Livre d'artiste par Fluxus artiste Mieko Shiomi

9 juin 2017

塩見允枝子作品集

 

4月から取りかかっていた塩見允枝子先生の作品集のブックデザイン。

6月1日に納品された。

 

1964年以降の塩見先生の「言葉によるスコア」をまとめたもので、「私の終活です」と表紙デザインを頼まれ、引き受けたものの、中身は塩見先生がWordで精緻にレイアウトされていた。

ワープロにすぎないwordでよくもまあ、というお仕事ぶりで、相当時間がかかったことが想像された。

連休中にご自宅におじゃまして、デザインやレイアウトを検討。日本語に斜体をかけられているので、訂正すべく全ページのデータをこちらで打ち直そうかと思ったが、wordのファイルが先生の作品のようで手を付けない方がいいし、その時間もない。

結局、pdfに変換して各ページを画像化し、96%縮小してinDesignファイルに貼り込んでいった。

これが時間がかかった。

 

印刷はひろいのぶこ先生のと同じSwitch.tiffさんに頼んだ。

個人出版なので、経費も先生負担。分厚く重たくならないように、との先生の要望もあって、アーティストブックらしい凝った造本やいい紙も使えず、経費を極力抑える必要があった。結局仕様は、

・60ページ、無線綴じ、B5変型(182x214mm)、300部

・本文=上質紙135kg/表紙=マットコート220kg/見返しに遊び紙タント100kg

 

販売価格も、塩見先生が1500円(税別)と破格に設定されていたので、せめて1800円に、と提案したら、1600円になった。

若い人たちに手に取ってほしいとの、先輩アーティストの温かい配慮だ。

 

表紙が色校よりかなり色が浅くあがってきたので、指摘したところ、代金を大きく値引きしてくれた。

結局、予想以上に本らしい顔ぶりになったので、塩見先生は満足のご様子。

なんとか大役をはたせた。

 

本という形式は、芸術が日常に侵入していく有効な手段と思うが(だからマチューナスはデザインの技術を活かしてさまざまなフルクサス・ブックをつくった)、日本では芸術関連の本は売れない。

アーティストブックももう少し普及すればと思うが、当分無理と思う。

 

京都芸大の芸術資源研究センターが出版協力となり、ウェブページで告知してくれた。

京都芸大は将来出版活動はしないのだろうか。 →[*]

 

 

 

nettoyage du canal Takasegawa

6 juin 2017

 

崇仁高瀬川保勝会チラシ

4月に続いて2回目の崇仁高瀬川保勝会の川掃除。

 

今後いろいろ活用可能な地図をつくる。

上質紙110kg、250枚、当日仕上げ(6月5日出稿・印刷・出荷、翌日納品)。

 

残念ながら今回ぼくは参加できないが、夏など川に入るのは楽しいだろう。

 

le concret et l'abstraction

22 mai 2017 (dimanche)

 

豊田市美術館に遠征。

 

手元に具体芸術研究所 Stiftung für Konkrete Kunst (Reutlngen) が1990年に出した展覧会図録『具体芸術 ART CONCRET』がある。

カバーに1930年にパリで出版されたArt Concret 誌創刊号の1節が復刻印刷されている。

 

ART CONCRET

 

-----

1) 芸術は普遍的である。

2) 芸術作品は実制作以前に精神によって全面的に構想・形成されていなけされていなければならない。それは自然の所与を受け入れるべきでないし、官能や感情の所与も受容すべきでない。われわれは抒情やドラマティシズム、象徴主義なども排したい。

3) 絵画は純粋に造形的な要素、すなわち面と色彩によって全面的に構築されていなければならない。絵画的要素はそれ自身以外の意味を持たない。結果として絵画はそれ自身以外の意味を持たない。

4) 絵画の構築もその要素も簡潔で視覚的に統制可能でなければならない。

5) 技術は機械的でなければならない。すなわち正確であり、アンチ印象主義的でなければならない。

6) 絶対的明晰さのために努力せよ

-----

 

ここにあるのは、主観的・感情的・個人的要素の排除ないし抑制が「普遍的」で「絶対的に明晰なもの」への道であるという信仰である。

それを彼らは「具体的 concret」と呼んだが、ここでの「具体」は、岡崎乾二郎が抽象芸術に望むような身体的認識に関わるものではない。2)に言うように、構想と制作は前者の先行と優位によって分離されているからである。

上記の原文が展示されていたが、内容をわかっているのだろうか。

モンドリアンと異なって、二流の追随者たちはきわめて安易に精神>肉体の西洋的二元論にあぐらをかく。

 

「具体」の語や概念の考察は、フルクサスが重視した「具体」の考察ぬきにありえないが、それも欠落していた。

萬鉄五郎の『仁丹』がなかったことも残念だ。

漱石については買いかぶりすぎだ。コンプレックスの裏返しか。

刺激を受けたのは、シュタイナーの積み木と、熊谷守一の計算ノートくらい。

 

美術史的なものとは異なる「認識」の表明は結構だが、実践的な立場から造形芸術の見直しに同じような関心を持つ者として、総論賛成・各論疑問という以上の感想を持ちえなかった。

これが疑似的な論証(意外と歴史家の手つきに似ていたのは皮肉というほかない)を伴ったキュレーション(展覧会構成)ではなく、表現の域に達していたら、ちがった感想をもったかもしれない。

 

別の一室で開催されていた「追悼・小嶋悠司」展で、久しぶりに小嶋悠司先生に出会う。

人間や動物の屍や切断された断片が混じり合うイメージの出所がどうしても納得できない。

朱色の線で形象をたどるのが浮いて見える。

 

芸術に関して、言葉で表明された他人の「考え」に充たされることはもうないだろう。

ダ・ヴィンチや宮澤賢治など、例外的な芸術家のは別として。