Tout est le musique.

19 jan 2019, samedi

 

昨春から協力してきた柿沼敏江先生の退任記念公演会がこの日、ついに実現の運びとなった。

ぼくの「京都芸大退任記念展お手伝い5部作」の最後になる。

(1.小清水漸、2. ひろいのぶこ、3.藤原隆雄、4.秋山陽、5.柿沼敏江)

 

「フルクサスを語る」と題し、レクチャー、シンポジウム、演奏会の三部構成。

一柳 慧、塩見允枝子、建畠晢という豪華ゲストによる、フルクサスの興味深いエピソード満載の話は面白かった。

塩見先生の公演は、昨年の東京都美術館での「複数形の世界のはじまりに」展での「集落会議」に出品いただいた《無限の箱から——集落会議のために2018》の京都版。

こんなふうに作品が時や場所を越えてつながって展開していくのは愉快だ。

 

ぼくは例によって、裏方としてロープを用意したり、塩見先生を迎えに行ったり。

シンポジウムではコメンテーターとして発言を求められたので、”Endless(端がない)"という作品のあり方について質問した。

塩見先生からは、"Endless Box"のタイトルは、ナム・ジュン・パイクの提唱によるものとの答え。

宇宙のはじまりや終りに話がおよぶと途端に目がきらきら。足がお悪いというが、心はあいかわらず若々しい。

一柳 慧先生にも「作品のはじまりと終りをどう考えるか、はじまりも終りもない音楽のことを考えることはないですか」と尋ねた。

はじめ「それは哲学的で答えるのはむずかしい」といなされたが、最後は「ぼくは時間の枠を越えた音楽に興味がある、むしろ美術や建築のような空間を取り込むことを考えている」と、これも今の自分の創作上の関心事に沿ったアーティストらしい回答を得た。

 

この日もかんじんのことが言えなかった。

ジョン・ケージの《4'33"》の反対命題は「すべては音楽だ」ということ。そうであれば、音楽にはじまりも終りもない。だが、潜在的に音にあふれた世界の持続に気づかせるために音楽があるとすれば、それはどういうはじまりと終りを持つべきか。そういう問題意識からの問いかけだったのだ。

 

演奏会は、観客で満杯となった大学会館ホールで。

柿沼先生は、京都芸大の音楽学部ではフルクサスは音楽と認められていないので人は来ないのでは、と心配されていたが、予想以上に来場者があってよかった。

 

フルクサスを語る190119

リハーサルで。足が悪いという塩見先生がロープを振り回して、演奏方法を指示。やはりアーティストだ。

フルクサスを語る190119

昨秋亡くなった小杉武久さんの《Micro 1》(1961)を演奏する大井卓也さん。

マイクを紙で包み込み、その後、紙がじょじょに開いていく音を大音量で聞かせる。

大好きな発想だが、これが小杉さんがまだ東京芸大楽理科の学生だったときの作品というのがすごい。

小杉さんがかつてぼくに言った「すべては波だよ」という言葉がまだ頭の中で鳴り響いている。

フルクサスを語る190119

塩見允枝子先生の《無限の箱から—京都版》の最終曲「多元的ロンド」。

ロープや腕や楽器、声、ピアノ音など、さまざまな次元の回転を複合させた作品。

 

最初に演奏された一柳 慧さんの《電気メトロノームのための音楽》も予想以上にパフォーマンスが新鮮だったが、投影されたスコアの絡まり合う美しいラインは、ニューヨークの地下鉄の路線図がベースと聞いた。

 

この日の演奏をしてくれた音楽家にはユニークな人が多かった。

大井卓也さんは京都芸大の声楽出身で、よく塩見先生のワークショップでも演奏いただくが、たんぽぽの家のスタッフとして、障害のある人たちの創作活動にも関わっているそうだ。

