effacement de ma maison natale

16 août 2017

 

ブリューゲルの『バベルの塔』を見に、大阪の国立国際美術館へ。

お盆なので、その後、大阪の四天王寺にお参りし、生家のあった針中野まで足をのばす。

 

針中野

 

針中野

 

針中野の地名の由来は、この中野鍼にあることぐらいは知っていたが、中野家は、大正時代に大阪鉄道(今の近鉄)の開通に尽力したので、「針中野」の駅名がついたそうだ。

中野鍼は、「弘法大師の伝授した鍼の技術を今も伝える」と言われているらしい。(

かんしゃく持ちだった幼年期の僕は、よくここに連れて来られて鍼を打たれて泣き叫んだが、弘法大師の鍼だったのか。

それでのちに真言密教に興味をもったのか。

 

生まれ育った場所とはいえ、高校を出てすぐ生家を離れたので、土地にも家にも何の未練もなかった。

そもそも生家は薄い壁を通して隣の音もよく聞こえるオンボロ長屋の借家だった。

土地も借地だった。道路より低く、よく床下浸水した。

 

10年前、文化庁芸術家在外研修で在仏中に父が亡くなり、家賃を払い続けるのもむだなので、借家の生家も家主に返すことにした。

又貸しでややこしい借り方だったので、昔は裁判沙汰にもなった。返却処分には弁護士の助けが必要だった。

ちょうどそのころ始めたブログに、家を処分する記録が載っている。

> 11 avril 2007 le denière jour de ma maison natale

 

それからめったにこの地を訪ねることもなかった。前回来たのは2011年8月19日。

今年は実家を撤去してちょうど10年目。

googleの航空写真で見たら、建物がなくなっているようだったので、実際に見に来たのだ。

 

やはり家は消えていた。

中野150番地

生家があった借地は、セブンイレブンの駐車スペースになっていた。

 

中野150番地

このコーナーにすごいトタン張りの家(野路さんち)があった。

「バベルの燈 水平化すれば コンビニに」

 

中野150番地

うしろの駐車ガレージはそのまま残っているので、それを目安にすれば、この辺りが以前の家の正面か。

 

 

中野の実家

かつてあった実家(2007年3月16日)。

幅一間半。店じまいしたクリーニング店と中華料理店にはさまれていた。

 

野路さんち

角にあった野路さんち。トタン張りがすごかった。(2007年3月16日)

よく見ると、歩道の手すりやポールはそのまま残っている!

 

 

中野150番地 

 セブンイレブンでアイスキャンデーを買った。

 レシートに住所が記してある。

 東住吉区中野4丁目8 - 19。

 まぎれもなく僕の生家の住所。

 区画割で4丁目となる以前は「中野町150番地」。

 

 戦後、市街地が田畑をつぶして拡張していく。

 中野町150番地はその前線地だった。

 廻りは田んぼばかりで、ぼくは都会っ子ではなく自然児だった。

 

 本籍もまだここ東住吉区中野4丁目8にある。

 本籍がコンビニというのは面白い。

 このレシートは本籍証明書になる。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

親類からまかされていたお好み焼き屋(ミッキー)が近くにあったので、そこにも行ってみた。

ミッキー

 

ミッキー

やはりなくなっていた。こちらは駐車場になっていた。

向いに小倉屋の昆布工場があったが、今は高層マンション。

 

色即是空、空即是色。

 

 

voyage d'Iwate_4: lumière

10 août 2017 jeudi

 

日本の近代芸術史をしっかり勉強してこなかったので、今回の旅はその再学習の旅でもある。

 

朝、花巻市太田にある高村光太郎記念館と山荘を訪ねる。

高村山荘

高村光太郎(1883−1956)が1945年11月から1952年10月までの7年間独居したという小屋は、二重の建物で覆われていた。

 

高村山荘

もとの情景。小屋はもと鉱山の飯場小屋を移築したものという。

左手に光太郎。右に厠(月光殿)、風呂小屋。(案内板から)

 

賢治の死後、著作集の刊行などによって賢治が知られるようになったのは、光太郎の尽力によるところが大きい。

そんな近代文学史の常識も知らなかったことが恥ずかしい。

 

1945年に東京のアトリエを空襲で失った光太郎は、懇意にしていた宮澤賢治の父と弟(宮澤清六)を頼って花巻に疎開しに来た。

だが花巻も8月10日に空襲に会い、再び住む場所を失った光太郎は、終戦後の10月に太田村山口の小屋に移り住んだ。

このとき62歳。

 

