En souvenir d'un architecte

29 juillet 2018, dimanche

 

正午から梅田の新阪急ホテルにて、建築家・狩野忠正を偲ぶ会。狩野忠正を偲ぶ会

建築家の狩野忠正さんが5月30日に80歳で亡くなられた。

アートスペース虹の熊谷さん経由で、この日の「偲ぶ会」への誘いが来た。狩野さんには若いときにお世話になったので、出ないわけにはいかない。

10分ほどおくれていったので、冒頭の安藤忠雄さんの挨拶が終わっていた。

会場では熊谷さんだけでなく、久しぶりに建築誌編集者の南島順子さんともお会いできた。

 

狩野忠正さんと知りあったのは、1986年ごろだったか、アートスペース虹の熊谷さんを介して、南島順子さんから大阪府建築士会の機関誌『HIROBA』の誌面デザインを頼まれたときだった。

ぼくは高校時代は建築志望で、美術と同じくらい建築が好きだった。当時も『美術手帖』より『SD』をよく読んでいた。

熊谷さんは、ぼくがグラフィックデザインができることを知っていて、南島順子さんからデザイナーの紹介を頼まれたときにぼくを推薦した。それで会ったのが狩野さんで、当時は竹中工務店の設計部長であり、同時に『HIROBA』の編集長として内容刷新にも情熱的だった。

当時はポストモダンが云々されていて、表紙のデザインはスタジオ・アルキミアのミケーレ・デ・ルッキがやることが決まっていた。ぼくの担当は中の誌面デザイン。

『HIROBA』の誌面デザインには、静岡に行くまでの2〜3年間関わっただろうか。

その流れで、建築家・坂本一成の作品集をデザインしたこともある。

まだ美術活動を始めていないときだった。

 

その後1990年に、熊谷さんから企画展「ノート'90」への参加依頼を受けた。

そのときの他の2人の参加者が、狩野さんと中原浩大だった。ぼくは静岡県立美術館の学芸員として『静物』という企画展を終えたばかりであり、研究やデザインの一方で、ドローイングやノートを描きためていた。展覧会の趣旨も、「作品」ではなく、日ごろの思索や作業のプロセスを「ノート」として見せなさい、ということだった。ぼくは素直に応じた。

DMや封筒などの余白に描いたドローイングが初めて売れたのはそのときだった。

狩野さんは粘土の習作を数点並べ、展示台の設計もしてくれた。

浩大は18歳頃のスケッチから作品のヒントになったりならなかったりした沢山のフィギュアやレコードジャケットなどを出した。

 

後日、当時の記念写真を熊谷さんが送ってくれた。note90

 

その後また関西と疎遠になったので、狩野さんののちの動きは知らなかったが、1995年に竹中工務店を退社して、独立事務所をかまえたときにベルリンに一年半滞在されたらしい。

 

偲ぶ会は建築家と建築関係者ばかりで、畑違いはぼくくらいだったので、挨拶をさせられた。

とっさにぼくは、自分は今美術家として活動しているが、建材としての土に興味を持っていること、狩野さんならどうだったろうか、大地と空間造形の関係をどう考えられただろうか、としゃべった。

ちょうど偲ぶ会の受付に、狩野さんの遺著『Message from Berlin 一建築家の思索の日々』が並んでいたので買って帰った。

 

あとから熊谷さんから、狩野さんが『HIROBA』に書いたエッセイが届いた。なんと僕自身がデザインした誌面に、狩野さんは「現代建築は土を忘れている」と書かれていた。まったく記憶から消えていたのだ。

偲ぶ会ではうかつな発言をしてしまった。

 

またわかったことは、狩野さんは村野藤吾に深い影響を受けていて、「ノート'90」に出された粘土習作も、『Message from Berlin』に載ったたくさんのデッサンも、手を動かしながら建築を考える村野藤吾に触発されたものだったことだ。

ベルリン滞在も、建築を一から考え直すためだったのだ。

ほんとうに建築を愛し、一途に追求したピュアな人だった。

去ってしまってから初めて人がわかる。

 

狩野忠正

1938年 韓国全羅南道麗水生まれ
1962年 神戸大学工学部建築学科卒業 竹中工務店入社
1981年 三輪そうめん山本本社(奈良県桜井市)で第6回吉田五十八賞
1994年 竹中工務店プリンシパルアーキテクト
1995年 狩野忠正建築研究所設立
1997年 神戸大学工学部建築学科教授
2001年 神戸大学名誉博士 大阪芸術大学建築デザイン学科教授
2008年 大阪芸術大学大学院客員教授 (その他)

2018年 逝去

 

un danger d'effondrement

9 juillet 2018 (lundi)

 

先週の豪雨で、つちのいえが心配になって見に行ったら、東側の柱が束石からずれていた。

雨が短時間に茅葺き屋根に大量にかかって、相当な重量になっていたのだろう。

先月の大阪北部地震(6/18)で束石と柱がずれ動いていたのかもしれない。

つちのいえ

つちのいえ

 

12 juillet (jeudi)

 