北村千絵さんも声楽出身だが、今は専門をVoiceとして、声を使ったパフォーマンスや、ダンサーとのコラボレーションもしている。

上中あさみさんも打楽器の可能性をさまざまに追求しているし、橋爪皓佐さんもギター、作曲、映像やパフォーマンスとマルチだ。

山根明季子さんは、以前も会ったことがある意欲的な作曲家・ピアニストだが、ソーシャルキッチンで10時間の持続音による即興的なインスタレーションをしたという。

通崎睦美さんや山上友佳子さん、深川和美さんら、京芸音楽学部出身の何人かのユニークな人を知っているが、多方面でオルタナティブな活動をしている人が意外にいるということを知った。

「発酵をよむ」展で和琴を演奏いただく中川佳代子さんは、一柳 慧さんが卒論の指導教官で今も懇意だという。

世間は狭い。

 

時間軸をどう作品に取り込んでいくか、さまざまなものと地続きで「端のない」作品/芸術活動をどう展開していくか、

やるべきことの多さにクラクラするが、まずは自分が生きていることをじっくり味わい楽しむことが大事、と塩見先生に諭された公演会だった。

明日はなんとセンター試験の監督。

たぶんこれで最後になると思うが。

 

preparation

14 jan 2019, lundi

 

+1 Galleryで発酵展のための現場での展示実験。

特に映像の投影と空間を関連付けるため、焦点距離と映像のサイズ、柱や梁との関係の確認作業。

案の定、図面どおりにはいかない。

test

                            (撮影:稲垣智子)

1)布の仕事が減った分、スクリーン二つをつくる仕事が増えた。

2)不明だったことが確認できたのは大きい。やはりいくら頭の中で考えていても、現場は異なる要請や発想をうながす。

3)空間の造作やスケールにからだがなじみはじめた。

 

ニュースで梅原猛さんが1月12日に亡くなったことを知った。

(生前はいっさい接触がなかったし、本も読んだことがないので「先生」とは言えない。)

勤務する京都芸大の元学長で、東山から現在の沓掛への移転の立役者と聞いた。

京芸の教授時代は、ぼくが今いる研究室におられたそうだ。

その後ミホミュージアムの館長をされていたこともある。それでミホミュージアムに行ったとき、梅原猛さんの陶板が飾ってあったので、写真に撮って研究室のドアに飾っておいた。今もそのままだ。

悪筆だと思うが、門外漢の書を楽しんでおられたのだろう。

梅原猛

だがこの写真、いつミホミュージアムに行って撮ったのか、わからない。

 

 

Symposium "Se lier par la rivière" 26 jan.2019

12 jan 2019

 

1月26日(土)の「川デツナガル」のシンポジウムについて、連絡がないので、中止かなと思っていたら、やはりやるということで、文字原稿が水曜に中村伸之さんから届いた。

どうも内部の調整に難航していたらしい。

今年は停滞するかも、いや今年で終わるかもしれない気もする。

外部の人間が熱心で、かんじんの地域の人が動かない「まちづくり」。他所者である自分としては引き際を考える。

 

頭が作品制作に向っているので、頼まれたチラシのデザインに時間がかかってしまった。

今回はビジュアル優先でいく。

 

川デツナガルシンポ190126

川デツナガルシンポ190126

 

このシンポジウム、ぼく自身も発表しないといけなくなっているのだが、準備の時間が足りない。

それよりも発酵展との制作との兼ね合いが問題だ。27日から搬入予定なのだ。

 

lever les images des corps

8 - 9 janvier 2019

 

荒神口にあるart space co-jinで『おもかげおこし ふくわらい』の展示作業。

 

1月8日(火)朝10時、徳島の障害者支援施設シーズから13名ほどが到着。

施設のスタッフとともに、企画者の徳島県立近代美術館学芸員の吉原美恵子さん、デザイナーの内村不二子さんも同行。

おもかげうつしふくわらい

「この地下の穴が徳島につながってる。行ってくるね」と、地下室に降りたりして、彼らを喜ばせながら、三嶽伊紗さんの到着まで時間つぶし。

府立医大も近い付近は時間帯によっては駐車場を探すのがたいへんなのだ。

 