小屋は、7坪半(22.5屐法間口3間奥行2間半、杉皮葺きの屋根に天井板なし、荒壁、障子一重。

寒風吹き込み、ときには零下20°にもなるなか、炉で焚き火し、井戸から水を汲み、石油ランプで過ごした。

戦意高揚のための詩を多く作ったことへの贖罪の気持ちから、「自己流謫」と称し、自らに彫刻も禁じ、農耕自炊の独居生活を選んだという。

 

高村山荘

じつに決まった写真。何かの取材のときか。服は特別あつらえらしい。

高村山荘

 

光太郎はこの小屋暮らしで、「書」にめざめ、数百点もの「書」を遺した。曰く、

「書を究めるという事は造詣意識を養うことであり、この世の造形美に眼を開くことである。書が真に分かれば、絵画も彫刻も建築も分かる筈であり、文章の構成、生活の構成にもおのずから通じて来ねばならない」(高村光太郎「書について」)

 

「この世の造形美」というところが大事だ。人がつくらなくてもすでに自然は造形美に満ちている。それをどうすくい取るかが芸術の要だ。この世の造形美は水と光、そして生命がかたちづくる。

障子に描いた日時計がひどく美しい。ヒモが障子に落とす影で「時」をはかる。

 

高村山荘

 

光太郎は自分の名前を構成する文字「光」にもあらためて気付いたのではないだろうか。

この7年間、彼は彫刻を自らに禁じたというが、ひとつだけ彫刻がある。

月光殿と名づけた厠の板壁に彫った「光」の文字だ。

 

高村山荘

 

高村山荘 

光太郎がこの文字を彫っているときの写真がある。(撮影は濱谷浩)

これは彼がこの土地で実践した書と彫刻と建築を統合した唯一の造形といえるのではないか。 

 

10年前、ぼくはネオンで「影」という作品をつくった。影という文字が光って、影をつくりだす。

おそれおおいが、それを思い出した。

 

高村山荘

光太郎が試掘したらしい井戸が小屋の近くにある。「光井」と名づけられていた。

光の井戸。

 

高村山荘

苔むして美しい散歩道がうねる。

 

光太郎はこんなことを書いている。

 

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 山 林

 私はいま山林にゐる。
 生来の離群性はなほりさうもないが、
 生活は却て解放された。
 村落社会に根をおろして
 世界と村落とをやがて結びつける気だ。

  (『暗愚小伝』より)

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賢治が羅須地人協会で夢見たような、ユートピア思想がかいまみえる。

世間から離れて田舎に移り住んだ芸術家はみなこういうふうに思うのだろうか。

自分の中にもゼロとはいえないユートピア志向。

 

高村山荘

智恵子展望台にも行ってみた。基礎が新しい。最近建て替えられたらしい。

 

 坂を登るとここが見晴らし

 展望二十里南にひらけて

 左が北上山系

 右が奥羽国境山脈、

 まんなかの平野を北上川が縦に流れて

 (高村光太郎『案内』より)

 

 

voyage d'Iwate_3: école du jardin

9 août 2017

 

羅須地人協会の建物を出たところに、宮澤賢治の「農業芸術概論綱要」の石碑がある。

農民芸術概論綱要」は、賢治が協会での講義用に執筆した。

「まずもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばろう」という有名な言葉もこのなかにある。

 

石碑の南側に起伏のある芝地があり、賢治の銅像がある。

羅須地人協会

普通なら平らに均すところが、起伏を強調しているのが面白い。

 

賢治は花壇の設計もしている。

花巻農業高校には造園科があるらしく、芝生地の南に造園技能検定場と造園見本園があった。

花巻農高_造園科

 

花巻農高_造園科

検定試験は、石8個、正方形の平石3個、直方体の石2個で、1.5mx2mくらいの与えられた敷地に庭を造形せよ、というものらしい。

隣の造園見本園には、1級から3級までの検定用造園見本、さまざまな飛び石の見本、竹垣の見本があった。

造園見本園

 

造園見本園

1級

造園見本園

2級

造園見本園

3級

 

石の並べ方の真・行・草の三態もあった。

造園見本園

造園見本園

造園見本園

 

飛び石の見本。

造園見本園

 

造園見本園

 

造園見本園

 

造園見本園

 

ずらりと竹垣の見本群もあった。

造園見本園

 

見本園の入口には門もしつらえてある。

造園見本園

屋根は苫葺きで、シンプルな作り。つちのいえの参考になる。

 

造園見本園

造園見本園の東には環境科学棟があり、その前に造園実習で使うらしい庭石がランダムに積み上げられていた。

 

造園

敷地内は溝ブタも多様である。