場だった。だが、河原は人間世界が自然と交わる場所であり、そこでのマイノリティたちの生きる術は、芸術や芸能が生まれる母体である。さらに言えば、人間の文明はすべて川のほとりで生まれた。
10数年前の法人化のとき、京芸をだじゃれで"@KCUA(水)"とし、「生命を養う水のように芸術が人々の暮らしに浸透し、創造力豊かな社会に貢献すること」を京芸の基本理念とすることを提案した(*)。だからそもそも、京芸には水のイメージも濃く漂っていた。これはぼくだけかもしれない。そして、テラス terrace, terrasse がラテン語の terraに由来することもふまえて、京芸は移転後、人間が奪い合う「土地」ではなく、人間以前の「大地」に返って「芸術」とその教育を原点からやり直すという、無理な願いを「テラス」には込めていた。
移転が完了したから、もう出してもいいだろう。
2015年6月末、当時理事だった高橋悟さんから、建築コンペのために移転基本コンセプトを、ぼくと小山田徹さんでわかりやすくコンパクトにまとめることを頼まれた。2晩徹夜してでもと言われたが、彫刻専攻のミーティングルームで、まずキーワードを出そうとして、比較的すぐに「terrace」の語が出た。そのすぐあとにクロッキー帳に描いたスケッチがこれだ。
なぜ頼まれたのか不明だが、その年の3〜5月、最初の移転プレ事業の"still moving"に二人とも参加し、地域や場所性から着想した作品を展開したからかと想像する。「terrace」には建築のイメージに直結する具体性があった。
同じ紙の裏にはすでにロゴのイメージの下書きも描いていた。
スケッチ下の落書きをあらためて読み取ると、こんなことを書いている。
今もそうだが、ぼくの発想は、意味のある言葉ではなく、音で意味が横滑りすることが根幹にあり、だからしゃれが頻発する。
テラスを「照らす」として、「テラス音頭」というふざけたものを提案書に入れた。これはその後、もみ消される。
2015年当時は、元崇仁小学校のあったエリアに京芸の一部が「先行移転」することになっていた。
そこを”Terrace #0”としようというのは高橋悟さんの発案だった。"0"を東九条の「ゼロ番地」、また「穴」とみなすというアイデアは気に入った。作家どうしのアイデアの相乗効果だった。
8月の拡大理事会までに移転案をまとめなければならず、7月は、高橋悟さんとぼく、またstill moving展のアートディレクターだった建築家の長坂常さんの事務所に模型をつくってもらうなど、バタバタと作業した。
「材料や工法面では未来を先取りする」と書いたのは、新しい木造が念頭にあったのだが、残念ながら実現したのは鉄筋コンクリートだった。コストや工期のためだが、これはそのうちもっと残念に思うようになるだろう。
前年2014年秋に「先行移転」は音楽学部の「音楽ホール」からという、京都市からの提示があり、音楽教育の一体性が損なわれると、音楽学部が猛反対した。学部のブレーンだった津崎実教授が市長への要望書案をまとめ、それをぼくが年末に大幅に手直しして、2015年1月末に京都市に出した。幸いそれは認められたが、先行移転の考えは2015年中は維持された。
一括移転の構想となったのは、2016年1月。京芸は京都市の施設だから、どうしても市にふりまわされる。先行移転はなくなったが、terraceの構想はそのまま維持した。そして、あれこれとした注文に対応しつつ、2016年10月に現在公開されている「移転基本コンセプト」をまとめ直した。それをもとに2017年5月に公募が始まり、槙文彦や隈研吾など大御所も名前を連ねる25組の応募者のなかから、乾久美子さんを中心とした横浜国大系のチームが選ばれた。
乾さんの基本計画は「まちのように育まれる水平につながっていくキャンパス」といい、「テラス」という言葉は出てこない。川や崇仁という地域性ではなく、京都の都市構成との対応を念頭に置いている。できあがった建物は、テラスの構想どおりだが、理念としての「テラス」をもみ消す姿勢が気に入らない。それは建築ではなく、運用の問題と言いたいのだろうが。
オープニングセレモニーでは、音楽学部の演奏以外に、1階通路で崇仁の子どもたちのお囃子演奏があった。伝音に竹内有一先生がいて下さるおかげで、地域とのつながりが加味され、ほっとする。7階に世界人権問題研究センターが入ることを教員の多くは知らないという。引越しにせいいっぱいで、外へは目が行き届かない状態だったらしい。
セレモニーの日は日曜で、世人研のある7階フロアには行けなかった。だが、高さ2.6mの大きな床の間風展示空間をつくれるか心配で、一人で天井の高さを測定器で測ったり、総務課職員に資材搬入経路をたずねたり、エレベーターに3メートルの柱材は入るかと尋ねたりした。まるで業者だ。10月6日に資材搬入して、現場施工する予定なのだ。
総務課や教務課など、事務局員は芸大を支える大事な人たちなので、彼らの働くスペースは人もうらやむ優れたデザインであることが望ましい。
事務局スペース。使い勝手や居住性はどうだろう。
赤松学長が学長室を見せてくれる。ちょうど川田知志君もいた。ちょっと学長室はかわいそうだ。天井は低く、眺めも悪い。
芸大の学長室らしく、ユニークな空間に変貌するか。窓の外を畑にすればいい。
鷲田前学長が壁画を描かせて学長室をサロン的なものに変えたのは、すばらしいアイデアだったと思う。