毎木曜のつちのいえの授業時、長谷川直人さんといっしょに修復する。

つちのいえ

屋根の梁に使っている竹に足場丸太を細く調整して挿し込み、強度を高める。

次にジャッキアップ。これは好きな作業だ。

つちのいえ

元の柱を浮かせて、束石を据え直す。

つちのいえ

支柱代わりに近くの樹木から太い枝を切り出して使う。

なんとか補強はできた。

 

ずれた柱と壊れた壁の間は近いうちに土を埋めよう。

 

 

inondation

7 juillet 2018, samedi

 

東京から戻った3日の夜から続く豪雨のため、西日本各地で洪水や土砂崩れが発生。

そういえば、3日夜、伊勢湾を車で通るとき、ものすごい豪雨にみまわれ、まわりを取り囲むトラックの水しぶきで、まるで水中を走っているようだった。

 

高瀬川保勝会の川掃除も当然中止。

 

大雨情報

 

ただの豪雨ではない。

気候変動をからだで感じる。

 

 

la Terre sans l'être humain

mardi 8 mai 2018

 

あるとき、ぼくにとって美術は「人間以外のものと仲よくなる術」だとわかった。

いつも人間以外のもの、そして人間以前、人間以後を考えないといけない。

宮澤賢治は、「イギリス海岸」で人間のいない時代のことを想像した。

レヴィ=ストロースは、『悲しき熱帯』で「世界は人間なしで始まり、人間なしで終わる」と述べた。

これは文学的感慨とは無縁の当たり前の真実。

 

200万年以上生存した化石人類はいない。あと100〜200万年以内の人類滅亡は避けられない。せいぜいもって数百万年。

 

だがそのあとも地球と生物の進化は続く。

 

暗い太陽のパラドクス

太陽は誕生以来、少しずつ明るくなっている。

地球ができた頃の太陽は今より30%暗かった。にもかかわらず地球は凍りついていなかった。

理由:現在の数千倍〜数万倍ものCO2による温室効果による。CO2はカンブリア紀でも10〜20倍。

*現在の地球の平均気温=15℃ → 温室効果を引くとー18℃になる

*負のフィードバック:太陽が明るくなるにつれて、温室効果の上昇をとどめる負のフィードバックが働き、地球の温度の急激な上昇や下降を抑制した。

 

二酸化炭素の減少・温度上昇・生物絶滅

だが数億年の単位でみれば、大気中のCO2は減り続け、負のフィードバックが効かなくなる。すると地球の温度は上昇する。

CO2の減少は、光合成をさまたげ、やがて植物は滅びる。水蒸気もなくなっていけば、生物は地上に住めなくなる。

体の大きい多細胞生物は、生存できる環境の幅が狭く、まず多細胞生物がいなくなる。

→ 次に単細胞生物のなかでも真核生物がいなくなる。

→ 最後に残るのは古細菌や真正細菌。それらは初期と同じ好熱菌。

 

パンゲア・ウルティマから海の蒸発へ

プレート理論によれば、2億〜2億 5000 万年後に再び超大陸ができる(パンゲア・ウルティマ)。

その前後、1.5億〜4.5億年後に、地軸の傾きの変化が混沌となり、地球の軸の傾きは 90°傾き始めるかもしれない。

磁気ダイナモ(磁場)は破壊に追い込まれ、大気圏からは揮発性物質が加速して放出されていく。

約 10億年後には、太陽の明るさは現在より10%明るくなる。

これは海洋の暴走蒸発をもたらし、地表の液体はすべて蒸発し、海も消滅する。

プレートテクトニクスは終了し、最後に全体の炭素サイクルも終了する。

遅くとも20億年後までには、地球のすべての生命は絶滅する。

だがその後も地球は、赤色巨星になった太陽に飲み込まれて蒸発するまで、生命なき星として存続する。

今とはまったく別の姿の星として。

 

生命史は地球史の約半分

地球の歴史は約45億年前〜約50億年後のおよそ100億年。

生物の歴史は約40億年前〜約10億年後のおよそ50億年(全地球史の半分)。

現在は地球史全体の大体5分の4が終わったところ。

 

 

mon iPhone est cassé...

samedi 5 mai 2018

 

この日の高瀬川の川掃除には、東九条マダンの人も参加して、にぎやかだった。

ぼくは複数形の世界展のために、高瀬川の水中撮影をするつもりだった。

takasegawa

ところが先日29日のアオダイショウに続いて、今日は大きなクサガメがいた。

takasegawa

takasegawa

takasegawa

川底の泥に頭を突っ込んで餌を探す亀

 

それも撮影しようと、デジカメを甲羅に載せたり、水中に沈めたりしているうちに、胸のポケットに無造作に入れていたスマホを水中に落としてしまった。

すぐに気づかず、崇仁小学校内の川掃除のあと、あわてて川の中を探して見つけたが、画面表示部がショートして使えなくなってしまった。

iPhone6sはまだ防水性ではないのだ(iPhone7から耐水性)。

機種交換しか手がないらしい。

 

不注意だった。