Parc des petites inventions

23 mars 2019, lunedi

 

不思議な出会いというのがある。いや、再会といったらいいのか。

23日(土)夕方、崇仁高瀬川保勝会の春の川掃除チラシが届いたというので、柳原銀行記念資料館に取りに行ったら、たまたま吉田寮の学生たちが来ていて紹介された。

資料館職員の木村理恵さんも元吉田寮生で、京大時代は地理学専攻だったという。奇遇である。

(木村さんから、先のチラシにある「世界記録遺産」というのは、地域ではなく特定の歴史資料などに当てられる、と正された。)


吉田寮生たちのなかに『京大新聞』の編集部がいて、最新号と前号をもらった。これも久しぶりだ。

学生時代、京大新聞の広告欄に、当時の岡本道雄総長を批判する過激な猥褻漫画を描いて原稿料をもらったのが、ぼくのヴィジュアルの初ギャラだった。現物はもう残ってないが、クールベやデュシャンを援用した気がする。

 

木村さんは、今資料館でやっている「奪われた骨・奪われた人権——アイヌ民族・琉球民族・部落」という良企画展に、吉田寮のコーナーも設けることを考えたが、うまくいかず断念したという。

反動的な分断が進む現在、吉田寮のように分断線をかき混ぜるボーダーレスなコミュニティ空間を守る意味は小さくない。

吉田寮は京大の中でもマイノリティ。これから取り組んでいく先住民の問題にもつながるところがある。

 

とはいえ、学生時代、造形表現に関心をもたない吉田寮生一般のあいだにあって、ぼくは完全にマイノリティだった。

だからマイノリティのなかのマイノリティ。

それゆえ、吉田寮に特別の郷愁や愛着はないし、さらに芸術と無縁な京大にも母校感覚などない。

関東大震災の難民の孫であるぼくは、今も帰る先のない難民なのだ。

 

帰り道、クマグスクでやっている「カサルーデンス」のDIY探訪記展に立寄った。

「発酵をよむ」展にきてくれたはがみちこさんがメンバーのひとりで、彼女から『カサルーデンスのDIYレシピブック』をいただいた。

マイノリティが生き延びるには、何より工夫と技術しかない、と思っているので、興味深く読んだ。

少し前に大学院生たちとやっていた「くふうの公園」プロジェクトに通じる側面がある。

だがカサルーデンスのDIYはより個人主義的で、コミュニティ形成を志向しているところがちがう。

「くふうの公園」のサイトを見直してみたら、あらためて意義を感じた。

生きることを多少助けはするが、もっとアノニマスで、自己主張もなく、はかなく消えていく小さな工夫の数々。それを造形的なフィルターですくい上げていくこと。

この春、再開することにしよう。

 

le nettoyage du canal Takasegawa vol.18

20 mars 2019, mercredi


夜、春の崇仁テラス設置と川掃除のチラシを出稿する。

いつもの印刷会社のデータ受信にやたら時間がかかり、この日じゅうに送信完了しない懸念があって、深夜、印刷会社とやりとりする。

深夜まで会社に詰めて顧客対応に当たる社員もたいへんとは思うが、ブラックな仕事の進め方は、ぼく自身のスタジオそのものがやっている。作品制作だけしてたらいいのに、デザインもする。休みも娯楽もない日々。

高瀬川保勝会チラシ

 

]というウェブサイトがいつのまにかできている。

芸大の基本設計などの資料がダウンロードできるようになっている。

そこに、昨秋、ぼくが元崇仁小学校でやった「水の生きものでアートする」の展示光景が唯一の絵としてアップされている。

知らせてくれてもいいのに、と思う。子どもたちが描いた絵だからヴィジュアルとして使ったのだろう。

だが、ここまで導いた人間がいたことは無視。ヴィジュアルの生産者は無産者である。

 

・・・

この日、午前中は、十三回忌を忘れてしまった父の墓参。

三笠霊園の高台の上は無風だった。生駒山がはっきり見える。

 

墓の敷地の草抜きをしていると、スミレの若葉。

 

dessins

15 mars 2019, vendredi

 

この日は今年度最後の教授会。夜は美術学部の退任記念パーティ。

帰宅途中、ふと「絶筆」という言葉が頭をよぎる。

 

このところ、ずっと立体やインスタレーション、あるいはデザインばかりやっているが、

つい先日、東九条マダンやんそるさんから、今年度の報告書のために何か書いてほしいと頼まれ、久しぶりに鉛筆で絵を描いて提出した。昨秋のマダンの祭の動画を見ながら、マチスのダンスや山口薫が絶筆に描いた輪になった人間をぼんやり思い出しながら、鉛筆を動かした。