11時すぎから、co-jinのスタッフにも参加してもらって、型取りのワークショップを行う。

夏よりもみなはるかに手が動き、積極的だ。はるばる遠征してきたことも気分の高揚につながっているのだろう。

 

おもかげうつしふくわらい

ワークショップのプロセス。

たくさんの「光の手」が思い思いに同時に動く。

この神々しい時間にぼくも参入する。

 

おもかげうつしふくわらい

1月9日(水)、授業後に行ってみると、ほぼ会場はできあがっていた。

今回の会場構成のポイントは、今村さんらがぐうぜん見つけた画廊の地下空間を取り込んだこと。

床板に開けた穴をのぞくと、徳島県立近代美術館ギャラリーでの展示作業を天井から撮影した映像が見える。

チューブを通して、京都のco-jinの床下が、徳島の美術館の天井につながっているという趣向。

 

三嶽伊紗さんと今村源さん、日下部一司さんが、一昨年までに道をつくってくれていたので、最後発のぼくはなんだか楽させてもらった。

とにかく今年最初の展覧会が無事オープンした。

今月はまだまだこれから怒濤のように制作物がある。

 

MEMO: 京都市内の駐車場でTIMESは今後ぜったい使わないこと。この日は5000円もとられた。

 

[今はみなfacebookで情報発信する時代だ。ぼくは古典的にブログを使い、外への発信ではなく自分向けの備忘録=リンク集を不定期に綴るだけ。ホームページもいつまでたっても工事中。やっとfacebookでシェアのやり方とコメントの付け方を覚えた段階だ。]

 

 

l'eau et la religion

5 janvier 2019, samedi

 

発酵展の準備その他で落ち着けない正月だったが、3日午前中、ふと思いついて柳谷観音を訪ねた。去年も同じ1月3日に行っている。

自宅から車で10分もかからない山中の寺だが、思っていたよりずっとメジャーで、手入れもゆきとどき、さまざまなしつらえもよい。

柳谷観音

目の神様・柳谷観音に来る目的のひとつは独鈷水(おこうすい)。このコーナーの風情はすばらしい。

水を持ち帰るためのペットボトルを忘れた。

柳谷観音

庭も手入れが行き届いている。庭石の見立てがすごいが、ヘタウマの説明図も味わいがある。

柳谷観音

水琴窟を「心琴窟」と呼んで、音を聴く筒まで用意されている。

すべての手水鉢には花がきれいに浮かべてあって、評判がよいらしく、それをテーマにカレンダーをつくっている。

柳谷観音

傾斜地にあり、階段のある「あじさい回廊」をめぐるのも楽しい。あじさいの季節にまた来たい。

柳谷観音

この寺にも去年の台風の被害があったらしく、一番奥にある愛染堂のうしろに大木が倒れたままになっている。

 

5日朝、新聞でこの春に京都国立博物館で『一遍聖絵』の展覧会があることを知った(4/13〜6/9)。

日本絵画のなかで一番好きな作品だ。

2016年夏に京都芸大の移転基本コンセプトを作ったとき、「テラス」のコンセプト案の中に、『一遍聖絵』の踊り念仏の場面を引用して、《テラス音頭》なるものを仕立てた。

一遍上人絵伝

 

教授会では笑われて、最終案には盛り込まれなかったが、一番気に入っているのがこの部分だ。

 

僧侶が踊る桟敷の下の筋交いに子供がしがみついている。

この描写だけで絵師のするどい観察眼がわかる。

 

場所がどこか調べてなかったが、市屋道場といって、踊り念仏の祖・空也上人の遺跡らしい。

今は金光寺といい、六条通河原町を西に入ったところにある。

中世には境内に市姫を祭ったそうだが、近くの市比賣神社とも関連はあるのだろうか。

市比賣神社には、「漂流するアクアカフェ」でふるまうための水を汲みに行ったことがある()。

 

今年も水の縁起で始まった。