それが描きたい欲望に火をつけた。

絵を描くのが本来の人間であれば、やはり最後は「絶筆」とならねばならない、と思う。

自分はどんな絶筆になるか。

 

そう思って帰宅すると、深夜、どうしても筆で絵を描きたくなる。

絵筆を水に浸し、絵具を滲みさせると、筆先にビリビリと電気が走ったような感じがした。

 

「日々絶筆」という気構えは、井上有一だったか。

 

dessin190315_1

 

dessin190315_3

 

dessin190315_2

 

prunier

8 mars 2019, vendredi

 

3月8日は、の13回忌だった。

12年目なので、うっかり勘違いしていた。

父の戒名「心月院梅峰明善居士」は、梅の季節を詠み込んだいい戒名だと想う。

毎年、この時期、庭の梅が咲く。

 

梅

 

先日(3月3日)、盆梅展というのを米原の薬草の里文化センターで見た。

盆梅

「盆」は、自然を玩物化する極東アジアの文化風土に根ざした文化装置だ。

 

盆梅

 

ぼくが愛でるのは、さまざまなものの非意図的で遊戯的な関係性だ。

これは「盆・・・」、なんと言おう。

とりあえず「盆雑」としておこう。

一見偶発的で雑然としているが、複数の必然性が要素をちぐはぐに関係づけていて、それが予期しえぬ美的かつ生態的効果を生んでいる状態、と言ったらいいか。

普通の人間が見向きもしない「雑草」を愛でる感覚でもある。

 

 

Lit de rivière

2 mars 2019, samedi

 

2月半ば、1月26日のシンポジウムでの不十分な発表をまとめ直した。

いいかげんなイメージ・スケッチはそのまま載せた。

京芸のキャンパス・デザインに地域の場所性・歴史性が造形的に組み込まれていないのは残念なので、という話。

 

創造の河原1

こういう「河原」ができたら、それこそ京都芸大は「川の上のテラス」という基本コンセプトに立ち戻ることができる。

それに北側の団地が京芸に背を向けているが、高瀬川と河原が団地の大人や子供の憩いと交流の場になる。

地元にも開かれたという学食も近くにある。京都駅に近いから観光的な魅力もあるだろう。

 

京都芸大は基本設計が終わって、4月から実施設計に入る段階だから、これらのプランが実現するのはむずかしいだろう。

それに東九条の氾濫原提案は芸大の敷地から離れている。

また万が一この案が実現されることになると、仕事が増える。高瀬川の水流不足という問題もある。

だが、気候変動で日本各地で洪水が多発するなか、川と人の新しい関係を提案することは、高瀬川を持つ京都ならではの発想ではないか。ネオ東山文化は、多文化・多生物が共生する京都駅東南の「河原」から始まる、と。

しかしそれよりも、どこまで京都と京都芸大につきあうかという個人的問題もある。そもそもぼくは他所者なのだ。

 

この日(3月2日)の午後は、崇仁高瀬川保勝会の川掃除。

川掃除

中心メンバーの3人以外に、参加者はこのところ決まっている。

市営の共同浴場を管理している都総合管理株式会社の太田さん、京都景観フォーラムの辻野隆雄さん。立命館大生の藤原君はやたら熱心。もう中心メンバーだ。

地元住民は「ご苦労さん」と声はかけても参加しない。

 

西側では団地ビルの建設が進んでいる。

右に来る京都芸大B地区にとっては、目の前に高層団地の壁が建つわけだ。

コの字型配列の中庭になる部分。

崇仁

 

川掃除のあと、ワークショップと称して、近くの白蓮寺跡から崇仁ゆかりの石灯籠を救い出してきた山内さんが説明する。

 

地図

高瀬川が開削された1614(慶長19)年まもない頃の地図にある白蓮寺(時宗)。今は山科に移っている。

金光寺は今もある。東本願寺の枳殻邸(1653年石川丈山が造園)はまだなく、塩小路村とある。七条通に材木などを運んできた船のたまり場がある。高瀬川の東側と鴨川のあいだは畑。金光寺の東には火葬場とある。

当時の日本の人口は1800万人くらい。京都のこの辺りは閑散としていただろう。

山内さんが非人小屋と付箋をつけている辺りは、今の京都駅の北あたりか。

*『慶長昭和京都地図1611-1940』(柏書房)から。